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かたおか しちろう

片岡七郎

かたおか しちろう

1854(嘉永6)〜 1920(大正9)

明治期の海軍軍人(大将)、男爵

埋葬場所: 12区 2種 7側 1番

 薩摩藩士片岡喜藤太の次男。1877(M10)少尉に任官。 22から伏見宮博恭王、山階宮菊麿王に随行してドイツへ留学、砲術など最新の兵学を学び、それは後に砲術練習所長として行進の育成に当たる素地となった。 帰国後、巡洋艦「金剛」の艦長として日清戦争へ出征して威海衛、澎湖諸島の攻略に成功。 03第3艦隊司令長官。04〜05日露戦争では巡洋艦「厳島」を旗艦として活躍し、日本海海戦では別働隊となり、東郷平八郎(7-特-1-1)率いる主力艦隊との挟撃勢を作り上げてロシアのバルチック艦隊を壊滅に追い込んだ。 この功績により男爵を授けられ、第1艦隊司令長官へ昇進。43大将。
 日本海海戦では第二艦隊長官を務め、済州島と佐世保を結ぶ線を一辺とした海域の哨戒に任じていた。バルチック艦隊を初めて発見した「信濃丸」は片岡艦隊所属のものである。 片岡はその第一報をただちに東郷司令官に転電、以後所属の五十余隻で遠巻きに接触しつつ北上、刻々と位置を報告した。 第一、第二艦隊が目算通りバルチック艦隊と会敵できたのは、片岡の指揮に負うところが多いとされる。 片岡は北遺艦隊司令長官として樺太を占領、その北知床岬とタライカ湾を、海軍部内では片岡岬、片岡湾と読んだ。
 1907(M40)9月21日軍功により正四位勲一等功一級金鵄勲章を受章し、同時に男爵を受爵。1910(M43)12月海軍大将に進み、翌年には正三位勲一等功一級に叙せられた。 日露戦争後、連合艦隊司令長官になるが、その後のポストは片岡が徒党を組まず超然としていたこともあって不遇だったとされる。 しかし、その高潔な人柄から、シーメンス事件では軍法会議の判士長に推された。
 薩摩出身者であったが、薩摩閥には属さなかった。晩年、台湾総督府のポスト任命の話が舞い込んだが、だが「河童の生活をして今日に至った。河童は水で果てる。 (略)しかるに、このいい年齢をして台湾総督なぞという行政官に手をそめるのは河童の陸上がりであって、あるいは失敗せぬものでもない。かくては晩節をけがすものであって、われら武将のねがわぬところだ」ときっぱり断わった。 天質温厚にして人格の人と称えられ、無欲なまま1917(T6)侍命となり、予備役に編入された。
 1920(T9)1月2日尿毒症を発して68歳で没した。東郷平八郎の名声に隠れ、縁の下の力持ちであった。 妻の片岡貞子は貴族院議員・海軍中将正四位勲二等功四級の男爵内田正敏の姪である。 貞子は1893(M26)生まれで、1911.7.20(M44)に享年19歳で没した。 そのため子がいなく、恒太郎が養子となり、七郎没後に男爵を継承。恒太郎没後は藤太が継承した。

<朝日日本歴史人物事典>
<日本海軍総覧>
<連合艦隊のリーダー総覧>
<明治過去帳>


*墓所は円錐石で上の部分は芝生になっている。


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