北海道函館出身。新聞人の長谷川淑夫・由紀(共に同墓)の次男。兄は小説家の長谷川海太郎、弟の長谷川濬はロシア文学者、長谷川四郎は作家。
1923(T12)函館中学校を卒業後、神経衰弱を患い家出をし、秋田県田沢湖で発見され、家に連れ戻される。この年は自宅にて絵画『マンドリン』『ハリストス正教会への道』『ある男の顔』『静物』を制作。
'24単身上京し、川端画学校に入るが、数ヶ月で退学。以後、独学で洋画を学ぶ。早稲田高等学院に入り、同郷の友であり、後に作家となる水谷準の下宿で共同生活をした。2人は詩や短編小説をノートに書きため回覧しあった。
'25昨年アメリカから帰国していた兄の海太郎が上京し、東中野の谷戸の文化村に一軒屋を借りたので、同居した。なお、この一軒家の大家は小説家の松本泰である。
'26水谷準の勧めで、『煙突奇談』『二人の会話』『X氏と或る紳士』を地味井平造のペンネームで掲載し、探偵趣味の会の「創作探偵小説集 第ニ号(1926年版)」にも収録された。'27(S2)「新青年」に『魔』を発表。
同年に絵画『函館風景』を制作。'31パリヘ遊学して絵画修行に励み、『荻窪風景』『門』『道(巴里郊外)』『風景』『マロニエと門』『モンスリー公園』『巴里にて』『ジプシイの馬車』『巴里の裏町』を制作した。
'32帰国し、両親らと荻窪で暮らす。同年9月、二科展で『家』『曇り日』『道』が初入選した。'35二科展で『時計のある門』が入選し、好評を得た。「日本探偵小説傑作集」の序文で江戸川乱歩( 26-1-17-6 )から評された。
'36兄の海太郎から経済援助を受けていたが、海太郎が急死したため、父が援助を引き継ぎ、画会をつくる。
「新青年」に『顔』『不思議な庭園』を発表。日動画廊にて「長谷川りん二郎油絵個展」開催。以後、絵画を中心にしながら、詩や探偵小説などの制作を続ける。絵画では本名を使用し、詩や小説では地味井平造の名を使い分けた。
主な探偵小説に『水色の目の女』『人攫い』など多数。鮎川哲也が「ファンタジーの細工師・地味井平造」−『幻の探偵作家を求めて』(晶文社:1985)を出している。
'88.1.27夕食後、入浴中に脳内出血で倒れ、病院へ運ばれるが既に遅く、翌28日親族に見守られながら生涯を閉じた。享年84歳。
*りん二郎(「りん」は、隣のコザトヘンではなくサンズイ)
*父の長谷川淑夫(同墓)は1899.2.20(M32)羽茂村の医師兼儒者の葛西周禎の長女の由紀(由起子・ユキ:同墓)と結婚した。4男1女を儲ける。母の由紀は短歌をよくし、のちに函館短歌会の中心的存在となった。長男の長谷川海太郎(1900.1.17〜1935.6.29:鎌倉妙本寺)は谷譲次・牧逸馬・林不忘という3つのペンネームを使い分けた小説家。次男の長谷川りん二郎(「りん」は、隣のコザトヘンではなくサンズイ)。三男の長谷川濬(1906.7.4〜1973:中央霊園(八王子)東2区3側51番)はロシア文学者。四男の長谷川四郎(1909.6.7〜1987.4.19)は作家、翻訳家。長女の長谷川玉江(1914.11.19〜?)は朝日新聞の独身寮の寮母として記者を影で支えた。
*長谷川りん二郎は"神話と伝説"など伝説的な画家と称されることがある。超寡作な画家だったが、小さな作品一つを完成させるのにも何年もかけて描くこともあり、作品の中には10年もかけて完成させたものもある。画壇との付き合いはなく、いかなる団体にも属さず、世間との関わりをほとんど持つことなくひっそりと生きた。それでも長谷川りん二郎の作品は熱狂的なファンによって静かに愛され、絵の収集家も多い。