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ふくい きくさぶろう

福井菊三郎

ふくい きくさぶろう

1866(慶応2.3.2)〜 1946.12.17(昭和21)

明治・大正・昭和期の実業家(三井財閥)、
陶磁器収集家

埋葬場所: 11区 1種 2側

 江戸出身。中村萬吉の5男として生まれる。旧姓は中村。1881(M14)先代むめ の実家の福井家の養子となり、家督を相続して福井姓になる。
 1883 東京商業高等学校(一橋大学)卒業後、18歳で三井物産に入る。同期に共同運輸会社創立者の小室信夫の次男で後に三井物産取締役・三井合名参事になる小室三吉がいた。三井物産内でも同期の小室と共に出世頭となる。
 三井物産シンガポール支配人、三井物産香港支店長、三井物産営業部長、'03 三井物産大阪支店長、三井物産ニューヨーク支店長、三井物産取締役 兼 東神倉庫取締役を歴任した。'07 日米文化交流の先駆的な役割を果たした ジャパン・ソサエティーを設立。三井報恩会評議員、日米協会監事なども務めた。
 '10 三井物産常務取締役に就任。'18.1(T7)三井銀行取締役就任。また三井合名の理事に推される。同.12.10 第一次世界大戦終戦後のパリ講和会議に実業家代表顧問の随員として、講和使節の牧野副使以下32名らと天洋丸で横浜を出帆。米国経由で仏国に向う。1919.1.15 から6か月間、講話全権委員随員としてパリに滞在し経済会議などに出席。その後、ロンドンに赴き、イギリスの経済を視察して帰国した。随員としての功により勲3等旭日中綬章に叙された。
 '22 三井合名常務理事を務め、三井財閥の重役として、三井銀行取締役、三井物産取締役、三井鉱山取締役、東神倉庫取締役、三井生命保険取締役、台湾拓殖製茶取締役、東洋棉花監査役、三井信託監査役、遼東汽船監査役、日本郵船取締役を兼務した。
 '29(S4)清水由松、畠山一清、森広蔵らと東洋英和女学院第一次後援会発起人となり、開校後は顧問となる(〜'32)。'31 社長制から会長制に改められた東神倉庫の会長に就任した。山下汽船の山下亀三郎(20-1-58)の支援者。陶磁器収集家としても著名で『日本陶磁器と其国民性』(1927)を刊行した。享年80歳。

<人事興信録>
<現代業界人物集>
<三井事業史など>


墓所

*墓石前面「福井家之墓」、左奥に墓誌が建つ。福井菊三郎から刻みが始まり、没年月日と享年が刻む。墓誌には享年八十一才と刻む。妻は なつ(1875.6-1974.8.5)。墓誌には百才と刻む。

*妻の なつ は旧幕臣・政治家の江原素六の長女。なつ の妹で江原素六の次女である よし は実業家・政治家の高山長幸(6-1-16-5)に嫁いでいるため親戚関係。

*菊三郎と なつ の間に3男5女を儲ける。長女の満壽子(1894-1897.4.20:同墓)は3才で早死。長男の福井孝一(1897.2-1978.2.16:同墓)は日本製小型乗用車メーカーのオオタ自動車工業の経営を担った実業家(1957日本内燃機と合併)。 孝一の妻は男爵の小原せん(馬へんに全)吉の三女の園子(1903.7-1985.9.14:同墓)。 二女の菊(M31.11-)は貴族院議員の石黒五十二の長男の石黒九一に嫁いだ。二男は慶次(M34.10.18歿・当才:同墓)。三男は巌(M35.6-)。三女の壽々(M37.3-)は日本国土開発社長の佐渡卓(12-1-1)に嫁いだ。四女は千代子(M44.4-)。五女の美代子(T2.8-)は朝日新聞社社主の上野淳一に嫁いだ。

*同墓には精神医学者・開放的精神医療の先駆者・福井記念病院設立者の福井東一も眠る。東一の父は福井孝一であり、菊三郎から見て孫にあたる。東一の妻は節子(H23.10.5歿・享年93才)。


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