三重県名賀郡名張町(名張市)出身。官吏・特許辨理士を務めた平井繁男・きく(共に同墓)の長男。本名は平井太郎。平井家の祖先は伊豆伊東の郷士であり、後に津藩(三重県)の藤堂家に仕え、祖父の平井杢右衛門(同墓)まで藤堂藩家老として仕えた。
旧制愛知県立第五中学校(愛知県立瑞陵高等学校)を経て、早稲田大学政治経済学部卒業後、貿易会社社員や古本屋、支那ソバ屋など職を転々とし、1917(T6)鳥羽造船所電機部に就職し、社内誌の編集や子どもへの読み聞かせる会を開くなど地域交流の仕事を任された。1年4か月で退職するが、読み聞かせる会で知り合った小学校教師をしていた村山隆子(同墓)と結婚した(1919)。
この頃より創作活動を始め、'20アメリカの詩人のエドガー・アラン・ポーの名前をもじって筆名を江戸川藍峯とし、'22に江戸川乱歩と改めた。'23「新青年」に掲載された『二銭銅貨』でデビュー。'25『D坂の殺人事件』『心理試験』『パノラマ島奇譚』『屋根裏の散歩者』『人間椅子(いす)』など、独創的なトリックと斬新な着想による短編、欧米の探偵小説に強い影響を受けた本格探偵小説(推理小説)を次々と発表。探偵小説をポピュラーな地位に押し上げた。'26.12〜'27.2 朝日新聞に『一寸法師』を連載。評判良く映画化されたが、乱歩は小説の出来に満足が出来ず休業を宣言し放浪の旅に出たという。
'28(S3)14か月の休筆後、『陰獣』を発表。「前代未聞のトリックを用いた探偵小説」と横溝正史から絶賛され評判になる。「エロ・グロ・猟奇・残虐趣味」を前面に押し出した通俗長編『蜘蛛男』を講談倶楽部に連載し大好評を得る。当時の昭和恐慌や戦争に向かう時代背景に乱歩の描く「エロ・グロ・ナンセンス」といわれる退廃的気風が世間に受け入れられる。翌年、『黄金仮面』を発表。'31『江戸川乱歩全集』全13巻が平凡社より刊行されると、約24万部売上るベストセラーとなった。
乱歩は長編小説を描くことが苦手であり、'34『悪霊』では3回中断するなど行き詰まり不評を買い、休筆も増え、その間に、大脳生理学者でありながら探偵小説作家でもあった木々高太郎(10-1-6-3)の台頭など乱歩の人気が下降した。
'35乱歩と同時期に活躍した推理作家の甲賀三郎が、「ぷろふいる」誌上に連載した『探偵小説講話』をめぐり、探偵文壇に論争が巻き起こり、翌年、甲賀三郎と木々高太郎と探偵小説の芸術性、「本格」と「変格」の是非を問う大論争が繰り広げられた(探偵小説芸術論争)。 この時、木々は乱歩の探偵小説は本格のなぞ解きに偏しすぎたと批判し、あくまでも文学的小説でなければならぬと主張。これに対して乱歩は「そのためになぞ解きを強調する」と反論した。
しかし、創作意欲とアイデアが枯渇した乱歩は、'35頃より評論家としての活路を見出し、評論集『鬼の言葉』を刊行。また、海外作品に通じ、翻案・リライト小説として『白髭鬼』(1931)、『緑衣の鬼』(1936)、『幽鬼の塔』(1936)などを発表した。更に、'36少年向けとして、明智小五郎や少年探偵団が活躍する『怪人二十面相』などの作品を少年倶楽部に初めて発表。少年読者に圧倒的な支持を得てシリーズ化された。
'37頃より戦争により検閲が強まり、探偵小説も表現の自由を制限されていき、'39検閲が激しくなり削除訂正が頻発し『芋虫』は発禁。'41太平洋戦争勃発後は原稿依頼が途絶え執筆不可能となった。だが戦時中は「小松竜之介」名義で子ども向き作品の執筆や、内務省の検閲対象とならない海軍省の会報誌に論評を載せるなどの活動をひっそりと行った。
