メイン » » » 中原義正
なかはら よしまさ

中原義正

なかはら よしまさ

1892.4.3(明治25)〜 1944.2.22(昭和19)

大正・昭和期の海軍軍人(中将)

埋葬場所: 19区 1種 1側

 山口県美祢郡美東町太田出身。農業・中原吉蔵の三男として生れる。
 1913.12.19(T2)海軍兵学校卒業(41期)。同期に秋山輝男(後に中将:15-2-1)らがいる。海軍少尉候補生として吾妻、安芸乗組。'14.12 少尉に任官。'19海軍大尉となり、第1潜水艦長、'20.12 海軍水雷学校高等科を卒業し、'21 第12潜水艦長 兼 水雷学校教官に着任。'22 練習艦隊参謀、'23 第37潜水艦長心得、潜水校教官を経て、'25 海軍少佐に進む。'26.11.25 海軍大学校卒業(24期)。同期に福留繁(後の中将:6-1-6)、小林謙五(後の中将:22-1-27)らがいる。
 '27(S2)米国駐在し、'29 帰朝。'30 軍令部参謀(一班一課)を経て海軍中佐。'31 ジュネーブ会議全権随員、翌年帰朝し、人事局員(第二課)に就く。'34 海軍大佐となり、軍令部戦争指導班長となる。'36 名取艦長。'37 連合艦隊首席参謀、翌年、摩那艦長、連合艦隊司令部付を歴任し、'40 オランダ領インドに出張、同.11 海軍少将に進級し人事局長に就任。
 「中国ではなく、資源が豊富で人口も少ない東南アジアに、武力ではなく、経済的に進出すべし」と主張。南進論者として知られ海軍部内では『南洋王』の異名をもった。'42.12 太平洋戦争が勃発し、南東方面艦隊 兼 第十一航艦参謀長に着任。'43.11 海軍中将に昇進。同.12 南東方面艦隊司令部付となるが戦傷を受け、軍令部出仕となる。翌年、戦病死。享年51歳。功4級。

<日本海軍将官総覧>
<陸海軍将官人事総覧>


*墓石は和型「中原家之墓」、裏面「昭和四十五年十一月 中原篤子 中原義行 中原義浩 曽我部武 曽我部清香 建之」。右面は墓誌となっており中原義正から刻みが始まる。戒名は忠照院釋巌寛居士。「故海軍中将」とも刻む。次に妻の篤子(S49.10.15没・77才)が刻む。墓所左に墓誌も建つ。岩田武夫(S59.1.9歿・72才)、悠紀子(S63.11.24歿・48才)、澄香(H20.11.4歿・86才)が刻み、中原義浩(H29.4.6歿・88才)、春子(R4.5.15歿・90才)が刻む。墓所右に「献燈」と刻む灯篭が建ち、裏面「昭和五十九年二月吉日 岩手澄春 建之」。


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・な | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。