鹿児島県川内市出身。父は川内製油・川内川電気・川内川発電所を設立した上野喜左衛門(4代目・同墓)の子。
長兄に日本水電取締役総支配人・貴族院議員・鹿児島県商工会議所会頭などを務めた上野喜左衛門(5代目・次郎七)、次兄に積水化学工業社長などを務めた上野次郎男らがいる。グロンサンで有名である中外製薬の創業者である上野十蔵は叔父。
1933(S8)京都帝国大学法学部卒業。'35.7静岡瓦斯株式会社入社。'40.2同社取締役に就任。'48.5同社取締役社長に就任。'53静岡ロータリークラブ副会長、'59会長。
ガス協会のガス事業法案対策委員会委員長や通商産業省内に設けられた電気及びガス関係法令改正審議会の委員などを務めた。享年75歳。
*墓石は和型「上野家之墓」。次郎吉が昭和三十五年九月に建之した旨が刻む。右側に墓誌がある。父で4代目の上野喜左衛門から始まる。喜左衛門の戒名は超常院釋周倫。母は兼子。次郎吉の戒名は大徳院釋慈照。妻は美知恵。
*上野家は薩摩川内の豪商であり、先代が死亡すれば直ちに【喜左衛門】を襲名する習わしがある。江戸時代の初代から1971に没した5代目まで踏襲された。
初代、2代目は江戸時代天保年間の頃から、川内地方(鹿児島県北部)で、焼酎・ろうそくを製造販売し財を築いた。3代目(1836-1907)は西南戦争直後に大きく材をなし、川内川流域の広大な田畑・山林を所有。
海運業や製糸工場などを興し、豪商としての地位を確立した。4代目(1875-1921.11.30 同墓)は曽木発電所事業に多額の出資を行い、野口遵を物心両面から支援し、発電所建設に尽力。
自らも電力化学事業にも乗り出し、「川内製油」「川内川電気(株)」を設立。川内川発電所を建設し、野口遵の経営する日本窒素肥料(株)に送電を開始している。
「川内川電気(株)」は、後に「日本水電(株)」と対等合併するが、これが九州のトップ企業「九州電力」の前身となる。4代目の弟に、グロンサンで有名である中外製薬の創業者である上野十蔵(1892-1972 青山霊園1種ロ12-7)がいる。
5代目(1901-1971)は、幼名は次郎七。日本水電に入社し、一年後、取締役総支配人になる。4代目が築いた野口遵との協力支援関係をさらに発展させ、川内川流域を舞台にして日本の電力化学工業発展の一翼を担い、事業を多方面に拡大した。
貴族院議員や鹿児島県商工会議所会頭を14年間務めるなど財政界でも活躍した。5代目の次弟の上野次郎男(1905-1971)は日本窒素肥料の常務取締役を経て、1951積水化学工業社長となり、プラスティック加工の分野で最大手メーカーに発展させ、積水化学の中興の祖といわれている人物。
5代目の子の上野喜一郎(1929-2008)は南国殖産会長、南国交通会長、鹿児島読売テレビ社長を務めた。