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あきやま くにはる

秋山邦晴

あきやま くにはる

1929.5.22(昭和4)〜 1996.8.17(平成8)

昭和・平成期の音楽評論家、作曲家、
詩人、音楽プロデューサー

埋葬場所: 15区 2種 1側

 東京都杉並区出身。祖父は熊本の旧制済々黌中学の漢文教師の秋山銀次郎(同墓)。父は陸軍省情報参謀や牧車の俳号で俳人として活動した秋山邦雄、禄(共に同墓)の長男。弟にNHKアナウンサーの秋山邦博(同墓)。伯父に海軍中将の秋山輝男(同墓)。
 1935(S10)父の転任により一家は中国の天津市に移住。翌年、天津市大和日本人学校入学。'37 一家は帰国し、東京大森の小学校に転校。'42 東京都立六中に入るが、'43.9 疎開先の旧制松本中学に転入し、戦後、'47 卒業後、早稲田大学第二高等学院に入学を経て、'49.4 早稲田大学文学部仏文科に入学。在学中、'50頃より東京日比谷にあったCIE(アメリカ情報教育局)でレコード・コンサートをシリーズで開き、構成・解説をして、当時のアメリカ音楽やメシアンなどのヨーロッパ現代音楽を紹介した。
 '51.1(S26)音楽雑誌『レコード音楽』編集長(2年間務める)。同.8 武満徹、鈴木博義、園田高弘、山口勝弘、北代省三、福島秀子、駒井哲朗、大辻清司ら11名と瀧口修造の命名による「実験工房」を結成(のちに湯浅譲二、佐藤慶次郎、福島和夫が参加)。第1回発表会としてピカソ展前夜祭の催しにグループメンバー全員でバレエ「生きる悦び」を製作、そのシナリオを担当した。
 '52 早稲田大学の卒業論文「ランボーからシュルレアリズムへ」を準備していたが、担当教授が見つからず中退。同.10頃から読売新聞文化欄に音楽批評を皮切りに音楽雑誌、美術雑誌、文芸雑誌などで本格的に評論活動を展開。以後一貫して実験的な創造活動を支持した。
 '53 音楽雑誌「プレイバック」編集長になる。また東京交響楽団機関誌「シンフォニー」編集長も兼任。'56〜'58 ブリジストンホールでシリーズ「作曲家の個展」を企画構成を担当。'58.7 日本放送協会(NHK)製作の音楽作品「言葉と音楽による3つの形象」の第2曲「黒い絵画」(作品・武満徹)の詩を担当し、イタリア放送協会(RAI)グランプリを受賞した。
 '59 渡欧。西ドイツ、イタリア、フランスなどの音楽や芸術一般の動向を視察。帰国後、'60 桑沢デザイン研究所講師となり現代芸術論や現代音楽を講じる(〜'90)。'61 久里洋二、真鍋博、横尾忠則らのアニメーション・フィルムに音楽を作曲。'62 ジョン・ケージの来日公演に同行して、演奏家としてアンサンブルで演奏。'63 一柳慧、高橋悠治、小林健次ら13名と創造的な演奏家集団「ニュー・ディレクション」を結成、現代音楽の最も最先端な動向、内外のアヴァンギャルド作品を紹介した。また松本俊夫の記録映画「石の詩」(TBS)の音楽を作曲。フォード財団の招きで渡米。'64 ネオ・ダダのグループ「フルクサス」のカーネギー・ホールにおけるコンサートでオーケストラの指揮をする。
 '67 東京造形大学と共に映像学科講師を務める(〜'77)。アメリカ文化センターの後援「クロストーク」コンサート・シリーズをロジャー・レイノルズと湯浅譲二と組織し、9年間にわたってアメリカと日本の実験的な作品を演奏紹介した。'68 大阪万博(Expo'70)の「お祭り広場」及び「せんい館」の音楽ディレクターに就任。松本俊夫の三面投影の映画「つぶれかかった右眼のために」の音楽を作曲。'69 代々木国立競技場で「クロストーク・インターメディア」開催し、1万人以上の聴衆を集め話題となる。'70 大阪万博の開会式のための『鐘の音楽』を作曲。
 '75〜'77 東京渋谷で「エリック・サティ連続演奏会」の構成・解説を行う。'77 多摩美術大学講師となり、'81 多摩美術大学教授に就任。'82 映画「早池峰の賦」(羽田澄子監督)の音楽監督。'86 全音楽譜出版社の『エリック・サティ・ピアノ全集』(校訂は妻の高橋アキ)を監修し刊行。'87 西部ドイツ放送局(WDR)の委嘱により、ジョン・ケージ75歳紀念番組のために「叙雲啓示頌」を作曲。'91(H3)『エリック・サティ覚え書』(1990)が第1回吉田秀和賞を受賞した。
 その他、主な著書に『現代音楽をどう聴くか』(1973)、『日本の映画音楽史I』(1974)、『日本の作曲家たち 戦後から真の戦後的な未来へ』(全2巻、1978/79)がある。'92 「パーカッション・フェスティバル / 海潮音」の芸術監督を3年間務める。訳書『卵のように軽やかに サティによるサティ』(1992)を刊行。'94 多摩美術大学の教務部長に就任。
 '95.1「オマージュ・トゥ・ジョン・ケージ」に一柳慧と妻の高橋アキと出演した。同.5 NHK・FMで特別番組「映画音楽の100年史」の構成・解説を行う。同.7 新交響楽団定期で「映画生誕100年記念」を企画監修・解説を行う。同.10 明治神宮内苑にて開催した「創造する伝統'95」を監修。同.11 神奈川県立音楽堂で「"平和への祈り”コンサート」を企画構成。'96.6 「1953年ライトアップ 新しい戦後美術像が見えてきた」展の関連催事として「再現・1950年代の冒険 実験工房コンサート」を企画構成。同.7 「再現・1950年代の冒険 映像と音楽」を企画構成。その翌月、逝去。享年67歳。没後、『昭和の作曲家たち』(編集:林淑姫・1996)が刊行された。

