東京出身。海軍造船大佐の笹井賢二(同墓)の長男。海兵67期。1941(S16)10月1日海軍中尉。11月17日台南航空隊附として出征。
日本海軍では兵学校を卒業した者は、はじめから士官としてどんな古参で優秀な下士官搭乗員より上位の者として、上官として優遇される。かといって、新米搭乗員が、古参の下士官搭乗員にかなうわけもなく確執の要因ともなっていたが、台南空では実力の世界で、下士官搭乗員の、坂井一飛曹らが、新米士官をびしびし鍛え、その中で笹井少尉はめきめき頭角を現した。
開戦後マニラ、ボルネオ、スラバヤ、ジャワと転戦しラバウルに向かいラエに転出した。ラエで初めて坂井一飛曹や西沢一飛曹らの上官(中隊長)としてコンビを組んだ。フィリピン攻略戦、ラバウルでの航空戦で27機を撃墜。坂井三郎、西沢広義、太田敏夫と共に零戦撃墜王と称される。「ラバウルのリヒトフォーヘン」(第一次世界大戦のドイツ撃墜王・通称レッドバロン)と綽名されたほどで、同時三機撃墜など離れ業を演じるなどの活躍を見せた。公認撃墜機数27は海軍兵学校出身者中ではトップ。
ニューギニア戦線の戦況悪化で、本拠のラバウルに戻りガダルカナル攻防戦が始まる。1942(S17)8月7日坂井一飛曹が負傷退場で、涙の別れをした後8月26日ガダルカナルで米国海軍マリオン・カール大尉に撃墜されソロモン上空で戦死した。享年24歳。
坂井三郎が戦後著した『大空のサムライ』には「階級を超えた友情」と著され、笹井中尉と戦死した列機の本田敏秋二飛曹への深い親愛をあらわしている。醇一は戦死後、二階級特進し海軍少佐に任命された。叔母は大西滝冶郎(海軍中将、特攻の父、終戦翌日自決)の妻。横浜航空隊飛行長田代義夫少佐の義弟。ニックネームは「軍鶏」。
<日本陸海軍総合事典> <日本陸海軍人名辞典など> <五輪塔様より情報提供>
*墓所には4基建つ。入口正面「笹井家之墓」、裏面「昭和二十八年八月建之 笹井賢二」。右面は墓誌となっており、笹井賢二(海軍造船大佐で笹井醇一の父)、とよ(変体仮名・くずし字)+ 比(士+冗)という旧漢字が刻む(ひさえと読むのかは不明)。とよ は笹井醇一の母であり、多くの資料では「久栄」と改名して記されているものが多いが、墓石には久栄という漢字は刻まない。「笹井家之墓」の左隣に「海軍少佐 従六位 勲五等 功三級 笹井醇一 碑」が建つ。裏面は「戦歴」と題し略歴が刻み、最後に「昭和二十八年八月建之 父 賢二」と刻む。
*笹井醇一碑の裏面「戦歴」の全文は下記である。海軍兵学校第六十七期出身。大東亜戦争に於て海軍戦闘機指揮官としてマニラを始め、西南太平洋各方面に転戦。昭和十七年八月二十六日ソロモン諸島洋上航空戦に於て戦死す。当時海軍中尉。特旨に依り二階級進級の栄え賜はる。行年二十五歳。
*笹井賢二(1883-1971.9.15)は、1910.6(M43)海軍造船中技師任官となり、最終階級は造船大佐。賢二の妻(醇一の母:1894.7-1981.9.30)は とよ(後年、久栄と改名:墓石には違う旧漢字が刻む)。旧姓は松見であり、代々一橋家の御典医の家系。父(醇一の祖父)は松見文平であり、順天求合社(順天堂大学)3代目校長、東京市(東京府)会議員を務め、教育界や政界にも知られる名家。妹の嘉子(後年、淑恵と改名)は「特攻の生みの親」「特攻の父」と言われている海軍中将の大西瀧治郎の妻となる。 よって、醇一から見て、大西瀧治郎は叔父にあたる。大西瀧治郎の墓所は神奈川県横浜市鶴見区にある鶴見総持寺。 総持寺の墓所には石原裕次郎の他、内閣総理大臣を務めた清浦奎吾、芦田 均、浅野財閥の浅野総一郎ら多数眠る。よって、醇一からすると大西瀧治郎は義理の叔父である。
*賢二と久栄(とよ)の間には1男2女を儲け、長男で一人息子であった醇一が戦死してしまったため、同墓所にある「田邊家」と「田代家」は娘が嫁いだ家であると推察する。
第148回 零戦 撃墜王 エースパイロット 笹井醇一 お墓ツアー 「多磨霊園に眠る10人の大空に挑んだ男たち」シリーズ9
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