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うたはし けんいち

歌橋憲一

うたはし けんいち

1889.5.1(明治22)〜 1984.10.10(昭和59)

大正・昭和期の実業家
(絆創膏・セロハンテープ)

埋葬場所: 12区 1種 17側

 東京出身。東京薬学校卒業。1910(M43)薬剤師として父の営む薬局で働く。'18(T7)東京府荏原郡に歌橋製薬所を開業し薬の製造に乗り出す。 工場で生産していたものは、主に硬膏・軟膏であり売れ行きがよく、特にピック氏軟膏は評判の良い薬であった。
 輸入品のゴム絆創膏(ばんそうこう)を知る。今までは包帯などは端を留めるときは縛るものであったが、このゴム絆創膏を使用すれば、粘着性があるため貼るだけで留めることができた。 医療現場では好評で一般にも広がりを見せていた。歌橋はゴム絆創膏は医療分野だけではなく、多方面で将来性がありそうだと考え、ピック氏軟膏の製法を応用し、独自のゴム絆創膏の開発に取り組んだ。 研究の結果、ゴムに樹脂溶剤を混ぜて乾燥させる方法を突き止め試作品が完成した。 歌橋の絆創膏の売上は良かったが、気温によるゴムの変質などの問題に直面し、混ぜている樹脂がゴムの老化を速くしていることが原因であることを知る。 改良を重ねるも、一度失った信用は取り戻せず、経営も苦しくなってきたとき、'23(T12)関東大震災が発生。 陸軍が震災の救急用にゴム絆創膏を全部買い、危機を脱する。その軍の関係者より、アメリカではゴム絆創膏に溶剤は使用しないことを聞かされる。 そこで、ゴムを薄く伸ばしツヤを出すキャレンダーを手に入れ、試行錯誤した結果、偶然キャレンダーを逆回転しできたゴム絆創膏が溶剤を使用しない最高の出来栄えであった。 '28(S3)キャレンダーによるゴム絆創膏の販売を開始。当初は50センチであった。この絆創膏は病院や官庁で高く評価され、歌橋製薬所は絆創膏のトップメーカーへと躍進。'34株式会社に改組し、絆創膏市場の80%を占めた。
 '44戦時下の材料不足を解消するために、国内24社の絆創膏メーカーは統合。社名は“「日本」を代表する「絆創膏」会社”を願う意味をこめ、日絆工業株式会社と命名した。 その初代社長となる。戦後'47欧米で人気の商品「セロハン粘着テープ」(3M社が開発した「スコッチテープ」)と出会う。 歌橋は戦時中にそれと似たものを考案し軍に納品していたこともあり、ゴム絆創膏の製法を応用し、日本独自のセロハンテープの製作に取り掛かった。 研究がはじまりしばらくした時に、GHQから打診を受け、アメリカから送られてくる分ではセロハンが足りない、日本での調達が必要であるので作ってもらいたいという依頼であった。 依頼を受けた一ヵ月後、GHQに試作品を出し、絶賛され大量発注を取り決めた。
 '48日絆薬品工業株式会社に社名を変更し、商品名「セロテープ」を登録商標をとり、一般向けにも販売を開始。 '61ニチバン株式会社に改称。その後は、販売ルートの開拓、商品の改良に努め、セロテープを文房具の三種の神器(他は速乾性インキ、ボールペン)と言われる程に浸透させ、粘着テープの総合メーカーに成長させた。享年95歳。

<講談社日本人名大辞典>
<社名の由来(集英社)>
<森光俊様より情報提供>


墓所 一以貫之

*墓石正面は「歌橋家墓」。裏面に「昭和十三年六月 歌橋憲一建之」と刻む。後ろの壁の真ん中に「一以貫之」と刻む。 壁の左右に墓誌がはめ込まれており、右側の墓誌の左端に「ワシリイ 憲一 昭和五十九年十月十日永眠」と刻む。

*一以貫之(いつもってこれをつらぬく)とは、一貫して変わらず道を進むことという意味。孔子とその弟子の言行を書いた「論語」の言葉。

*憲一の父の歌橋又三郎(アレキサンドル 1863-1937.6.24 同墓)は東京日本橋に薬局歌橋輔仁堂を創立し、チェコのF.J.ピック博士(1834-1909)発明のピック氏硬膏製造法を完成させた。憲一の長男の歌橋一典(エラスト 1916-2010.9.1 同墓)はニチバン社長を務めた。


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