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おおまえ としかず

大前敏一

おおまえ としかず

1902(明治35)〜 1978.3.30(昭和53)

大正・昭和期の海軍軍人(大佐)、
呉淞上陸作戦・ソロモン海戦の指揮官

埋葬場所: 9区 2種 1側

 大阪船場出身。大前文次郎、孝(共に同墓)の長男。大阪府立北野中学校を卒業し、1922.6.1(T11)海軍兵学校卒業(50期)。'23.9.20 少尉に任官し、同.12.1 名取乗員、伏見乗員を経て、'24.12.1 安宅乗員になる。
 '25.12.1 中尉に進む。海軍水雷学校普通科教程修了、航海学校高等科を経て、'27.8.24 第一水雷戦隊 第27駆逐隊 2番艦「葦」の水雷長となり、山陰の美保ガ関沖で夜間演習中に、「神通」艦長の水城圭次(6-1-1-13)を筆頭に衝突事故が起きた「美保ヶ関沖事件」に遭遇した。
 '27.12.1(S2) 大尉に進級し、'28.12.10 重巡洋艦「衣笠」分隊長。'29.11.1 一等駆逐艦「敷波」水雷長。'30.10.1 練習艦隊参謀に就任。水雷学校教官を兼務。'32.12.1 海軍大学校甲種に入学。'33.11.15 少佐に昇進。'34.7.19 海軍大学校を次席で卒業(優等・32期)。羽黒水雷長になり、同.11.1 軍令部出仕、第三部第五課勤務。

【呉淞上陸作戦】
 '35.4.1 アメリカ駐在。'37.5 二年間の駐在を終え帰国。同.6.1 第23駆逐隊の菊月艦長を拝命する。同.7.7 発生した盧溝橋事件が起こり、同.7.11 佐世保にて24時間即時待機命令を受ける。上海で緊張が高まり、佐世保で待機中であった第23駆逐隊は第三水雷戦隊に編入され、旗艦「北上」に将旗を翻す司令官の近藤英次郎少将に率いられて、同.7.14 佐世保を抜錨。翌日夜に揚子江口に到着。菊月、三日月、望月、夕月からなる第23駆逐隊は江湾鎭附近を砲撃。埔東側から砲銃射撃を受け、約一時間これに応戦した。
 同.8.23 船団は一斉に黄埔江西溝を発航。第23駆逐隊の先頭艦「菊月」を先頭に、第21水雷隊、輸送船雲陽丸、當陽丸、信陽丸、第三水雷戰隊旗艦「北上」の順の単縦陣。これに 第一回上陸部隊の 第三師団先遣隊を乗船させた橋本信太郎大佐司令の第7駆逐隊「朧」「潮」「天霧」が続いた。上陸作戦の成否の鍵は先頭艦「菊月」の艦橋で指揮をとる艦長の大前の雙肩に懸かっていた。上陸予定地點附近に達し、大前の「撃チ方始メ」の号令で一斉砲火を始め、後続の艦艇も順次これにならい戦闘が始まる。竹下少佐の乗船する雲陽丸が陸上の敵を制圧しながら岸壁に横付けし、敵前上陸を開始し、三時間の激闘の末、「呉淞(ウースン)上陸作戦」は成功した。

 同.10.23 軍令部出仕。同.11.15 軍令部員 兼 海軍省出仕の辞令を受け霞が関勤務となる。軍令部では第三部長直属の諜報主任を務め、部長の野村直邦少将を補佐した。同.12.12 着任してすぐに起こった「パネー號誤爆事件」の処理にあたる。これは南京陥落直前の揚子江近隣に敗走する支那軍の船に向けて艦船攻撃命令を受けた日本海軍が砲撃。しかし、沈没させた船がアメリカ海軍砲艦パネー号であることが判明した事件。結果、海軍次官であった山本五十六(7-特-1-2)と、軍務局長であった井上成美(21-1-3-18)、駐米大使の斎藤博(9-1-2-20)らがアメリカと掛け合い沈静化させた。
 '38.4 海軍武官として上海へ赴任。同.11.15 海軍士官学校同期生の中でトップを切って中佐に進級。'39.12 軍務局第一課の辞令を受け海軍省へ移る。'41.3 後任の阿部勝雄少将と共に日独伊三国同盟の軍事専門委員としてドイツへ派遣され、ドイツ駐在。同.7 ドイツ潜水艦U511に便乗して帰国。
 '42.6.7 ミッドウェー海戦で惨敗を喫し壊滅した第1航空艦隊の司令部を新編の空母部隊の第3艦隊に据へ、新たに第8艦隊を新設する編制替の仕事を最後に軍務局第一課を去り、同.6.20 連合艦隊司令部附、同.7.14 第8艦隊の作戦参謀に着任した。


