メイン » » » 長谷川淑夫
はせがわ よしお

長谷川淑夫

はせがわ よしお

1871.9.11(明治4)〜 1942.5.16(昭和17)

明治・大正・昭和期の新聞人、歌人、評論家

埋葬場所: 23区 2種 2側 7番

 新潟県佐渡郡相川町濁川出身。本名は清。楽天・世民と号した。長谷川家は祖父の長谷川清兵衛の代まで幕府金座役人年寄り役であった。父の長谷川安邦(号は清閑)は佐渡奉行所後藤座役人で、鈴木重嶺奉行とも親交があり、歌道・點茶を能くした。安邦の長男として生まれる。
 佐渡随一の儒学者円山溟北の塾に学び、新潟学校中学部、東京神田の共立学校、国民英学会、日本法律学校、東京専門学校を経て、1891(M24)東京帝国大学法科大学政治学科に入学し英法を学ぶ。1895撰科修了。 1898から三年間、創立まもない佐渡中学校に、英語の教員として奉職した。副読本にディケンズの英国史を用い、非常に高度な英語を教えていたとされる。また、この時の教え子の中に北一輝(輝次)がおり、思想形成に大きな感化を及ぼした。 「佐渡新聞」社友として、同紙に政治・経済・法律・教育・婦人等社会問題全般について、執筆活動を展開する傍ら、柄沢寛・上月喬・山田殻城らと、和歌革新運動にも加わり、短歌に関する評論や作品も発表するなど、歌人としても活躍した。
 1901(M34)佐渡中学校を辞任して上京、政党誌「王道」の編集に携わったが、翌年、国家社会主義者を自認し、地方議会の廃止を訴え、犬養毅の普選論に共鳴し、これを函館の地にひろめるべく函館に移住し「北海新聞」の主筆を務めた。 この際、名前を長谷川清から長谷川淑夫と改名し、号も楽天から世民と改めた。北海道に渡ってからは天皇支持の国家社会主義者としてジャーナリズムで健筆を奮った。'05函館区会議員に当選。'06函館区役所第二課長に就任。 '10北海新聞連載の“昔の女と今の女”が内務省によって告発され、北海新聞の発行が禁止となり、これにより区会議員を解職される。'12平出喜三郎が函館日日新聞を買収し、主筆として迎えられ、「函館新聞」をおこす。 '19(T8)函館新聞社長兼主筆。'25“「日本」を読みて−不喚書屋主人へ”を世民名で連載。'32(S7)夕刊に“王道に悩む”を連載。この頃、東京杉並に転居。'34函館大火で函館新聞社社屋焼失に遭い、長男の海太郎の出資により再建し、株式会社とした。 '39函館市より功労者として表彰。'41戦時下統合で函館新聞終刊。函館新聞・函館日日新聞・函館タイムスの3紙統合で「新函館」を創刊し、その取締役会長となった。'42.5.16東京の自宅で死去。享年71歳。 内輪で神道による葬儀を営んだ後、28日船見町の実行寺にて「新函館」の社葬がおこなわれた。「新函館」紙は世民・長谷川淑夫の生涯を〈言論報国の一生〉と呼び、これを見送った。
 長谷川淑夫は1899(M32)2月20日、羽茂村の医師兼儒者の葛西周禎の長女の由紀(由起子・ユキ)と結婚した。4男1女を儲ける。妻の由紀は短歌をよくし、のちに函館短歌会の中心的存在となった。 長男の長谷川海太郎(1900.1.17〜1935.6.29)は谷譲次・牧逸馬・林不忘という3つのペンネームを使い分けた小説家。次男の長谷川りん二郎(「りん」は、隣のコザトヘンではなくサンズイ)(1905.1.7〜1988.1.28 同墓)は地味井平造というペンネームを持つ探偵小説作家、洋画家。 三男の長谷川濬(1906.7.4〜1973)はロシア文学者。四男の長谷川四郎(1909.6.7〜1987.4.19)は作家、翻訳家。長女の長谷川玉江(1914.11.19〜?)は朝日新聞の独身寮の寮母として記者を影で支えた。

<佐渡相川郷土史事典>
<北海道大百科事典>
<「ステップアップ」vol.93>
<長谷川濬の次男の長谷川寛様より情報提供>


*墓石は和型「長谷川家之墓」。裏面「昭和十八年三月 長谷川りん二郎 建之」と刻む。右面にりん二郎の妻の長谷川鎮(H25.6.2 百三才 歿)のみ刻み、両親やりん二郎の刻みはない。この墓所地は長谷川濬の次男の長谷川寛様より情報提供いただきました。

