メイン » » » 笹井醇一
ささい じゅんいち

笹井醇一

ささい じゅんいち

1918.2.13(大正7)〜 1942.8.26(昭和17)

昭和期の海軍軍人(少佐)、撃墜王

埋葬場所: 18区 1種 17側

 東京出身。海軍造船大佐の笹井賢二(同墓)の長男。海兵67期。1941(S16)10月1日海軍中尉。11月17日台南航空隊附として出征。
 日本海軍では兵学校を卒業した者は、はじめから士官としてどんな古参で優秀な下士官搭乗員より上位の者として、上官として優遇される。 かといって、新米搭乗員が、古参の下士官搭乗員にかなうわけもなく確執の要因ともなっていたが、台南空では実力の世界で、下士官搭乗員の、坂井一飛曹らが、新米士官をびしびし鍛え、その中で笹井少尉はめきめき頭角を現した。
 開戦後マニラ、ボルネオ、スラバヤ、ジャワと転戦しラバウルに向かいラエに転出した。ラエで初めて坂井一飛曹や西沢一飛曹らの上官(中隊長)としてコンビを組んだ。 フィリピン攻略戦、ラバウルでの航空戦で27機を撃墜。坂井三郎、西沢広義、太田敏夫と共に零戦撃墜王と称される。 「ラバウルのリヒトフォーヘン」(第一次世界大戦のドイツ撃墜王・通称レッドバロン)と綽名されたほどで、同時三機撃墜など離れ業を演じるなどの活躍を見せた。 ニューギニア戦線の戦況悪化で、本拠のラバウルに戻りガダルカナル攻防戦が始まる。 1942(S17)8月7日坂井一飛曹が負傷退場で、涙の別れをした後8月26日ガダルカナルで米国海軍マリオン・カール大尉に撃墜されソロモン上空で戦死した。享年24歳。
 坂井三郎が戦後著した『大空のサムライ』には「階級を超えた友情」と著され、笹井中尉と戦死した列機の本田敏秋二飛曹への深い親愛をあらわしている。 醇一は戦死後、二階級特進し海軍少佐に任命された。叔母は大西滝冶郎(海軍中将、特攻の父、終戦翌日自決)の妻。 横浜航空隊飛行長田代義夫少佐の義弟。ニックネームは「軍鶏」。

<日本陸海軍総合事典>
<日本陸海軍人名辞典など>
<五輪塔様より情報提供>


*公認撃墜機数27は海軍兵学校出身者中ではトップ。

*母は久栄。久栄の実家の松見家は一橋家の御典医の家系で、父の文平は一橋大学の創立者にして府会議員であり、教育界や政界にも知られる名家。 妹の嘉子(後年、淑恵と改名)は「特攻の生みの親」「特攻の父」と言われている海軍中将の大西瀧治郎の妻となる。 よって、醇一から見て、大西瀧治郎は叔父にあたる。大西瀧治郎の墓所は神奈川県横浜市鶴見区にある鶴見総持寺。 総持寺の墓所には石原裕次郎の他、内閣総理大臣を務めた清浦奎吾、芦田 均、浅野財閥の浅野総一郎ら多数眠る。


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・さ行 | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。