東京出身。父は島田長左エ門(同墓)。1933.7(S8)陸軍士官学校卒業(45期)。所沢飛行学校卒業、明野飛行学校(戦闘機操縦課程)卒業。
'38.3 大尉、同.8 飛行第11戦隊第一中隊長に就任。'39.5.11 ノモンハン事件勃発に伴い、同.5.24 飛行第11連隊はハイラルに移動。同.5.27 「九七式戦」低翼単葉戦闘機に乗りソ連軍のポリカルポフ「I-16」単葉戦闘機を3機撃墜。同.5.28 自軍よりも数倍の敵機と遭遇し、15分間の戦闘で敵戦闘機22機を撃墜。世界航空史で未曽有の戦果を挙げた。その後も休むことなく出撃し、敵機と空戦を行い計40機を撃墜し、陸軍戦闘隊のエースパイロットとして活躍。
同.9.15 ノモンハン事件終結の前日、タムスクブラク攻撃に参加。ソ連軍との空中戦を展開したが、未帰還となり戦死と特定された。従6位 勲5等 功4級。享年29歳。没後1階級特進し最終階級は陸軍少佐となった。
体格は飛行機搭乗員にしては大柄で珍しく、性格は温厚で物静かであったが、操縦桿を握ると豹変したという。指揮官としても能力を発揮し、島田が指揮する第1中隊は180機撃破し、飛行団の中でも最高の撃墜戦果を記録した。
*墓所には「島田家之墓」と「平尾家之墓」の二基建つ。「島田家之墓」の裏面「陸軍少佐 従六位 勲五等 功四級 島田健二墓 / 陸軍大将植田謙吉書」。左面「島田健二墓 / 征空院釋健忠居士 / 昭和十四年九月十五日戦死 行年三十才」。右面は墓誌となっている。墓所左側に「戦歴」と題した島田健二の碑が建つ。碑の最後に「昭和十六年九月十五日 陸軍航空兵 佐野口雄二郎 撰文」と刻む。
*多磨霊園に眠る撃墜王は、隼戦闘隊を指揮した陸軍少将の加藤建夫(20-1-12-19)、ラバウルでの航空戦で27機を撃墜した海軍少佐の笹井醇一(18-1-17)、帝都防空の雄と称された飛行第244戦隊の小林照彦(25-1-32)らがいる。