東京出身。一橋家家臣・荒木氏の家系。父は陸軍大将の荒木貞夫、錦子(共に同墓)の長男。
子供の頃、海外に父の同行者として赴く。1935.12.26(S10)荒木家は父の貞夫が陸軍大将・陸軍大臣・文部大臣及び満州事変の功により男爵の爵位を授爵し華族の列せられた。このことについて貞發は「父がなぜ華族に列せられたのかよく分からない。父がニコライ二世の金塊を日本へ運び込んだと思われる旅には、カモフラージュのためか子供の私も父に呼ばれ同行した。帰国後に父が偉くなったのは、参謀本部に金塊を預けたせいではないか、華族になったのもそのおかげではないかと思う」と回想している。
'37ロンドン大学工科卒業。卒業後は現地で日産自動車に採用され、そのまま英国駐在となった。当時の社長は鮎川義介(10-1-7-1)であり、社長直々に「ナチス・ドイツで『国民車』という革新的な小型車が出来ていると聞いた、購入して日本に送れ」という特命を受けた。この時期は、日本とドイツは同盟関係にあったため、ドイツ大使館付武官(後の陸軍中将)の大島浩(14-1-2-3)から添え状を貰い、ハノーバーからまだ単線であった列車に乗り、ウォルフスブルクの寒村に建設されていた国民車工場を訪ねた。折よくフェルディナント・ポルシェ博士に会うことができ国民車を譲ってもらいたいと懇願。「国民車は労働者手帖(KdF)保持者が月額5マルクずつ積み立て、それが500マルクに達したら車を渡すもので、法律上から車の売却は出来ない」と言われる。しかし、自分の設計に興味を持ってくれた事に感謝され、設計資料の寄贈と工場見学をさせてもらう。工場にいたポルシェ博士の子息のフェリーとも同年代で仲良くなり、技術解説を受けることができた。貞發は供与された設計資料をそのまま日産本社に送ったが、当時の日産技術者たちには理解ができない資料であり開発は進まなかった。貞發はその時を振り返り、バックボーン・シャシーと一体化する応力外皮式のボディ、リヤエンジン、トーションバーなど当時の日本技術者の通念からは程遠く、またボディ外板を構成する薄板も無かったし、何よりも鋼板を溶着する電気溶接の技術もなかった。'38日本に帰朝。前年に送った設計資料を探したが行方はわからなかったという。
戦時中は応召して広東に駐留、内地に引き上げ後は、名古屋に駐屯し自動車部隊に所属した。その時に、豊田自動車が刈谷市に本格的工場を建設着工するにあたり、軍の命令で工場に応援。そこで豊田利三郎と親しくなった。戦後、オーストリアのツエルアム・ゼー湖畔の山腹に建つポルシェ家でフェリーと再会している。日産退職後は、荒木研究所を創設し社長を務めた。従五位。享年98歳。