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おおさわ かいゆう

大澤界雄

おおさわ かいゆう

1859(安政6.9.24)〜 1929.10.15(昭和4)

明治時代の陸軍軍人(中将) 、兵站専門家

埋葬場所: 6区 1種 13側

 愛知県出身。真宗大谷派・清涼山・大覺寺の住職の大沢霊雄の次男。1881.12.24(M14)陸軍士官学校卒業(旧4期)。同期に大島健一(後に中将・陸軍大臣:14-1-2-3)、石川潔太(後に少将:13-1-3)らがいた。 陸軍歩兵少尉に任官。1888.11.28陸軍大学校を優等(恩賜)で卒業(4期)。同期に大井成元(後に大将:9-1-3-1)らがいた。大学時代にメッケル少佐の講義を受けて感化され、卒業後に輜重兵に転科した。
 1893.1 改軌の調査や兵站輸送研究のためにドイツへ渡り、1895.4帰国。輜重兵少佐として兵站監部参謀を務めた。この頃、児玉源太郎(8-1-17-1)とのコンビで注目され始めていた兵站(へいたん)の重要性を説いた。 兵站とは戦争において作戦を行う部隊の移動と支援を計画し、また実施する活動を指す用語を指す。大澤は軍事輸送の専門家として活躍した。また、1895日清戦争終結時期に行った帰還兵士への検疫と衛生管理も特筆すべき点である(詳しくは児玉源太郎のページに詳しい)。 加えて、鉄道国有化論者でもあり、1898.7論考『鉄道ノ改良ニ関スル意見』を発表し、車両製造技術が向上し車両の幅を軌間の3倍まで拡張することが可能になったこと、線路や貨物輸送方法の変更、鉄道職員の育成など鉄道システム全般の改革改良により狭軌(軌間 1067mm)のままでも輸送量増大へ対処することが可能であると主張した。 すなわち、各国の鉄道情況を調査した結果、鉄道の改軌論争において広軌化が必要ないと断言した。これにより、軍部が鉄道国有化へ方針を改めたとされる。
 1901.6.28参謀本部第3部長心得。同.11.3陸軍輜重兵大佐に昇進して、参謀本部第3部長となる。'04.2.10大本営運輸通信長官を兼ねる。日露戦争では兵站補給を見事に運営した。'05.1.20少将に累進。
 '07.11.13参謀本部附、'08.1.22参謀本部第3部長事務取扱、同.12.21参謀本部第3部長を経て、'11.12.27由良要塞司令官に就任。'12.2.24中将になるが、同.9.28(T1)待命、'14.1.20予備となった。功三級。享年70歳。

<帝国陸軍将軍総覧>
<講談社日本人名大辞典など>


*墓石は和型「大澤界雄家墓」。墓誌があり、大澤界雄から始まる。俗名・没年月日・行年が刻む。享年七十一才と刻む。妻は ひさ。長男の大澤一介(S17.12.24没・同墓)は第六十四駆潜隊司令などを務めた海軍大佐(海兵35期)。 次男の大澤二郎(S5.3.4没・同墓)は陸軍大尉(陸士24期)。なお、娘は陸軍大佐の解良七郎に嫁す。

*真宗大谷派・清涼山・大覺寺は愛知西加茂郡三好町にある。境内には「大澤界雄顕彰碑(生誕の地碑)」が建つ。また、清涼山大覚寺17世の大澤宗雄らにより『立志の人 大沢界雄』が刊行された。


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