【ソロモン海戦】
 日本海軍軍令部はニューカレドニア、フィジー、サモア方面への進出作戦であるFS作戦をたてていたが、ミッドウェー海戦の敗北で作戦は延期となり、トラック諸島防衛と失った空母の航空兵力を補うため、井上成美(第四艦隊司令長官)の進言により、ガダルカナル島にルンガ飛行場を建設することになった。同.7.26 第4艦隊は第8艦隊に外南洋方面受持警戒区域の引継ぎを行う。第四艦隊は米軍は外南洋の島伝いには来ないと伝えたが、対照的に連合国軍は同方面を重要視し、ガダルカナル島に日本軍飛行場が建設されれば、アメリカとオーストラリアの連絡を遮断される恐れがあると判断する。連合国軍の絶対防衛圏の死守・ソロモン諸島を奪還するための足場確保・東部ニューギニアの戦いの間接的支援のため、ミッドウェー海戦後にソロモン諸島とサンタクルーズ諸島の奪還と確保が研究された。そして、同.8.7 アメリカ軍海兵隊約3千名を主力とするアメリカ軍がガダルカナル島および対岸のツラギ島に奇襲上陸した。奇襲を受けた日本軍守備隊は第8艦隊に至急の救援を要請した。
 緊急電を受けた第8艦隊司令部は直ちに対応を開始。大前は「第二十五號信號命令」を練り上げ、発光信号で各艦に下達した。「第一目標は敵輸送船であること」「複雑な運動を避けて単縦陣による一航過の襲撃とする」「翌朝までに敵空母の攻撃圏外に避退すること(ミッドウェーの二の舞を避けるため)」「ソロモン列島間の中央航路を通ってガダルカナル泊地まで進出する」という作戦を立て、ガダルカナル、ツラギ奪還を目指そうとした。この作戦計画提出を受けた大本営は、あまりにもリスクの高い作戦だと懸念。米艦隊の全貌もわからず、第八艦隊のどの艦もガダルカナル周辺で行動したこともなく、航空機の援護は望めず、参加艦艇が統一陣形を組んだことすらなかったからだ。だがミッドウェー海戦の敗北で海軍の士気が低下していることを考慮した山本五十六連合艦隊司令長官は、「連合艦隊の命令ではない」とし、出撃計画を承認した
 第一次ソロモン海戦の結果は、予想に反して、日本側の勝利となった。連合軍側は重巡4隻が沈没、重巡1隻、駆逐艦2隻が大破の大損害を受けたが、日本側は帰りに「加古」が沈没しただけだった。しかし、本来の目的であるアメリカ軍輸送船団攻撃ができずに揚陸を許し、日本軍輸送船団は米潜水艦の攻撃で撃退され、ガダルカナル・ツラギの早期奪還作戦は頓挫し、日本側の作戦は失敗した。報告を聞いた山本五十六は「こんなものに勲章をやれるか」と激怒したとされる。


 '43.5.1 大佐に昇格。同.12.10 横須賀鎮守府付として内地へ帰任。'44.1.1 軍令部出仕。同.1.15 海軍大学校教官となったが、わずか二か月で「あ号作戦」に参加するため、同.3.15 第一機動艦隊司令部付を経て、同.3.25 第一機動艦隊参謀(首席参謀)兼 第三艦隊参謀に補され、シンガポールセレター軍港の旗艦「瑞鶴」に着任した。「あ号作戦」はマリアナ方面へ連合軍が進攻することを予想した日本側の決戦計画である。同.5.20 連合艦隊は「あ号作戦開始」を発令。第1機動艦隊を中心とする連合艦隊主力が出撃したが、同.6.19 マリアナ沖海戦が発生し、「大鳳」「翔鶴」「飛鷹」の航空母艦3隻をはじめ、多くの航空機を失い日本は敗北し、「あ号作戦」は失敗に終わった。「瑞鶴」は艦橋を小破した状態で日本本土に帰還した。
 同.7.17 東條英機内閣の末期、野村直邦海軍大臣の後任として海軍の歴史の中で最短の海軍大臣を五日間だけ務める。同.11.15 横須賀鎮守府付。'45.1.20 大本営海軍部参謀被仰附、軍令部第一部第一課 作戰企画班長となった。同.8.3 大本営海軍参謀部、軍令部第一部第一課長を命ぜられ、最後の軍令部作戦課長を務めた。同.10.15 予備役編入。この時、43歳、幾度も死線を潜り抜けた波乱万丈の23年間の海軍生活であった。
 戦後、'60.11『開戦前夜と敗戦秘話』(十二月七日の米秘密情報)を刊行。'71 ドナルド・マッキンタイヤー 著の『レイテ : 連合艦隊の最期・カミカゼ出撃』を翻訳した。享年75歳。


<日本海軍士官総覧>
<日本海軍将官総覧>
<帝國海軍への鎭魂頌「大前敏一海軍大佐の足跡を訪ねて」レクイエム帝國海軍>


*墓石は和型「大前家之墓」。左側に墓誌が建つ。父の大前文次郎から刻みが始まる。戒名は天海院俊敏一徹大居士。妻は美登里(H13.11.14歿)。長男は大前登(S62.2.26)。


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