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かとう そとまつ

加藤外松

かとう そとまつ

1890(明治23)〜 1942.2.12(昭和17)

大正・昭和期の外交官

埋葬場所: 8区 1種 17側

 富山県高岡市出身。1913(T2)10月、外交官試験に合格。翌年、神戸高商専攻部を中退、外務省に入る。 '23(T12)12月より欧米局第2課長を務めた後、北京公使館在勤を経て、'27(S2)4月、天津総領事となり、山東出兵、済南事件、張作霖爆死事件などの処理にあたる。'29より米・英に在勤し、'35(S10)6月特命全権公使としてカナダに赴く。 '38大使館参事官として満州国に在勤、翌年7月には特命全権公使として中華民国在勤を命ぜられ、いわゆる有田・クレーギー会談に関与する。 '41(S16)1月、特命全権大使としてフランス(ヴィシー政権)在勤を命ぜられ、ダルラン副総理と日本の南部仏印進駐をめぐっての交渉にあたる。 同年7月29日、「仏領印度支那の共同防衛に関する日仏議定書」に調印。翌年パリ在任。 1942(S17)2月11日、旧日本大使館で行われる紀元節の祝典に参加するため、大使館のある臨時首都ヴィッシーから、ドイツ占領下のパリへ。旧大使館での式典に続いて、加藤はパリ残留の館員と街に出た。 食事を終え、夜中に公邸に戻ったが、寝巻き姿で二階のベランダから誤って転落。一晩中寒空の下に横たわり、発見された時はもう手遅れであった。 アメリカ在勤経験からアメリカの底力を知る加藤は、戦争の前途を案じて不眠症になり、睡眠薬を常用するようになっていたため、それが原因と思われる事故死であったが、時節柄謀略説もささやかれた。 加藤フランス大使の突然の死に対して日本政府は驚き、日欧間の交通路は途絶していて、日本から派遣する事は出来ない現状であり、ヴィッシー政権のフランスは、日本の重要な枢軸国であることから軽視はでないことで問題となった。 結果スイス大使を務めていた三谷公使が後を継いだ。

<新版日本外交史辞典など>
<MATSU様より情報提供>


*墓石正面「加藤外松之墓」。右面が墓誌となっており加藤外松の名と没年月日、五十三才と刻み、その隣に、妻の加藤弓子(H7.10.25歿 享年90才)が刻む。裏面は「昭和十八年二月建之 加藤弓子」と刻む。


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