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こばやし てるひこ

小林照彦

こばやし てるひこ

1920.11(大正9)〜 1957.6.4(昭和32)

昭和期の陸軍軍人(少佐)、帝都防空の雄

埋葬場所: 25区 1種 32側

 東京出身。国士舘中学を卒業後、1938(S13)陸軍予科士官学校に入隊し、'40第53期として卒業、砲兵少尉となる。 のち航空に転科し、'41鉾田陸軍飛行学校に入校。開戦直後に飛行第45戦隊に配属され、嫩江に赴任し、第1中隊に所属した。 太平洋開戦より、戦隊は香港爆撃に参加し、初陣をかざった。 '42機種改変のため内地に帰還、同時に鉾田陸軍飛行学校に甲種学生として入校、同校卒業後の'43.5飛行第66戦隊に配属され、北部満州で国境警備、急降下爆撃訓練にあたった。 '43.11戦闘機操縦者への転換教育のため明野陸軍飛行学校に入校、12月大尉。高松分教場で教官勤務ののち、'44.11帝都防空戦闘機隊の飛行第244戦隊長に補され、24日、東京調布飛行場の戦隊に赴任した。 24歳にして隊長に任命されたことは、当時の陸軍最年少である。戦闘機は「飛燕」・五式戦闘機。
 飛行第244戦隊隊長として率先垂範、果敢な闘志と統率力をもって半年間に84機撃墜(うちB−29を73機)、撃破93機(うちB−29を29機)の輝かしい戦隊総合戦果をあげ、“小林防空戦隊”の名を不動のものとし、かつ個人撃破機数でも戦隊の最多撃墜記録保持者であった。 毎戦出撃して戦果を重ねたため、’45.2.10東部軍司令官の藤江恵輔大将から表彰状と武功徽章乙が授与された。また、同年.5.15には第1総軍司令官の杉山元(15-1-3-11)陸軍大将より飛行第224戦隊に感状が授与された。6月少佐。 7月16日、潮岬南方における激戦を最後に、戦隊は本土決戦にそなえ航空兵力温存策に移行されたため出撃禁止の命令をされたが、25日、中部地区空襲の報により、戦闘教練の名目で独断出撃、八日市上空でF6F艦載機群を奇襲し、12機を撃墜した。 この軍紀違反に対し厳しい叱責が加えられたが、天皇陛下の御嘉賞のお言葉が伝えられ、無断出撃は不問に付された。 その後、本土決戦にそなえていたが、終戦をむかえた。
 戦後、サラリーマンになるも、航空自衛隊発足と共にパイロットとして復員。3等空佐。 ジェット・パイロットへの道を歩み、米国に留学を経て、ジェット機の操縦士となる。訓練中いT−33練習機の事故で殉職した。 なお、事故の際、二人乗りのT−33で前方座席の副操縦士を先に脱出させ、悪天候の中、制御不能の機体が市街地に墜落しないよう脱出せずに操縦し、浜松基地への着陸進入中に機体もろとも爆死した。享年36歳。 夫人の小林千恵子(1924.10.4-2005.2.15 同墓)が著した『ひこうぐも 撃墜王小林照彦少佐の航跡』がある。

<日本陸海軍航空英雄列伝>


墓所 墓誌

*墓石は和型「小林家之墓」。左面が墓誌となっており、小林照彦之霊、没年月日、行年が刻む。 墓所右側に「正六位 勲五等 故二等空位 小林照彦之銘」と題された小林照彦の功績が刻む「頌徳誌」が建つ。

<小泉明様より情報・写真提供>


【多磨霊園に眠る撃墜王】
 撃墜王とは多数の敵機を撃墜したパイロットに与えられる称号。航空機が戦争に使用された第一次世界大戦より、10機以上撃墜した者をフランスでアス(切り札)と呼んだのが起源。現在は5機以上の撃墜をした者を称す。
 飛行第244戦隊の小林照彦以外で、多磨霊園に眠る撃墜王としては、隼戦闘隊を指揮した陸軍少将の加藤建夫(20-1-12-19)、ラバウルでの航空戦で27機を撃墜した海軍少佐の笹井醇一(18-1-17)がいる。


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