東京出身。金井信生堂の創業者の金井直造(同墓)の長男。東京帝国大学法学部卒業後、商事会社の三井物産に入社。台湾支店に赴任していたが、父から金井信生堂を継いでもらいたいと懇願され、1936(S11)退職し、2代目金井信生堂を継ぎ出版人に転身した。
1931(S6)〜'45(S20)のいわゆる15年戦争時の物資不足と言論・思想の統制下に、赤本絵本の出版社だった金井信生堂が、生き残りをかけて、営業を少国民教育に相応しい良質の絵本の出版に転換を図った。また、昭和10年代半ばに、内務省による児童文化統制が行われた際、日本児童絵本出版協会を組織して、動揺する安価絵本出版業界で指導的役割を果たした。太平洋戦争時期は絵本業界が弾圧されて発禁となるも、「児童絵本を良くする座談会」を開催し、全9冊にまとめて刊行した。
この間、'40(S15)から3年半程、当局からマークされていた詩人の吉田一穂を避難させるために、内務省警保局図書課で検閲にも従事していた詩人の佐藤郁郎が金井信生堂に紹介。金井は吉田一穂を編集長として迎えた。吉田一穂は自らもテキストを書き、内田巌(12-2-1-1)、佐藤忠良、島田訥郎、伊勢正義、金子茂二、鈴木寿雄など、すぐれた画家・イラストレーターと組んで、金井信生堂から36冊の絵本を出版した。
*墓石前面「金井家之墓」、「信山書」とも刻む。裏面「昭和二十六年七月 金井直造 建之」。右面が墓誌となっており、父の金井直造や金井英一本人も刻むが、墓所右側に墓誌も建つ。金井直造の妻であり英一の母は とよ(M16.6-S26.1.10歿・行年67)。英一の妻は尚子(M37.5-S62.9.13)。英一と尚子の長男の謹一郎(T15.4-S18.6.23)は18歳の若さで亡くなっている。英一と尚子の二男の金井弘夫(1930-R4.2.28・行年91)は植物分類学者であり、墓誌には「理学博士」と刻む。
*金井直造と とよ の間に5男4女を儲ける。ゆえに長男の金井英一は9人の弟妹がいる。二男の俊介(M36.2生)は宗家の金井金藏の養子となる。三男は淑雄(M39.6.9歿・3才:同墓)。長女のクニ(M39.7生)は加藤彌三八の4男の加藤文治に嫁す。なお、加藤彌三八の孫に外交官の加藤外松(8-1-17)がいる。次女は八重子(M41.7生)、三女は愛子(M43.3生)、四女は睦子(M45.3生)。四男は徳二(T3.2-H9.8.4:同墓)、五男は達雄(T4.10-S20.7.10:戦死・陸軍大尉:同墓)、六男は敬吉(T6.11-H9.3.7:同墓)。なお、同墓には徳二と敬吉の妻の百合子(H6.10.28歿・行年71才)、和子(H22.4.24歿・行年91才)、5歳で亡くなった徳二の長男の健一(S27.4.26歿)も同墓に眠る。なお墓誌裏面には金井明(H20.10.21歿・行年46才)「KORG JLRC」と刻む。
*吉田一穂の墓所は神奈川県茅ケ崎市赤羽根にある西光寺。