戦後は創作と共に評論・研究・指導に力を入れる。特に評論分野では、'47『随筆探偵小説』、'51『幻影城』、'54『続・幻影城』、'58『海外探偵小説作家と作品』がある。初期作品の「本格もの」から、「変革もの」(通俗スリラー)を支持するようになった。また、ミステリの枠に留まらず、怪奇や幻想文学において存在意義があり、猟奇・異常性愛を描いた作品は後年の官能小説に多大な影響を与えた。少年探偵団シリーズは戦後の子どもたちからも絶大な支持を受け、昭和30年代頃から実写化放送され人気を博した。
'47日本探偵作家クラブを創立し初代会長、'54乱歩の寄付を基金として「江戸川乱歩賞」を制定し推理作家の登竜門となる。'63名称を社団法人日本推理小説作家協会と改組して初代理事長。日本文芸家協会理事。'57雑誌「宝石」の編集など推理小説の復興をはかった。'61自伝的エッセイ集『探偵小説四十年』がある。同年、紫綬褒章。
晩年はパーキンソン病を患うも、口述筆記で評論や著作を行った。くも膜下出血のため池袋の自宅にて逝去。享年70歳。没後、正5位勲3等瑞宝章追贈。推理作家協会葬が営まれた。乱歩の邸宅の屋敷は立教大学と隣接しており、2002(H14)立教大学に移管し「旧江戸川乱歩邸」として保存されている。
格言『人間に恋はできなくとも、人形には恋ができる。人間はうつし世の影、人形こそ永遠の生きもの』(「人形」より)
*墓石は和型「平井家」。裏面は「昭和四十二年七月 平井隆太郎 建之」と刻む。墓所入口左側に「江戸川乱歩墓域」と刻む石柱が建つ。墓石左側に墓誌があり、七代目 平井杢右衛門(M17.1.23歿 行年74)から代々が刻む。杢右衛門には「津 藤堂藩家老高千石」とも刻む。杢右衛門の妻は和佐。杢右衛門の長男の平井繁男は戒名は高照院繁林寿栄居士。「特許辨理士 著書『日本商法詳解』」と刻む。繁男の妻はきく(S41.12.4 行年90)。乱歩の刻みは「繁男嫡男 平井太郎」と没年月日と行年が刻む。戒名は智勝院幻城乱歩居士。「推理小説作家 筆名 江戸川乱歩 處女作『二銭銅貨』 外 創作 随筆多数 日本探偵作家クラブ初代会長 日本推理小説作家協会初代理事長 日本文芸家協会理事 昭和三十六年紫綬褒章 昭和四十年正五位 勲三等瑞宝章」と刻む。妻は隆。乱歩の嫡男の平井隆太郎の戒名は天智院明教虚隆居士。「立教大學名誉教授 元社会學部長」と刻む。妻は静子。
*七代目平井杢右衛門(陳就)の正妻は藤堂家の息女で、文久三年に穀している。杢右衛門の後妻の和佐は京都の寺侍の本間氏の娘で、杢右衛門が大和奉行在勤中に娶られたものだが、殿様の息女のあとを襲うことを遠慮して、当時の仕来りとして妾と名づけられていた。このような系図であるため、繁男には正妻の腹違いの兄や姉がたくさんあった。その長男の平井陳常が八代目を継ぎ、九代目は平井進。この系譜が本家を継承し、津市乙部の浄明院の平井家のお墓を守っている。なお、多磨霊園の平井家の墓誌には、七代目平井杢右衛門(1811-1884.1.23)・後妻の和佐(1889-1911.7.14)の名も刻む。 七代目平井杢右衛門のところには「津 藤堂藩家老高千石」も刻まれている。
*江戸川乱歩の母の きく は乱歩が幼児の頃、黒岩涙香の翻案探偵小説、菊池幽芳訳『秘中の秘』が好きで読み聞かせをしていた。 これが後年推理作家になる“芽”となったと乱歩自身が回想している。なお、乱歩よりも1年長く生きた。