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あおき しょうぞう

青木庄蔵

あおき しょうぞう

1863(文久3)〜 1947.7.13(昭和22)

明治・大正・昭和期の政治家、
社会事業家(禁酒運動)

埋葬場所: 5区 1種 29側

 奈良県吉野出身。幼少期は不明であるが、明治期に大阪市会議員をつとめる。
 1912(M45)人口集中が激しい大阪にあって、多数の失業者や下級労働者を救済保護をするために、青木が中心となり、数名の実業家と協議し財団法人として大阪職業紹介所を設立。慈善事業における職業紹介の重要性を論じていた八浜徳三郎を主事に迎え運営を任せた。
 大阪天満教会の信者のクリスチャンであり、1918.6.10(T7) 青木が発起人となり日本基督教平信徒革正会を結成した。革正会は「再臨を以って聖書の中心的真理なりと信じその研究宣伝を期す」を設立趣意の一つに掲げた。これは当時のキリスト教で「再臨運動」の是非が議論されている中において、再臨運動を信者として支援し、聖書に従って教会そのものを改革していこうとする団体である。この趣意に関して、親交があったキリスト教指導者の内村鑑三(8-1-16-29)は喜んだとされる。
 関西地域において、青木はキリスト教的人道主義の立場に立つ実践を行いつつも、布教活動と混同させないように分けて展開していた。社会的厚生活動の一環に全国各地で広がりがあった禁酒運動にも傾倒。大阪の禁酒同盟会の中心人物としても活動をした。
 1889.7 時点で、全国に63組織の禁酒団体があった。この中には矢島楫子(3-1-1-20)の東京婦人矯風会、林蓊の横浜禁酒会(第三次)、伊藤一隆らの北海禁酒会(北海道)、吉植庄一郎らの北総禁酒会(千葉県:帝国禁酒会関東支部)、高楠順次郎らの反省会(京都)などがある。国家の文明化を果たす上で「国家的禁酒」が必要であるという考え方や、個々人に利益をもたらす「家族的禁酒」の考え方、あるいは禁酒を通じた社会改良運動の側面は、キリスト教徒に限らない人々に禁酒運動が受け入れられることにつながったとされる。
 日本における禁酒運動は、1896 WCTUのクララ・パリッシュ (Clara Parrish) が来日し、全国各地の禁酒会をつなぐ全国組織「日本禁酒同盟会」の結成が進められた。1898.10.1 東京九段美以教会において全国組織「日本禁酒同盟会」が発足し、安藤太郎が会長となった。1917(T6)日本禁酒同盟第1回全国大会が甲府で開催。しかし、大正期に入ると禁酒運動はキリスト教色が強まり、布教の手段だと誤解されることも多くなり、大阪の禁酒同盟会が脱退するなど混乱が起きた。この大阪で禁酒運動の中心人物として活動をしていたのが青木である。
 日本禁酒同盟会は組織の再建を青木に託す形で、'19(T8)日本禁酒同盟会会長への就任を打診し受入れ就任した。その際、名称を「国民禁酒同盟」として再組織。国民禁酒同盟は禁酒運動そのものを追求する組織であると掲げた。これにより、日本禁酒同盟会と国民禁酒同盟会との合同妥結を達成させ全国の禁酒同盟を統一した。さらに統一したことにより財団法人としての登記も達成させた。
 '20 文部省所管の財団法人化に伴い「財団法人日本国民禁酒同盟」として、事務所を神田表猿楽町のYMCA同盟開館に設置。青木は新組織に伴い常務理事となり、長尾半平(6-1-5-8)を理事長として迎え就任させた(初代は安藤太郎とし、長尾は2代目とされている)。日本国民禁酒同盟は加盟団体数240余、会員数は約二万人まで拡大した。
 禁酒運動だけでなく、その関連活動としてアルコールの科学的研究をめざす「財団法人青木匡済会」を設置をし、理事長に就任。併せて「青木匡光出版社」も設立し、そこから多くの著書を刊行して広く思想を普及させた。
 主な著書に『世界をめぐりて』(1925)、『国家禁酒と国家経済』(1928)、『神と人』(1933)、『回顧七十五年』(1937)。また牧野虎次の著『日本禁酒事業に於ける青木庄蔵翁 : 戊辰御大礼記念』(1928)がある。享年84歳。

<日本キリスト教歴史大事典>
<日本禁酒同盟のあゆみ>
<「内村鑑三とユダヤ人」青木知文など>


墓所

*墓石は洋型「青木家之墓」、裏面「昭和廿九年三月建之」。左側に墓誌があり、青木庄蔵から刻む。妻はマツ。子(二男)に哲学者の青木巌がいる。

*日本国民禁酒同盟は戦後、日本禁酒同盟という名称となり一般社団法人として、酒害に関する知識を普及し酒害の予防及び酒害者の救済を目指す団体を掲げ現在に至る。なお、その際の7代目理事長は生江孝之(14-1-22-15)である。


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