≪詳細な略歴は調査中。ご存知の方はご一報ください≫
1920(T9)依田耕一と共に名古屋にて内外編物株式会社('85株式会社ナイガイに社名変更)を創業し、靴下の製造を始めた。創業当初は依田が社長、小林が副社長でスタートし、後に小林は社長となる。'23東京販売所を開設。靴下の他に、紳士服や婦人服にも進出し、後にナイガイはラルフローレンで有名な大手アパレルメーカーへと成長していった。
実業家の傍ら、ロータリークラブに所属するロータリアンとしても著名で活躍した。太平洋戦争で一時解散状態であったが、戦後、'49.3.23(S24)東京仮ロータリークラブができ会長に推される。
同.3.29旧登録番号855で再登録され、日本のロータリークラブが国際ロータリーに復帰した。日本のロータリーの創始者は米山梅吉と福島喜三次であったが、米山は1946.4.28に、福島は1946.9.17に復帰を見ることなく相次いで亡くなっていた。
国際ロータリーに復帰した東京クラブは、同.4.27工業倶楽部でのその例会で伝達式を行ない、ミーンズから会長であった小林にチャーターが渡された。ここへは当時の首相の吉田茂も出席し祝辞を述べ、GHQ総司令官のマッカーサー元帥のステートメントもあった。これは、戦後の日本で国際団体へ加入が許された最初となった(宗教関係を除く)。'49.7.1日本に地区が復活。
'57日本人として4番目の国際ロータリー第1副会長(R・I第1副会長)に選任される(〜'59)。また、同年、全国組織が発足し「ロータリー米山奨学委員会」が設立され、初代委員長に就任した。国際ロータリー発行の「Service is My Business」を翻訳したものは現在も多くのロータリアンに読まれている。
戦後の日本のロータリー再建に尽し、日本人初のRI会長と期待されていたが急死。享年77歳。1970フィラデルフィアのロータリークラブ創立50周年記念行事内で、幹事歴任50年の幹事表彰がメインとして執り行われた。その際に、東京クラブの小林が幹事歴任11年という功績が称えられた。
【ロータリーのサービス精神「The Four-Way Test」】
『THE FOUR-WAY TEST』
Of the things we think, say or do
1. Is it the TRUTH ?
うそ偽りのない事実のことだろうか?
2. Is it FAIR to all concerned ?
関係者皆に公明正大であろうか?
3. Will it build GOOD WILL and BETTER FRIENDSHIPS ?
善意と友情の現われになるだろうか?
4. Will it be BENEFICIAL to all concerned ?
関係者みなに有益だろうか?
ロータリーのサービス精神はモットーではなく物差しが大事と説いている。何か物事を考える時や口で言い表す時、また行動に出る時には必ずこの4本の物差しで測ってみて、全部あっているかどうか吟味する。
そのような習慣をつけましょうというものである。4本の物差しは「正直」「公正」「善意」「有益」。このチェックを「フォアウェイ・テスト」と言い、ロータリーのサービス精神である。
小林が戦後間もない時に、内外編物会社社長としてアメリカへ商談に行きました。相手はついこないだまで戦争で戦っていた相手であり、もちろん初対面でもあるわけで、不安な気持ちでの商談でした。
この状況で小林は最初にこう切り出しました。「私は皆さんに初めてお目にかかる次第で、その上、商売上のシキタリもよく存じません。しかしながら、私たちは全て“The Four-Way Test”の精神に則ってご相談したいと思います」。
そして、4つのテストを印刷した紙を席上の人々に回わしてから、小林は続けてこう言いました。「これは私がロータリーで知った案内役です。これをシッカリ守っておれば、間違いないと思っておりますし、今日はこの精神を体して、ここに皆様とお会いしておるのであります」。
商談相手の席上の人々は、その4つのテストを読み、会議の空気は急に和やかになり、交渉はとんとん拍子に進み、談笑の中で双方の好ましい商談が成立しました。後に商談相手の幾人かがロータリアンであることが判りましたが、ロータリーのサービス精神が証明された逸話として今でも語り継がれています。