長野県松本市出身。警察官の上條亀十郎の3男として生まれる。後に商業学者となる高宮晋(20-1-56)とは幼馴染。'11(M44)芝浦で初めて飛行機が飛ぶのを見た(50メートルも飛ばずに墜落)。1926(T15)横浜高等工業学校(横浜国立大学工学部)機械工学科を卒業。昼は神奈川県立商工実習学校機械科、夜は横浜市立横浜工業専修学校(横浜市立横浜総合高等学校)の教諭として講義をした。また、神田の語学学校に通い、英語とドイツ語を勉強。日曜日は英会話を習うため、日本福音教会に属していたバイブル・クラスに通い、聖書を中心とした話を聞き、米国人のミス・ハツラーから洗礼を受けた。
'29(S4)米国・イリノイ大学機械工学科に入学し熱力学、機構学、熱原動機を学び、航空工学を学ぶため翌年、ミシガン大学航空工学科に転校。航空力学、プロペラ理論、風洞実験、機体構造学、航空機及びプロペラの設計、理論空気力学を学ぶ。1年で卒業して航空学士を得た。'31ニューヨーク大学のカレッジの航空工学科に入学し、航空学会で著名であったクレーミン教授に学ぶ。'33マサチューセッツ工科大学大学院の航空学科に入り、理論空気力学をスミス教授から学ぶ。'34.6 MITで日本人初の航空学修士の学位を得た。
帰国し、'35.2 三菱重工名古屋航空機製作所機体部設計課技師となる。課長は服部譲次で、先輩上司にはゼロ戦を設計した堀越二郎(16-1-7)らがいた。仕事は強度計算や性能計算で明け暮れ、荷圧試験を担当して、鉛弾を翼の裏側に積み、規定された弾力試験、破壊試験等を行った。海軍機の九試単座戦闘機や陸軍の九七式司令部偵察機などに関わったが、欧亜連絡飛行で新記録を樹立した「神風号」の強度計算を行ったことが有名。この神風号の航空機関士兼無線通信士は塚越賢爾(21-2-34)である。
'35.12 突然、血痰が出て休養。復帰後は'38.6〜'42.8ニューヨーク駐在員として米国出張。航空機に関する新しい情報の収集、部品や工作機械の購入などを行った。太平洋戦争に伴いエリス島に拘束されるも、'42交換船で帰国。三菱重工業名古屋航空機製作所に戻り、技術部第二研究課長及び同課研究係長となる。米国から帰国した上條の元に各機関から講演の依頼が入り、米国の実情等々を各所で話した。特にマスコミが現実を隠し報道をし達観的な世情に対し、米国の実情を技術者の生きた目で見て感じた日本の直面する戦争の無謀さをあらゆる方面に呼びかけ、戦線縮小、早期戦争終結をすべしと力説するも、耳を貸すものはほとんどいなかった。むしろ反発な声が多い中、上條が意欲を燃やした唯一のテーマは搭乗員の命を守る防弾タンクの研究だったという。
'45.2 第一製作所技術部第二研究課長となったが、空襲の激しさが増し、同.4 三菱重工第一製作所が松本市へ疎開。終戦後も松本市に残り、同.11 臨時航空機工場整理事務所松本出張所に着任。人員の整理と研究課の試験器具の処分等の終戦処理に当たった。
敗戦と同時に航空機の研究、設計、製造がGHQの命令で禁止され、工場等々は封鎖された。'46.6 三菱重工東京本社に渉外連絡室が設けられ、財閥解体への対策、賠償指定の解除、民生機器の生産再開等の戦後処理に当たることになり、英語力が買われて、'47.6 渉外部渉外課長となり、GHQとの折衝を行った。'50.10 財閥解体により旧三菱重工業は分割され、中日本重工業名古屋製作所自動車修理部次長に転出。朝鮮戦争時は米軍のジープの修理などがGHQから与えられた。またシルバーピジョンと命名されたスクーター製造で工場は活気づいた。
'52サンフランシスコ講和条約発効により航空機生産の再開が許可され、米軍から航空機修理を持ちかけられたこともあり、'53.3 臨時航空部工場建設部(新三菱重工業名古屋製作所航空機部)次長に任命され、初代小牧工場長に就任した。これが戦後日本初の民間航空機工場となった。作業は米軍監督官の命令が絶対であったが、不合理な命令や無理な命令には絶対に引かず監督官と衝突するも、安易な妥協をせず理路整然とした反論はかえって米国側の信頼を得た。航空自衛隊発足など防衛庁納入機などにも尽力。
'59.6 工作部部長に就任。伊勢湾台風で工員に犠牲者が出、工場は海水1メートル半浸かり打撃を得たが、適切な指導により克服した。'60.8〜同.10 工作部の技術者と共に技術調査のため米国出張。ロッキード社やノースアメリカン社を見学し、詳細な制作方法の指導を受けた。'61.6 名古屋航空機製作所副所長に就任。'62.11 F-104生産と国会の問題で再び米国に出張し、10か月間ロサンゼルスに滞在、ロッキード社と交渉を行った。'64.9 本社機械事業部調査役となり、同.11 三菱ヨーク常務取締役(〜'72.3)に就任した。
'72.4より日本大学理工学部航空学科非常勤講師(〜'80.3)を務めた。理工学部航空学科の航空工学と宇宙工学を教えた。東京六本木の心臓血管研究所附属病院にて心不全のため逝去。享年77歳。
<大空への道> <みつびし 飛行機物語 など> <菊入泰子様より情報提供>
*墓石は洋型「上條家之墓」。裏面に「昭和六十年三月彼岸建之 上條富子」と刻む。左側に墓誌があり、3歳で亡くなった長女の和子、33歳という若さで亡くなった妻の幸子、そして勉の順番で俗名・没年月日・行年が刻む。
*妻は、堀越二郎の紹介で、堀越の親友だった物理学者で三菱重工業名古屋航空機製作所へ勤務経験がある山室宗忠(15-1-1)の夫人の山室萬里子の親戚にあたる島倉幸子と結婚。'44.5 中山武夫夫妻の媒酌で結婚した。なお、山室萬里子は外務大臣などを務めた有田八郎(9-1-1-2)の次女。幸子の母親は有田八郎の従妹で、有田夫人と姉妹。
*'45.4 松本市に会社ごと疎開をしていた際に、妻が虫垂炎から腹膜炎となり大町病院で手術を受け、長女の和子を胃腸炎で亡くしている('45.9.8)。'47東京での渉外部勤務中に長男が誕生。しかし、'50.3.7 妻の幸子を病気で亡くした。幸子は享年33歳だった。
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