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いしかわ きよた

石川潔太

いしかわ きよた

1858(安政5)〜 1932.5.30(昭和7)

明治期の陸軍軍人(少将)、
大正・昭和期の食糧問題運動家、教育者

埋葬場所: 13区 1種 3側

 岡山県久米郡出身。1881.12.24(M14)陸軍士官学校卒業(旧4期)。同期に大島健一(後に中将・陸軍大臣:14-1-2-3)、大澤界雄(後に中将:6-1-13)らがいた。 陸軍歩兵少尉に任官。
 1892.3屯田工兵大尉の時に、第2代工兵隊長として北海道の開拓として茶志内(ちゃしない)(北海道美唄市:札幌と旭川の間)に着任した。1897.10.11少佐の時に初代 工兵第8連隊長、1999.7.11中佐の時に工兵第11大連隊長に就任。 1904.10.30大佐に昇進し、日露戦争に出征した。'06.11.27工兵第4大連隊長を歴任し、'10.9.3少将に進級して、同日待命・予備となった。従4位 勲3等 功3級。
 大正、昭和初期には、食糧問題の食糧の根本的解決を提唱する運動を積極的に行い、馬鈴薯(ばれいしょ=じゃがいも)将軍と謳われた。
 1919(T8)郷里の岡山県久米郡に山本唯三が私立実業学校を創立し、初代校長となる。堅実な青年教養の傍ら、多年の研究から新工夫された玄米混成油入麺麭を奨励する。 玄米混成油入麺麭を徹底的に各家庭へ普及させたいと思っているという自説は、農商務大臣や陸軍大臣らにも直接訴え、また帝国在郷軍人会の役員会が開かれた席へも顔を出し主食改良意見を述べた。 石川は、貧弱な日本人の体格は食料が悪いからで、滋養に富んだ玄米麺麭を摂取したら、西洋人に負けない立派な体質が出来て国民保健上に大効があるという自説である。 原料に少量の塩と油を加味し焼くから別段バタを附着せずとも美味で価格も安く経済上頗る徳用となる。石川の混成玄米麺麭は食糧の調節以外に衛生保健、経済時間の点に於て一挙数得を得る勘定であると、当時の新聞などでも大きく報じられた。'27(S2)『我国の食糧自給として玄米混成麭製法及び試食』を刊行。享年74歳。

<帝国陸軍将軍総覧>
<大阪朝日新聞 食料問題記事など>


*墓石は正面「陸軍少将 従四位 勲三等 功三級 石川潔太之墓」と刻む。右側に墓誌があり、戒名は修徳院義覚道契居士。妻はセイ。


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