*同墓には次男の長谷川りん二郎も眠る。長男の海太郎の墓は鎌倉妙本寺。三男の濬は八王子中央霊園・東2区3側51番。


長谷川海太郎(谷譲次・牧逸馬・林不忘) はせがわ かいたろう
1900.1.17(明治33)〜1935.6.29(昭和10)
鎌倉妙本寺
大正・昭和期の小説家
 新潟県佐渡郡出身。長谷川淑夫・由紀の長男。母の父の葛西周禎が医者を開業していた新潟県佐渡郡赤泊村徳和で生まれた。弟の次男の長谷川りん二郎(地味井平造)は洋画家、探偵小説作家。弟の三男の長谷川濬はロシア文学者、満州国の映画史の研究者。 弟の四男の長谷川四郎は作家、翻訳家。妹の長谷川玉江(1914.11.19〜?)は朝日新聞の独身寮の寮母として記者を影で支えた。
 海太郎の名前は、日本海の海波渺々たる中に生を享けたと云う意味を托して海太郎と名付けた。その際、父は“たをたをと波ただよへる只中に生れし男の子名は海太郎”という歌を詠んでいる。
 1902(M35)両親にともなわれて函館に移る。函館中学卒業直前の'17(T6)ストライキの首謀者となって、落第処分を受け退学。翌年、単身渡米し、無銭旅行を敢行、苦学してオハイオ州オベリン大学やノーザン大学等に籍を置き各地を放浪した。 '24帰国。'25谷譲次の筆名で滞米の経験に基く移民物語『めりけんじゃっぷ』をモダニズム系統の奇警な文体で連作、『ヤング東郷』なども執筆した。また林不忘の筆名で「探偵雑誌」に時代小説を書き、文名を認められた。 さらに、牧逸馬の名で『テキサス無宿』など現代物を発表、東京日日新聞に『大岡政談』を連載するなど、ミステリーや家庭恋愛ものを執筆した。'27(S2)外遊。 帰国後、'30東京日日新聞に林不忘として長篇小説『この太陽』を連載、ついで『丹下左膳』を発表。その他、戯曲・ラジオ小説・翻訳と手を広げ、応接室にはいつも原稿待ちの編集者が四、五人詰めていたというほど、人気作家となり超人的な活躍をした。 '34函館大火で父の函館新聞社社屋焼失に遭った際、出資し再建を助けた。人気作家ゆえの多忙と過労の無理がたたり、'35鎌倉雪の下に新築した「からかね御殿」で心臓麻痺のため急死した。享年36歳。

<コンサイス日本人名事典など>


*鎌倉妙本寺の墓石には正面に「長谷川海太郎之墓」と刻む。戒名は慧昭院不忘日海居士。


長谷川 濬 はせがわ しゅん
1906.7.4(明治39)〜1973.12.16(昭和48)
中央霊園(八王子) 東 2区 3側 51番
昭和期のロシア文学者
 北海道函館出身。新聞人の長谷川淑夫・由紀の三男。1913(T2)弥生尋常小学校に入学。同級生に亀井勝一郎(20-1-22-13)がいる。函館中学校卒業後、両親の反対を押し切り漁船に乗り、カムチヤツカ半島ペトロバウロスクに赴き、イクラづくりの季節労働に従事。 その後四年間、日魯漁業会社に雇われ、伊豆の北川で働き、冬場は函館に帰省してロシア語を勉強した。1929(S4)大阪外国語学校露語科に入学し、民俗学者で著名なネフスキーのもとでロシア語を学んだ。
 '32卒業後、同年五・一五事件の当日門司をたち、ウラル丸で大連にむけ出帆、満州に渡る。満州国資政局自治指導部訓練所(改組され大同学院となる)で地方県参事官になるため訓練をうけ、大同学院第一期生として卒業後、満洲国外交部に入りチタ領事官として勤務。翌年、東京で鈴木文江と結婚した。 三年間、弁事処通訳官としてポクラニーチナヤ(綬紛河)に赴任。'34外交部俄国科に転勤となり、新京に転住。'37黒竜江アルグン河を三ケ月にわたり調査し、同年弘報処勤務を径て、満洲映画協会に入杜。'40宣伝副課長、'42調査役を務めた。 満映に勤める傍ら、'38北村謙次郎、仲賢礼らと「満州浪曼」を発刊。この他に、『耳を拾った話』を「満州新聞」に、『蘇へる花束』を「満州行政」に、エッセイ『映画妄言』を「満州映画」に、「モダン満州」に『花は褪せたり』『赤猫飯店』を発表。 また『国境地区』(長谷川濬原作・藤川研一脚色)が上映された。'41.3.1満映の映画人養成所を開業。11月には、満州における映画館の経営、小型映画の巡回映写等を業務とする株式会社満州電影総社を設立。甘粕正彦(2-2-16)が社長兼任となる。 この年満映は機構改革で娯民映画部、啓民映画部を設置、技術部に当たる作業管理処新設する。配給部のうえに上映部を新設、巡回映写と映画館経営に主力を注ぐ。 '40暮れから満州日日新聞にニコライ・A・バイコフ著作の『偉大なる王(ワン)』の訳載を始め、名が一躍内地日本でも広く知られるほどのベストセラーとなった。'45.8.20敗戦直後、満映理事長の甘粕正彦が、服毒自殺した際にその現場に立ちあった一人である。
 戦後日本に戻るも、結核を患い療養。'53ナホトカ行貨物船の通訳として、'64まで断続的に乗船。画家志望で函館出身の神彰(1922〜1998)と知り合い、二人はドン・コサック合唱団を日本に呼ぶ計画を立て、実現させ、日本をドン・コサックブームに沸かせた。 しかし、濬は公演中に病いに倒れ入院している間に、神に裏切られた(実際は満員続きにもかかわらず経費がかかり大赤字で神は莫大な借金を背負っていた)。 神はこのあとソ連からボリショイバレエを呼ぶことに成功し借金を返済し、その後もボリショイサーカス、レニングラードフィルを呼ぶことに成功、一躍「赤い呼び屋」として一世を風靡した。 神は後にモダンジャズブームをもたらしたり、居酒屋チェーン「北の家族」で成功を収めている。
 濬は退院後、'57執筆業に取り掛かり、満州で同人になっていた平岩米吉主宰の「動物文学」、'65復刊した「作文」を中心に投稿。また「文学四季」、「文学街」の同人として執筆に専念した。没すまで、翻訳、詩、エッセイを含めて100篇ちかくの作品を発表した。 作品の他に、'52から没するまで『青鴉(あおがらす)』と自ら名付けた創作ノート(作品メモ、試作、感想雑記、読書ノートの手記など)を、100冊近く残した。'62より入退院を繰り返し、'72肺性心と診断され、'73.3桜町病院を退院し執筆を続けるが、この年の12月16日生涯を閉じた。享年67歳。 翌年の3月「動物文学」にエッセイ『こんこんとわきでる地下水』、翻訳『冬の旅』(著アルセーニエフ)、6月「動物文学」に翻訳『アンバ(虎)』(著アルセーニエフ)が遺稿として発表された。

