鹿児島県大島郡龍郷村(奄美大島の龍郷町)出身。1898(M31)沖縄県国頭小学校校長。1905.1.20東京市東陽小学校(江東区立東陽小学校)2代目校長に着任(〜'06.6.19)。校長時代に『日本教育行政法述義』(1906.4)を刊行している。
日本大学に進学し、'09卒業。同年、司法官試補となったが、翌年退官し、弁護士を開業した。徳福銀行監査役などを務める。'12『訴訟の顧問 : 書式詳説』を金子亀次郎と共著した。また『黒糖ニ對スル消費税廢止ニ關スル意見』も著した。
'20.5.10(T9)第14回衆議院議員選挙に鹿児島県8区から立憲政友会公認で出馬し初当選。この選挙から有権者の資格が直接国税10円以上を納める男子から直接国税3円以上を納める男子に拡大され、有権者数が前回選挙に比べて倍以上に増加したため、選挙区制度が大選挙区制から小選挙区制に移行して初めての選挙となった。結果与党の立憲政友会が100議席以上伸ばし278議席を獲得した圧勝で原敬内閣が継続。祷はその波に乗り初当選となった。
立憲政友会・憲政会・革新倶楽部の3党が提携した護憲三派の結成に対して、政権獲得を狙った立憲政友会の実力者であった床次竹二郎(12-1-17-18)が脱党し、'24.1.29政友本党を結成して清浦内閣の与党となった。同じ鹿児島県出身の祷も政友本党に移った。護憲三派の行動などを理由に衆議院が解散。'24.5.10第15回衆議院議員選挙に同じく鹿児島県8区から政友本党として出馬し当選(2回目)。鹿児島県1区から出馬した床次を含め、鹿児島県は8区全員が政友本党出馬で勝利した。しかし、政友本党は全国116議席に留まり、護憲三派が281名当選したため清浦内閣は退陣し憲政会の加藤高明が内閣を組織することになった。政治家在任中に逝去。享年50歳。