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あきやま てるお

秋山輝男

あきやま てるお

1891.9.16(明治24)〜 1943.7.6(昭和18)

大正・昭和期の海軍軍人(中将)

埋葬場所: 15区 2種 1側

 熊本県熊本市薬園町(熊本市中央区薬園町)出身。父親は旧制済々黌中学の漢文教師の秋山銀次郎(同墓)、長男として生まれる。弟は陸軍主計中佐の本田功。末弟は陸軍省情報参謀の秋山邦雄(同墓:俳号を牧車)。甥に作曲家の秋山邦晴(同墓)、NHKアナウンサーの秋山邦博(同墓)がいる。
 1913.12.19(T2)海軍兵学校卒業(41期)。同期に中原義正(後に中将:19-1-1)らがいる。候補生として浅間乗組、'14.8.11 鞍馬乗組を経て、同.12.1 少尉に任官し、朝日乗組。'15.2.1 待命となるが、同.2.5 周防乗組、同.11.5 出雲乗組。同.12.1 中尉に進み、水雷校普通科学生となり、次いで、'17.6.1 砲術校普通科にも通う。同.12.1 卒業後は第15艇隊附となる。
 '18.12.1 夕立乗組。'19.1.18 第13潜水艇隊附、同.4.1 第13潜水隊附、同.11.1 第1潜水隊附を経て、同.12.1 水雷校高等科に入る。'20.12.1 海軍大尉に昇進し磯風水雷長 兼 分隊長に着任した。'21.8.10 第35潜水艦艤装員、同.11.1 第35潜水艦乗組、同.11.20 第45潜水艦艤装員、'22.4.20 第45潜水艦乗組、'23.12.1 呉防備隊分隊長になる。
 '24.2.7 吹雪駆逐艦長、同.12.1 夕暮掃海艇長、'25.12.1 第1号掃海艇長を務めた後、'26.12.1 少佐に進み、橘駆逐艦長に就任した。'28.1.20(S3)再び第1号掃海艇長を務め、同.11.1 柏駆逐艦長、'29.11.1 早蕨駆逐艦長、'30.11.20 浜風駆逐艦長、'31.1.8 呉防備隊水雷長 兼 分隊長を歴任し、'32.11.1 呉鎮守府附、同.12.1 中佐に進み、叢雲駆逐艦長となった。
 '34.11.1 薄雲駆逐艦長も兼務、'35.11.15 呉防備隊副長、'36.11.2 第11掃海隊司令を経て、'37.12.1 大佐に進級して第30駆逐隊司令となる。'38.12.10 第4駆逐隊司令、'39.10.25 隊名変更に伴い第34駆逐隊司令、同.11.15 那珂艦長、'40.10.15 佐世保鎮守府附、同.11.15 第1砲艦隊司令、'41.9.15 第1防備隊司令を兼務。同.12.8 第1防備隊司令の時に太平洋戦争を迎えた。
 '42.3.10 第21潜水艦基地隊司令に補される。同.9.20 呉鎮守府附となり、同.11.1 少将に昇格し、同.11.11 佐世保第二海兵団長に就任した。'43.3.23 第3水雷戦隊司令官を任ぜられる。
 同.7 連合軍はカートホイール作戦によりレンドバ島とニュージョージア島に上陸を敢行し、ニュージョージア島の戦いが始まった。日本軍は、ニュージョージア島の隣に位置するコロンバンガラ島の防備強化に迫られた。このうち日本海軍の南東方面艦隊(司令長官は草鹿任一海軍中将)は、麾下の外南洋部隊(指揮官は鮫島具重海軍中将、第8艦隊司令長官)に対応を命じた。外南洋部隊増援部隊(指揮官は秋山輝男海軍少将、第3水雷戦隊司令官)は秋月型駆逐艦新月に三水戦の将旗を掲げ、駆逐艦10隻(警戒部隊〈新月、谷風、涼風〉、輸送部隊〈望月、三日月、浜風/天霧、初雪、皐月、長月〉、陸兵2400名・物件180トン)でコロンバンガラ島への輸送作戦を実施する。一方、ヴォールデン・L・エインスワース少将は指揮下の軽巡洋艦3隻と駆逐艦4隻で連合軍の上陸作戦を掩護していたが、日本軍輸送艦隊(通称は東京急行)の接近をうけてクラ湾に展開した。
 同.7.4 第一次出撃は秋山以下第3水雷戦隊司令部は出撃せず、ブインにて作戦を指揮。第22駆逐隊司令の金岡国三大佐に率いられた駆逐艦4隻が出撃。最終的にはこの時は物資揚陸を断念して帰投し、輸送作戦は失敗した。
 同.7.5から翌日にかけての深夜、ソロモン諸島のガダルカナル沖(コロンバンガラ島とニュージョージア島の間)で、秋山は指揮官として日本軍を率い、連合軍との夜間水上戦闘である海戦「クラ湾夜戦」が勃発。結果は日本軍は新月が沈没して第3水雷戦隊司令部は全滅した。またコロンバンガラ島に向かった輸送部隊からは、駆逐艦長月が座礁して失われた。夜間砲撃戦では日本軍は複数隻が損傷、連合軍は軽巡洋艦ヘレナが魚雷攻撃により沈没した。指揮官の秋山はこの戦いで戦死。正5位。功2級。享年51歳。没後一階級特進し中将となった。叙従4位、勲2等追贈。
 日本軍の輸送作戦は一応成功したが(兵員約1600名揚陸)、物資すべての陸揚げは失敗。連合軍はニュージョージア諸島の各地で攻勢に出ており、中部ソロモンの戦局は悪化しつつあった。クラ湾夜戦のあとも日本軍はコロンバンガラ島への増援輸送を継続した。同.7.12 第二水雷戦隊(軽巡洋艦神通、司令官は伊崎俊二少将)と米艦隊(エインスワース少将)の間でコロンバンガラ島沖海戦が生起した。

<帝国海軍提督総覧>
<日本海軍士官総覧>
<「日本海軍史」海軍歴史保存会編>


*墓石は和型「秋山家之墓」、右面「昭和四十五年三月」。左側に墓誌が建つ。父の秋山銀次郎(T6.1.23歿・行年53才)から刻みが始まる。母はチキ(S25.11.12歿・行年85才)。秋山輝男の戒名は乾德院殿亀鑑達道大居士。「昭和十八年七月六日ガダルカナル沖にて戦歿 勲二等 秋山輝男 行年五十三才」と刻む。妻は久子(S43.7.16歿・行年72才)。弟の秋山邦雄は陸軍情報参謀で秋山牧車として俳人として活躍した。邦雄の妻は禄(H11.2.8歿・行年90才)。邦雄の長男の秋山邦晴は作曲家・音楽評論家。邦晴の妻はピアニストの高橋アキ。邦雄の次男の秋山邦博(同墓)はNHKアナウンサー。邦博の妻は秋山秀子。


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