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ひらの みつお

平野光男

ひらの みつお

1929(昭和4)〜 2021.4.7(令和3)

昭和・平成期の記者、出版人

埋葬場所: 23区 1種 43側 4番

 広島県出身。鈴木眞守(同墓)の5男。作家・出版人の鈴木重雄(同墓)は実兄。重雄の妻で義姉は女優の望月優子(同墓)。平野家の養子。
 1953(S28)東京大学卒業し、産経新聞社に入社して、静岡支局に配属される。翌年本社に戻り社会部に配属。その後は、警察回りを経験し、警視庁詰め及び本社遊軍の記者として活動。
 事件ものだけでなく文化あふれる記事も載せようという部長の発案にて、社会部文化担当となる。これを機に映画記者会、美術記者会、放送記者会に入会。当時はテレビ放送が始まったばかりであり、娯楽の中心は映画であった。この頃、暴力と性描写が青少年育成上好ましくないという問題、映倫騒動が起こっており、日本映画六社で映画製作者連盟(映達)が発足、映画倫理規定管理委員会ができる。この映達事務所がサンケイビル内にあったことから、平野はどこの新聞社よりも早く情報を入手し記事にするなど独壇場であった。
 その後、宮内庁記者として明仁親王(当時の皇太子:平成天皇:現在の上皇)と美智子 妃(現在の上皇后美智子)との婚約を追いかけた。昭和天皇の還暦会見で、フランス革命に興味を持っていられたことを聞きだしたりもした。
 '64 東京オリンピック後に社会部次長としてデスク業務に専念し、'66 教養部次長に転出。'68「明治100年銅像との対話−明治100年を考える−」というプランをつくり、三島由紀夫(10-1-13-32)は西郷隆盛、司馬遼太郎は乃木希典、松本清張は大村益次郎、遠藤周作は大隈重信と、当時の一流執筆陣を迎えて、週一回の連載企画を指揮した。
 論説委員を経て、夕刊フジ学芸部長を歴任。大物作家ほど電話なしの直接訪問を繰り返し執筆依頼に成功させてしまう戦法で、新しい切り口の文章も生み評判となる記事を多く世に出した。再び産経新聞論説委員を務め、'79 退社。
 その後は、サイマル出版会常務取締役、西武百貨店文化事業部担当部長を務める。またNHK学園専任講師として後進の指導を行った。享年91歳。

<日本記者クラブ会報「社会部分化担当始末記」1999.12.10 第358号 など>


墓所 墓所

*墓所には二基。左側は和型「鈴木家之墓」、裏面「昭和五十七年一月建之」。鈴木家墓誌は広島の原子爆弾で被爆死した鈴木眞守(S20.8.31歿・行年52才)から刻みが始まる。次に刻む鈴木一郎(S22.2.16歿・当才)は鈴木重雄と望月優子の長男。その次に、鈴木美枝子の本名と並んで「芸名 望月優子」、重雄の妻と刻む。隣りの鈴木重雄は眞守長男と刻む。眞守次女の鈴木美代子、眞守妻、鈴木重雄と望月優子の長女の鈴木園子が刻む。墓誌の裏には「昭和六十二年八月吉日 平野光男(眞守五男)建立」と刻む。この刻みより、墓所右側の和型「平野家之墓」は、平野光男の養子先の墓所であることがわかる。平野家の墓誌は平野美太郎の妻の平野けい から刻みが始まり、平野次郎、平野美太郎、平野舞子、平野光男が刻む。

*望月優子の異母妹は女優の中村雅子。雅子の夫は俳優の加藤嘉。加藤家の墓は16区1種3側。

※多くの書物では平野光雄と記されているが、墓誌には平野光男と刻むため、光男で統一します。


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