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おおした うだる

大下宇陀児

おおした うだる

1896.11.15(明治29)〜 1966.8.11(昭和41)

大正・昭和期の探偵小説家

埋葬場所: 18区 1種 12側(木下家)

 長野県上伊那郡中箕輪村(箕輪町)出身。木下甚五郎、やす(共に同墓)の二男として生まれる。本名は木下龍夫。別名、XYZ。幼少期より勉学に優れていたため、小学校卒業を前にした木下家は経済的に厳しい状況であったが、母が中学に入るべきだと説き、父も了承し、長野県立松本中学校へ進学。このころより科学技術者の道を志す。
 第一高等学校を経て、1921(T10)九州帝国大学工学部応用化学科卒業。商工省の外郭団体である臨時窒素研究所に勤務。同じ職場に「新青年」の雑誌に探偵小説を書いていた甲賀三郎がおり、彼の活躍に触発され、自分も書けるのではないかと思い、探偵小説を書き始める。1925(T14)『金口の巻煙草』を森下雨村に送り、採用され「新青年」に掲載される。これがデビュー作となった。半年後には小説や随筆を毎月のように掲載するようになる。
 なお、窒素研究所の月給は85円であり、この金額では郷里の両親へ仕送りができなかったようである。デビュー作の原稿料が40円であり、この副収入はとても嬉しかったようだ。作家志望ではないにも関わらず、以降も書き続けていたのはそのような理由であった。
 '27(S2)長篇『闇の中の顔』を発表。'28 窒素研究所が解散することになり、他の企業から就職の話もあったが、これを機会に退職をして文筆業に専念することを決める。この頃、歌子(同墓:墓には歌)と結婚。原稿料だけになり収入が不安定になるが、歌子が生活面のやりくりをして支えることで、作家専業に集中できるようになる。
 '29 長編『阿片夫人』や「週刊朝日」に『蛭川博士』を連載発表し注目を集め、以後、江戸川乱歩(26-1-17-6)や甲賀三郎と肩を並べる探偵小説の代表的作家となり、戦前の人気作家として、短編や長編を量産した。特に通俗的な犯罪心理や怪奇幻想小説を中心に、犯罪心理の描写に冴えをみせ、犯罪動機を重視する一方、超人的名探偵を否定しており、社会派推理小説の元祖、SFの先駆者の一人と称される。『空中国の大犯罪』や『ニッポン遺跡』といった作品を執筆し、星新一の文壇デビューに一役買った。
 '31「新青年」に『魔人』を連載。この作品に対し、先輩でありライバルである甲賀三郎が東京日日新聞に『魔人』を批判する評論を掲載した。探偵小説は純粋に謎解きの面白さを追求する「本格」でなければならず、そうでないものは「変格」であり、『魔人』は探偵小説ではないという主張である。これに対して大下は、探偵小説を謎を解く小説だとのみ考えれば自分の作品は当てはまらないかもしれないが、そもそもは読者がその読物によって満足させられさえすれば良いのではないかと反論した。これを「本格・変格論争」と言われたが、横溝正史は「甲賀は論客で堂々と論陣を張っていたのに対し、大下はあまり議論を好まない方であった」と語っている。大下と甲賀のスタンスは異なるライバルであったが、プライベートでは良き仲間であり、甲賀没後に甲賀の家族が生活に苦しんだ際には真っ先に手を差し伸べていた。
 '38 国家総動員法が制定され、全てが戦争遂行のための体制に組み込まれる。'41.12.8 太平洋戦争が勃発すると戦時体制が本格化し、軍部より探偵小説が弾圧され、発表の場を無くした。このような中でも、子供向け小説や化学小説、戦争に関する随筆や執筆などをして活動を続けた。しかし戦局は次第に厳しくなり、'44.9以降は、雑誌の掲載はほぼなくなる。この時期、雑司ヶ谷(豊島区池袋東)に住んでいた木下は、近所の人たちの推薦で、雑司ヶ谷五丁目町会の町会長になる。空襲が激しくなると、妻子を疎開させるも、自身は自宅にとどまり、配給の世話や民生面での仕事に奮闘した。'45.4.13 雑司ヶ谷周辺は空襲で焼け野原となり、自宅も地下壕以外は灰となるも、町会長の責任から戦争が終わるまで地下壕住まいをした。なお、同じ時期、池袋駅を挟んだ西側の町会副会長は江戸川乱歩で、同じように奮闘していたという。
 終戦時は自決も考えたが思いとどまる。'46 春頃より、江戸川乱歩宅にて月一回探偵小説について話し合う土曜会が発足し参加。翌年、'47.6.21 土曜会一周年にあわせて日本探偵作家クラブが発足した。初代会長は江戸川乱歩で、大下は幹事を務めた('49から副会長)。同年、探偵文壇復活に合わせ、『柳下家の真理』を「宝石」に、『不思議な母』を探偵小説誌「ロック」に発表。戦後の作風は犯罪心理を追求する文学的な作品に転換した。この年から、NHKラジオのクイズ番組『二十の扉』のレギュラー解答者となり人気を博し、国民的ラジオスターになる。この番組は、'47.11.1 からスタートし、大下は第一回目から出演、'60.3 までレギュラー回答者を務めた。
 '48.12〜'50.5 雑誌「宝石」で連載をした『石の下の記録』が、'51 第4回探偵作家クラブ賞長編賞を受賞した。この作品は空襲で自宅が焼失したため、地面を約2メートル掘り下げた地下壕を、住まい兼町会事務所として暮らしていた時に、この焼け跡の掘っ建て小屋でペラペラのざら紙で書いた作品と回顧している。内容は腐敗した政治家、若さにうずいている未亡人、頭脳と美貌に恵まれた学生起業家、不良少年の仲間たちなど、それぞれの人物の性格を浮き彫りにしたうえで、それらの人々の接触によって巻き起こる事件を通じて、アブレゲール(戦後派)の精神を深く掘り下げた作品である。この作品により、戦後風俗小説としても大いに評価された。大下はこのアブレゲール(戦後派)の精神を深く分析した作家と称された。アブレゲールとは戦前の独特な物の考え方にとらわれずに行動する若者たちのことである。戦前の価値観の中で懸命に生きる自身は敗戦を機に百八十度変わった世の中に戸惑いながらも、新しい感覚で生きる若い人たちのことを探究した。なお『石の下の記録』の受賞に対して関西探偵作家クラブ会報「KTSC」誌上で覆面子“魔童子”によって「タライ廻し」と揶揄された。のちに魔童子の正体は、高木彬光と山田風太郎であったことが判明している。
 '52.7 探偵作家クラブの二代目会長に就任(〜'54.7)。'53『畸形の天女』は江戸川乱歩、角田喜久雄、木々高太郎(10-1-6-3)との連作である。他に海野十三(4-1-25)、木々高太郎と共同による連作『風間光枝探偵日記』などがあり、単に同じキャラクターを使っての競作ではなく、各話には繋がりがあり、回想がある等、時系列が見られる連作作品を発表した。
 同.3.21 母校である中箕輪小学校で大下宇陀児の講演会が開かれる。二年後、母校が箕輪中部小学校に改称するにあたり、'55.5 校歌の作詞の依頼があり快諾し提供した。のち、'64.7 箕輪中部小学校へ児童の作文奨励のために100万円を寄附し、大下宇陀児教育基金が誕生する。
 '56.4 還暦祝を兼ねた『虚像』の出版記念会が探偵作家クラブ主催で開催された。その三か月後に胃の切開手術を行う。手術後も小説や随筆の執筆を続け、'57 NHKラジオの「お笑い職業案内」に毎週出演した。'58.9 伊之内緒斗子の別名で科学小説『巴須博士の研究』を発表。同じ頃『自殺を売った男』が映画化され公開された。同.11.26 妻の歌子が脳出血で急逝。愛妻を失った衝撃は強く、立ち直るのに時間がかかった。
 '65.7.28 江戸川乱歩が死去した際には、同.8.1 推理作家協会葬が行われ、大下が葬儀委員長を務めた。'66.4 文芸家協会から誕生日前であったが古希のお祝いを受けるも、同.7 肝臓がんの診断を受け治療を始める。同月、江戸川乱歩一周忌に出席したが、翌月、心臓発作の症状が発症。同.8.7「暮らしの手帖」に随筆を執筆したが、4日後に心筋梗塞のため逝去。享年69歳。同.8.15 築地本願寺で葬儀が執り行われた。弔辞は日本推理作家協会理事長だった松本清張が読んだ。

