山梨県西山梨郡山城村(甲府市)出身。代々医家の家に生まれる。本名は林 髞(はやし たかし)。
甲府中学校(県立甲府第一高校)在学時より散文や短歌を投稿するなど創作を始め、1915(T4)卒業すると、詩人の福士幸次郎に師事し上京。仲間たちと同人誌への投稿やドイツ詩の紹介を行い、福士らが中心となり「LA TERRE」(ラ・テール、のちの「ヒト」)が創刊されるや、翌年、本名の「林髞」名義で詩『寂しき微笑』が掲載された。慶應義塾大学医学部に入学し、在学中に福士が編集委員を務めた詩誌「楽園」が創刊されると、「林久策」のペンネームで訳詩・散文を発表した。
1924慶應義塾大学医学部卒業。同大学生理学教室の助手となる。'27(S2)講師となり生理学講義を担当。'28医学博士号取得。'29助教授。'32ソ連のレニングラード(ペテルブルク)へ留学し、生理学者のイワン・パブロフのもとで条件反射学を研究。'33帰国。
研究活動の傍ら、医学随筆の寄稿も行い、'34(S9)科学知識普及会評議員も務めた。同じ評議員メンバーの縁で知り合った推理小説・空想科学小説家の海野十三(4-1-25)の薦めで、「新青年」11月号に短編探偵小説・処女作『網膜派視症』を発表。この時の筆名「木々高太郎」が以降定着する。『睡りの人形』『青色鞏膜』を立て続けに発表。
'35推理作家の甲賀三郎が、「ぷろふいる」誌上に連載した『探偵小説講話』をめぐり、甲賀三郎と木々高太郎と探偵小説の芸術性、「本格」と「変格」の是非を問う大論争が繰り広げられた(探偵小説芸術論争)。 甲賀は本格的探偵小説の非芸術性を主張し、「本格探偵小説」は文学性よりも探偵的要素を重視したものであり、探偵趣味を含んだ「変格探偵小説」は「本格探偵小説」から区別されるべきものであるとする「探偵小説芸術論」を提唱した。これに対して木々は、論説「愈々甲賀三郎氏に論戦」を発表、謎に対する論理的思索とそれによる謎の解決を探偵小説の要素であるとし、探偵小説の芸術性を主張した。更に木々は江戸川乱歩(26-1-17-6)の探偵小説は本格のなぞ解きに偏しすぎたと批判し、あくまでも文学的小説でなければならぬと主張。これに対して乱歩は「そのためになぞ解きを強調する」と反論した。'36探偵小説芸術論争での持説の「探偵小説芸術論」を実践した作品として、「新青年」に長篇『人生の阿呆』を発表。この作品で第4回直木賞を受賞した。
探偵小説家として活動しつつも本業である大脳生理学者としても秀逸な業績を残した。'41研究動員を受け陸軍科学研究所嘱託となる。'45林研究所を創設して所長になり、戦後、'46慶應義塾大学医学部教授となった。なお、この時期(1939-1944)は本名の「林髞」名義で多くの書物を刊行。主な学者としてのこの時期の著作に、『私達のからだ』『科学論策』『条件反射学方法論』『百万人の生理学』『綴方と自然科学』『パスツール』『生理学』『科学への思索』『実習生理学』『科学への憧憬』『科学人史話』『研究室秋冬』『生理学大意 総論』『私たちの呼吸』『小さな生理学 小国民理科』など多数発刊し、戦後も大脳生理学者として頭のはたらきなどの頭脳関連の書物、翻訳書を多数出版した。
戦後探偵作家活動も再開。'46『推理小説叢書』を監修。戦前までの「探偵小説」という呼び方を、「推理小説」に変えるよう提唱。戦後定着していくことになるきっかけをつくった。同年『新月』で第1回探偵作家クラブ賞短篇賞受賞。'51復刊された「三田文学」の編集委員となり、表紙や裏表紙のデザインも手掛けた。また松本清張の才能を見出し『或る《小倉日記》伝』を三田文学で発表したことで芥川賞受賞の後押しをした。'52慶応義塾大学推理小説研究会の顧問。'53日本探偵作家クラブ(日本推理作家協会)第3代会長に就任。初代会長が江戸川乱歩、二代目会長が大下宇陀児(18-1-12)。
'60『頭のよくなる本』で「頭脳パン」を提唱。米ではなくパンを主食にするべきと主張した。'63同人誌「小説と詩の評論」の創刊を主宰し新人育成にも力を入れた。'65慶應義塾大学を停年退官し、名誉教授。'67第一詩集『渋面』、'69第二詩集『月光と蛾』を刊行し、'69.4第三詩集の構想中に体調不良で入院。半年後に心筋梗塞のため聖路加国際病院にて逝去。享年72歳。