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うたはし またさぶろう

歌橋又三郎

うたはし またさぶろう

1863(文久3.5.18)〜 1937.6.24(昭和12)

明治・大正期の薬剤師、薬学者

埋葬場所: 12区 1種 17側 8番

 江戸・日比谷(東京都千代田区日比谷)出身。旧姓は和田。1878.12.21(M11)母の登美の実家(愛知県岡崎町)の歌橋亥三郎の養嗣子となる。1885.5.13 歌橋家の養女かつ(同墓)と結婚。同年上京し、東京薬学校に入学した。
 1887.3 薬舗開業免許試験に合格し、翌年 芝西久保巴町に薬舗を開業する。1889.5.1 長男の憲一(同墓)誕生。1894 病院への薬品セールスを行っていたが、ジフテリアが流行すると東京府吏員となって、伝染病予防に尽くした。また吉原貸座敷業者組合病院(都立台東病院)の薬局に勤務、薬局長の稲野鉄太郎と親交を結んだ。
 1895 日本橋駿河町所在の調剤専門薬局を買収し、歌橋輔仁堂を開設した。同年、経済学者の天野為之(9-1-9-1)の紹介で、東京帝国大学医学部の入沢達吉、青山胤通、三浦謹之助らと知り合い、この医学者たちの処方調剤で輔仁堂は大繁盛した。そのため吉原貸座敷業者組合病院を辞め、輔仁堂の経営に専念する。
 繁盛していた翌年、1896.5.23 妻かつ が亡くなる。また薬の処方と調剤を分離し、それぞれを医師、薬剤師という専門家が分担して行う医薬分業論が下火になる。加えて病院の地方進出などで輔仁堂の経営も下向きになってきたため、大日本製薬合資会社に勤務することにした。
 1898.7.15 芦屋徹の養妹の志満(しま:同墓)と再婚。1899 東京帝国大学医学部皮膚科教授の土肥慶蔵(7-1-1-5)から、チェコのF.J.ピック博士(1834-1909)発明の「ピック氏硬膏」製造の指導を受け、その研究に着手。1902.7.23 後妻との子(前妻とあわせて5男)均也が誕生。この頃「ピック氏硬膏」の研究試作が進捗し、商品化を目指して専念するために大日本製薬を辞す。後、ピック氏硬膏製造法を完成させた。
 '07.9 輔仁堂を本石町に移転し、更に、'09 輔仁堂を日本橋本町1丁目9番地(日本銀行裏門前)に移転。ピック氏硬膏は評判の良い薬と評判になる。'10からは長男の憲一も輔仁堂の薬剤師として働き始める。'18(T7)東京薬品試験(株)の専務取締役に就任。息子の憲一も同年父の薬局から東京府荏原郡に歌橋製薬所を開業し薬の製造に乗り出す。そのため、'19 輔仁堂を閉鎖した。'34 日本薬学会名誉会員。享年74歳。座右の銘は「一以貫之」(墓石の後ろの壁碑に刻む)。

<ニチバン80年史>
<人事興信録など>


墓所 一以貫之

*墓石正面は「歌橋家墓」。裏面に「昭和十三年六月 歌橋憲一建之」と刻む。後ろの壁の真ん中に歌橋又三郎の座右の銘「一以貫之」と又三郎の略歴が刻む。壁の左右に墓誌がはめ込まれており、右側の墓誌は前妻の かつ(1896.5.23歿・マリヤ)から刻みが始まる。又三郎の聖霊名はアンキサンドル。又三郎の右隣に後妻の志満(1936.3.21歿・ユニヤ)が刻む。左端に長男の歌橋憲一(ワンリノ)が刻み、右隣は憲一の妻の はな(1981.3.29歿・オリガ)が刻む。左側の墓誌には孫で憲一の長男の歌橋一典(エラスト)と一典の妻の八重子(2021.6.2歿・ダイア)が刻む。なお、歌橋家は又三郎以降は日本ハイリストス正教会所属のクリスチャン。墓所左側には又三郎建立の戒名が刻む墓石が建つ。

*一以貫之(いつもってこれをつらぬく)とは、一貫して変わらず道を進むことという意味。孔子とその弟子の言行を書いた「論語」の言葉。

*歌橋又三郎と前妻の かつ との間に4男設けており、長男が憲一。早死した三郎と四郎も墓誌に刻む。墓誌に刻む小林勘次郎が二男であるかは不明。後妻の志満との間に生まれた5男の歌橋均也はニチバンの社長を務めている。

*歌橋憲一の妻の はな は長野県出身の清水源吾の二女。4男5女を儲ける。長男の歌橋一典(同墓)はニチバン社長を務めた。一典の妻の八恵子は山梨県出身の小野四郎の長女。1男2女を儲け、長男の歌橋正明はニチバン執行役員などを務めた。なお、歌橋憲一の二男は春雄(1921生)。三男の昭和(1927生)は歌橋医院院長。四男の憲三(1929生)はニチバン取締役。長女は早死。二女の美代は堀内淳一郎に嫁ぐ。三女の わか子は入江七平に嫁ぐ。四女は郁子。五女の けい子 は今村嘉男に嫁ぐ。


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