<音楽家人名事典>
<20世紀日本人名事典>
<講談社日本人名大辞典>
<『昭和の作曲家たち』著者略歴>
<秋山邦晴HP・年譜>


*墓石は和型「秋山家之墓」、右面「昭和四十五年三月」。左側に墓誌が建つ。祖父の秋山銀次郎(T6.1.23歿・行年53才)から刻みが始まる。祖母はチキ(S25.11.12歿・行年85才)。伯父の秋山輝男の戒名は乾德院殿亀鑑達道大居士。「昭和十八年七月六日ガダルカナル沖にて戦歿 勲二等 秋山輝男 行年五十三才」と刻む。輝男の妻は久子(S43.7.16歿・行年72才)。父の秋山邦雄は陸軍情報参謀で秋山牧車として俳人として活躍した。母は禄(H11.2.8歿・行年90才)。邦晴は長男。妻はピアニストの高橋アキ。弟の秋山邦博はNHKアナウンサー。邦博の妻は秋山秀子。


高橋アキ たかはし あき 1944.9.6(昭和19)〜ご健在
昭和・平成・令和期のピアニスト
 神奈川県鎌倉市出身。父は『音楽研究』の編集長を務めた音楽評論家の高橋均、母はピアニスト蔭山英子。兄は作曲家・ピアニストの高橋悠治。夫は音楽評論家・作曲家・音楽プロデューサーの秋山邦晴。結婚後の本名は秋山アキ。
 子供時代からピアノに親しむ。東京芸術大学付属高校、東京芸術大学卒業。師は伊藤裕。のちにゲオルク・ヴァシャヘーリにも師事した。1968(S43)東京芸術大学大学院生1年の時、日独現代音楽祭で武満徹らの作品を演奏してデビュー。透明な響き、音色の柔軟な感受性をもって現代曲を演奏し、鮮烈な衝撃を与え一躍注目される。'69 東京芸術大学大学院修了。
 以後毎年、世界各地の現代音楽祭に招聘され、巨匠ジョン・ケージをはじめ、世界の名だたる作曲家が捧げた作品は20曲以上に及ぶ。この間、'73 芸術祭優秀賞受賞。エリック・サティに注目、'75 東京渋谷のジャン・ジャンで連続演奏会を開始。夫の秋山邦晴の企画構成で演奏会を開催し、サティ・ブームの先駆けとなる。
 作曲家モートン・フェルドマンの招きにより、ニューヨーク州立大学バッファロー校の現代音楽センターのメンバーになり、その後もアーティスト・イン・レジデンスとしてニューヨークを始めアメリカ各地で演奏活動を行い、'84 カリフォルニア芸術大学客員教授を務めた。この間、'83 第1回中島健蔵賞を受賞。'86 第1回京都音楽賞・実践部門賞を受賞。
 ケージ、武満徹、ライリー、ジェフスキー、坂本龍一 等、現代音楽を代表する世界の作曲家たちに、ビートルズ・ナンバーを主題とする作品を委嘱した『ハイパー・ビートルズ』シリーズ(東芝EMI)をみずから企画制作・演奏し、CD4枚を完成。その1枚は英米でも発売され、ニューヨーク・タイムズ紙で、1990(H2)ベストCDに選ばれた。
 2003 第21回中島健蔵賞を受賞。ベルリンやニューヨークなど各国でコンサートやリサイタルを公演し、ニューヨーク・タイムズ紙で「2006年度のベスト・コンサート」の1つに選ばれた。CD「シューベルト・ピアノソナタ集」と「モートン・フェルドマン・トリオ」コンサートの演奏により、2007 平成19年度 第58回 芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。またCD「危険な夜 高橋アキ・プレイズ・ジョン・ケージ」により、2008 平成20年度文化庁芸術祭優秀賞を受賞。2011 紫綬褒章を受章。2013 著書『パルランド−私のピアノ人生−』を刊行した。

<音楽家人名事典>
<aki-takahashi.net 高橋アキ Profile>


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