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こだま さだお

児玉貞雄

こだま さだお

1879.1.15(明治12)〜 1945.7.7(昭和20)

明治・大正・昭和期の実業家(三井)、真珠事業家

埋葬場所: 区 種 側 番

 明治陸軍の三羽烏の一人で陸軍大将の児玉源太郎、マツ(共に8-1-17-1)の二男として生まれる。兄は大蔵官僚で国務大臣・伯爵の児玉秀雄(8-1-17-1)。弟(3男)の友雄は陸軍中将、弟(4男)の常雄は陸軍大佐、、弟(5男)の国雄は大同セメント社長、弟(7男)の九一は内務官僚・県知事、妹(3女)のモトは法制史学者の藤田嗣雄(19-1-13)の妻、妹(4女)のツルは木戸幸一(18-1-3)の妻。
 1900(M33)三井物産に入社。上海支店、北京出張所、首席天津支店長代理など重役を歴任した。他に大洋真珠常務、東洋拓殖嘱託なども務めた。
 '38(S13)当局の指導の下で、南洋拓殖、南洋興発、南洋貿易各社の提携により日本真珠株式会社が設立され、三井物産を退職した児玉が初代社長に就任した。株式の半数を南拓が引き受けた。同社は真珠貝採取事業の整備充実、内外市場に於ける生産品需給の調整等を進め、豪州業者に対抗して事業を健全化することを企図した。既存採取船170隻の内97隻を買取り就業し、'40(S15)1500トンの水揚げをみた。しかし、'41 太平洋戦争に突入し操業は困難となり、採取船は物資輸送船に転用され軍の徴用船となった。'45 日本真珠株式会社は終戦とともに閉鎖、解体された。享年66歳。

<大衆人事録東京篇など>


*墓石前面は「兒玉家之墓」、裏面「昭和三十二年六月」と刻み、また墓誌になっている。墓所右側にも墓誌が建つ。裏面の墓誌は児玉貞雄から刻みが始まる。戒名は覺照院静観貞雄居士。妻のシヅ(M17-S32.2.27)は江副廉蔵の二女。二人の間には1男3女を儲ける。長男は児玉宣雄(M42-S49.12.20)。宣雄は東北帝国大学卒業し、愛知時計電機につとめた。妻は幸子(九州帝国大学教授の山口修一の長女)。なお、長女の君子(M42生)は満鉄の川田赳に嫁いだ。二女の文子(T1生)は男爵の小畑年太郎に嫁いだ。三女の英子(T3生)は三井鉱山の岩田欽也に嫁いだ。


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