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ひらい しげお

平井繁男

ひらい しげお

1867.2.3(慶応3)〜 1925.9.10(大正14)

明治・大正期の官吏、実業家、特許辨理士

埋葬場所: 26区 1種 17側 6番

 三重県津市出身。七代目平井杢右衛門(陳就)・後妻の和佐との間に生れた。関西法律学校(関西大学)第一回卒業生。 卒業後、青年官吏として三重県名賀郡右名張町(名張市)役所に奉じた。この頃、津藩家臣の長女のきく(1876-1966.12.4 同墓)と結婚し、1894.10.21(M27)第一子を儲け、太郎と命名。 これが後の江戸川乱歩である。間もなく、鈴鹿郡へ転勤。1897東海紡績同盟会の職員となり、名古屋に移った。東海紡織同盟会書記長を歴任。
 1908(M41)輸入機械の取次ぎ販売、外国保険代理店、石炭販売に関連した平井商店を開業したが、1912倒産。 一家は朝鮮馬山へ移住し、土地開墾事業に従事する。1917(T6)大阪で軸受メタルの製造に従事した。晩年は特許辨理士となり、著書『日本商法詳解』を刊行した。享年59歳。

<江戸川乱歩の回想録 等>


墓地 墓誌

*きくは太郎(江戸川乱歩)が幼児の頃、黒岩涙香の翻案探偵小説、菊池幽芳訳『秘中の秘』が好きで読み聞かせをしていた。 これが後年作家になる“芽”となったと乱歩自身が回想している。

*七代目平井杢右衛門(陳就)の正妻は藤堂家の息女で、文久三年に穀している。 杢右衛門の後妻の和佐は京都の寺侍の本間氏の娘で、杢右衛門が大和奉行在勤中に娶られたものだが、殿様の息女のあとを襲うことを遠慮して、当時の仕来りとして妾と名づけられていた。 このような系図であるため、繁男には正妻の腹違いの兄や姉がたくさんあった。その長男の平井陳常が八代目を継ぎ、九代目は平井進。 この系譜が本家を継承し、津市乙部の浄明院の平井家のお墓を守っている。なお、多磨霊園の平井家の墓誌には、七代目平井杢右衛門(1811-1884.1.23)・後妻の和佐(1889-1911.7.14)の名も刻む。 七代目平井杢右衛門のところには「津 藤堂藩家老高千石」も刻まれている。

*墓石は和型「平井家」。裏面は「昭和四十二年七月 平井隆太郎 建之」と刻む。墓所入口左側に「江戸川乱歩墓域」と刻む石柱が建つ。墓石左側に墓誌があり、七代目 平井杢右衛門(M17.1.23歿 行年74)から代々が刻む。杢右衛門には「津 藤堂藩家老高千石」とも刻む。杢右衛門の妻は和佐。杢右衛門の長男の平井繁男は戒名は高照院繁林寿栄居士。「特許辨理士 著書『日本商法詳解』」と刻む。繁男の妻はきく(S41.12.4 行年90)。乱歩の刻みは「繁男嫡男 平井太郎」と没年月日と行年が刻む。戒名は智勝院幻城乱歩居士。「推理小説作家 筆名 江戸川乱歩 處女作『二銭銅貨』 外 創作 随筆多数 日本探偵作家クラブ初代会長 日本推理小説作家協会初代理事長 日本文芸家協会理事 昭和三十六年紫綬褒章 昭和四十年正五位 勲三等瑞宝章」と刻む。妻は隆。乱歩の嫡男の平井隆太郎の戒名は天智院明教虚隆居士。「立教大學名誉教授 元社会學部長」と刻む。妻は静子。


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