<「ステップアップ」vol.187>
<月刊デラシネ通信 長谷川 濬―彷徨(さまよ)える青鴉 第1回長谷川濬略譜など>
<長谷川濬の次男の長谷川寛様より情報提供>


*長谷川濬の墓は八王子市戸吹町193にある中央霊園(東2区3側51番)。


長谷川四郎 はせがわ しろう
1909.6.7(明治42)〜 1987.4.19(昭和62)
昭和期の作家、翻訳家
 北海道函館出身。新聞人の長谷川淑夫・由紀の四男。函館中学校を卒業後、1926(T15)単身上京し、'28(S3)立教大学予科文科に入学し、詩作を始め、'30函館新聞に「回郷偶書」を発表する。 '33卒業後、法政大学文学部独文科に入学し、ドイツ語、ドイツ文学を学び、豊島与志雄(7-2-17)のフランス文学の講議を受けた。
 '37満州に渡り、南満洲鉄道株式会社に入社。大連図書館勤務となり欧文図書係となる。'38北平(北京)の満鉄北支経済調査所へ転勤し、資料班の外国語係となり、外国の新聞雑誌を読み、欧文資料の蒐集・整理・保管・翻訳・紹介にあたった。 '42満鉄を辞し、満洲国協和会調査部に入り、新京(長春)に移転。蒙古班に所属し、満洲内に居住する蒙古人の土地調査に当たる。在職中、『デルスウ・ウザーラ』(著アルセーニフ)を兄の長谷川濬と共訳した。
 '45現地で召集され、満洲里の扇山近傍でソ連軍の捕虜となる。チチハルの捕虜収容所に入れられた後、カダラの捕虜収容所に収容され、'46から3年間にわたり、シベリアのチタの周辺で石炭掘り、煉瓦づくり、野菜・馬鈴薯の積みおろし、汚物処理、線路工夫、森林伐採、材木流送などの労働の抑留生活を余儀なくされた。 '49馬鈴薯の積みおろし中に足を骨折し入院し、翌年2月にナホトカから興安丸で舞鶴に帰還した。
 日本帰還後は、シベリヤ抑留中の体験を書いた『炭坑ビス』『街の掃除夫』『二人の若いソ連人』を発表。また長篇小説『バスキエ家の記録』(著デュアメル)の翻訳に着手。'51「近代文学」4月号から抑留体験をもとにした短篇連作『シベリヤ物語』の連作を発表し始める。 翌年『シベリヤ物語』を筑摩書房から刊行し、有力新人作家と注目された。『鶴』を発表し、作家としての地歩を築く。詩人、劇作家、またロシア語、フランス語、スペイン語等の文学作品の翻訳家として活躍した。 主な作品は『長谷川四郎作品集』(全4巻・晶文社、毎日出版文化賞受賞)、『長谷川四郎全集』(全16巻・晶文社)に収められている。四郎の長男の長谷川元吉は『父・長谷川四郎の謎』を2002に刊行している。脳硬塞で入院中の都立松沢病院にて逝去。享年77歳。

<「ステップアップ」vol.173>
<長谷川濬の次男の長谷川寛様より情報提供>


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・は | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。