<コンサイス日本人名事典>
<郷土歴史人物事典(長野)>
<生誕120年 探偵作家 大下宇陀児(箕輪町郷土博物館)>


墓所

*正面和形「木下家代々之墓」、左面「紀元二千五百八十八年之秋建之 木下積善 木下龍夫」、右面「正 昭和三年五月三日逝 木下甚五郎 六十三才 / 安 大正十五年九月五日逝 木下やす 六十才 妻」と刻む。裏面「正翁良學清信士 / 安室知念清信女」と刻む。

*墓所左側に前面「木下龍夫筆名 大下宇陀児と その妻木下歌 ここに眠る」と刻む墓誌碑が建つ。右面に「昭和三十四年三月 大下宇陀児 建之」。裏面は「龍雄」「歌」(M38.12.31-S33.11.26)の二人の生没年月日が刻む。

*甲賀三郎(1893.10.5-1945.2.14:本名は春田能為)の墓は慈眼寺 (東京都世田谷区瀬田 4-10)に建つ。
 1945.2 甲賀三郎は少国民文化協会の学童疎開の緊急会議で九州に出張した。その帰途、超混雑の鈍行列車内で急性肺炎を発症。深夜に岡山駅で降り、同.2.13 友沢病院に入院したが、戦時中の混乱のため応急注射液が用意できず、同.2.14 逝去。享年51歳。甲賀三郎が亡くなる5年前、1940.3.21 旧制松本高校文科乙類に在学中であった甲賀三郎の長男の春田和郎が北アルプスで遭難死している。空襲が激しい戦争中に一家の大黒柱と男手を失い遺された甲賀三郎夫人や家族たちが困窮に瀕したときに真っ先に援助したのが大下宇陀児であった。大下宇陀児とは一高の先輩後輩であり、同じ応用化学を学び、就職先も窒素研究所と同じであった。性格も作風も対照的であったが、良きライバル良き仲間であった。これらの逸話は、甲賀三郎の子息の春田俊郎が『父、甲賀三郎を憶う』に書いている。



第497回 社会派推理小説の元祖 大下宇陀児 お墓ツアー


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