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あわや せんきち

粟屋仙吉

あわや せんきち

1893.11.7(明治26)〜 1945.8.6(昭和20)

大正・昭和期の内務官僚、
県知事、原爆時の広島市長

埋葬場所: 区 種 側 番

 宮城県出身。父の頴祐(えいすけ)は東京府士族の鉄道省官吏(粟屋家は山口県の出)、母は幸代。二男として生まれる。 父の転勤先の仙台で生まれたため仙吉と命名される。日本の鉄道の父といわれる井上勝は大叔父にあたる。
 鳥取県の米子中学(現:米子東高校)時代では野球部に所属する。米子中学は第一回甲子園予選から出場し現在まで皆勤を続けている古豪(皆勤は15校のみ)であるが、仙吉の時代には夏の全国大会が始まる前であった。 第一高等学校を経て、1919(T8)東京帝国大学法学部法律学科卒業。
 内務省に入省。'20広島県属・農務商工課長・広島県警視保安課長、'22広島県人の安藤八尾の長女の幸代と結婚。 '24北海道理事官・教育兵事課長・補視学官・任事務官、'25地方課長兼統計課長を歴任。 その後、都市計画課長、'29(S4)高知県書記官警察部長となる。この時、漁業史に残る機船底引網漁業全廃闘争が起こり、仙吉は運動リーダーと話し合いを重ね収めた。
 '31愛知警察部長、同年.12.24文官分限令によって休職となった。'32.6大坂府知事の縣忍(あがた しのぶ)の要請で大阪府警察部長として復帰する。 この時に、信号無視の陸軍兵士をめぐる「ゴーストップ事件」(天六事件)がおこり陸軍と対立したが、圧力に屈しなかった。 '35愛知県総務部長、'36兵庫県総務部長を経て、'37(S12)第31代大分県知事に就任〔在任:1937.7.7(S12)-1939.4.17(S14)〕した。
 '39農林省経済部長、'40水産局長、'41馬政局長官を歴任して、'42退官し隠居。 しかし、当時の大蔵大臣の賀屋興宣(9-1-1-8)の懇請により、'43.7第18代広島市長に就任した。 '45.8.6原爆により市長官舎で被爆し逝去。従5位。享年51歳。
 仙吉の遺体は住居を兼ねていた市長公舎の庭で白骨で発見された。2メートル離れた場所に孫(3歳)の忍も白骨で発見される。 爆心地から南へ約950mの場所に位置していたため、閃光を浴び一瞬にして白骨化したとされる(一説によると、倒壊した建物の下敷きとなり焼死したともいわれる)。 前夜、仙吉は第二総軍畑司令官の接待を受け、軍司令部の参謀長着任披露会に招かれ、午後9時頃に市長公舎に帰宅したが、夜半に空襲警報が出たため登庁。 翌6日の午前2時頃に警報解除となり再び公舎に戻った。原爆投下時の8時15分は、公舎の庭で孫娘といたところ被爆したとされる。 幸代夫人(42歳)は家の下敷きとなり、自力で這い出して近くの神社に避難したが、口が裂け、顔に裂傷を負い、肩はえぐりとられた状態であったため病院に搬送されるも、一ヵ月後に亡くなった。 仙吉と幸代の二女である康子を題材にした『康子十九歳 戦渦の日記』(著:門田隆将)がある。康子は二次被爆により同年.11月に亡くなった。 '45.12.6仙吉、妻の幸代、二女の康子、三男、孫の忍の合同告別式が行われた。告別の辞は塚本虎二が述べた。
 仙吉は無教会主義のクリスチャンである。きっかけは中学生の時に目にした内村鑑三(8-1-16-29)の『聖書之研究』。 鑑三の長男の内村祐之(8-1-16-29)とは家族ぐるみの付き合いであった。酒豪だった父とは違い酒は飲まず、柔道5段。几帳面で正義感が強く、軍が相手でも屈せぬ真っ直ぐな人物であったとされる。

<日本歴代知事総覧>
<講談社日本人名大辞典>
<新聞うずみ火「戦没野球人」など>
<金子昌広様より情報提供>


*旧市長公舎はの跡地には「被爆市長公舎跡」という石碑が'95.8.10(H7)広島市にて建立された。

*原爆投下時の広島県知事は高野源進(15-1-9)であり、高野は出張中であるため被爆は免れ、被災地の復興に務めた。


【ゴー・ストップ事件】
 別名は天六事件、進止事件ともいう。ゴー・ストップ事件は陸軍兵士の信号無視を注意した警察官をきっかけに、陸軍と警察(内務省)の対立にまで発展した事件である。
 1933.6.17(S8)午前11時40分頃、大阪府大阪市北区天神橋筋6丁目交叉点で、休暇中の中村政一陸軍一等兵が信号を無視し、交通整理中の曽根崎警察署の戸田忠夫(中西)巡査が注意をし、天六派出所まで連行した。 しかし、中村が「軍人は警官の命令には従わない」と反論し喧嘩となり互いに負傷。見物人が大手前憲兵分隊へ通報し、駆けつけた憲兵隊の伍長が中村を連れ出してその場は収まるが、その2時間後、憲兵隊は「公衆の面前で軍服姿の帝国軍人を侮辱したのは断じて許せない」として曽根崎署に対して抗議した。 曽根崎署の高柳博人署長は平和的に事態の収拾を図ろうとしたが、中村の所属する連隊長が不在であったため、上層部に直接報告が伝わり、21日には憲兵司令官や陸軍省にま伝わり事件が大きくなった。 当事者の事情徴収では、中村は信号無視と先に手を出したことを否定し、戸田は中村が信号無視をし先に手を出したと主張が異なる供述であった。
 6月22日に第4師団参謀の井関隆昌大佐が「この事件は一兵士と一巡査の事件ではなく、皇軍に拘る重大な問題である」と声明したことに対して、粟屋仙吉大阪府警察部長は「軍隊が陛下の軍隊なら、警察官も陛下の警察官である。 陳謝の必要はない」と言明。メディアは「軍部と警察の正面衝突」などと大きく報じた。
 6月24日、寺内正毅の息子の寺内寿一第4師団長と縣忍大阪府知事の会見も決裂。7月17日、中村一等兵は戸田巡査を相手取り告訴。 事件の処理に追われていた曽根崎署長の高柳博人は疲労で倒れ入院し、7月28日に逝去。8月24日、事件目撃者の一人であった高田善兵衛が、憲兵と警察の度重なる厳しい事情聴取に耐え切れず自殺。 事態を憂慮した昭和天皇の特命により白根竹介兵庫県知事が調停に乗り出し、11月18日に和解が成立した。 11月19日に井関隆昌第4師団参謀長と粟屋仙吉大阪府警察部長は連名で共同声明を出して軍と警察(内務省)の争いは終結。11月20日、当事者の戸田と中村は大阪地方検事局の和田良平検事正の官舎で会い、互いに詫びたあと握手して幕を引いた。 和解の内容は公表されていないが、警察側が譲歩したものだとされている。この後、現役軍人に対する行政措置は警察ではなく憲兵が行うこととなり、軍部が法を超え、次第に国家の主導権を握るきっかけとなった。


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