熊本県熊本市薬園町(熊本市中央区薬園町)出身。本名は秋山邦雄(あきやま くにお)。俳号は牧車。父親は旧制済々黌中学の漢文教師の秋山銀次郎(同墓)。長兄は海軍中将の秋山輝男(同墓)、次兄は本田家に養子となった陸軍主計中佐の本田功。三人兄弟の三番目として生まれる。
1920.5.25(T9)陸軍士官学校卒業(32期)。同.12.25 歩兵少尉に任官し南方軍総司令部付となる。'22 陸軍富山学校修了。自ら志願して軍籍のまま東京外国語学校英文科に入り、'26 卒業後、陸軍参謀本部付となる。
太平洋戦争勃発時は少佐であり陸軍省情報部員情報参謀、大本営陸軍報道部長を務めた。その他、内閣情報局、上海などの軍の報道に携わった。戦時中に美術評論家とどのような戦争画を描くかの座談会に参加した。『戦局の推移と必勝の道 大本営陸軍部秋山邦雄中佐述』なども執筆。
'44.11.4 第14方面軍司令部付の南方総軍報道部長としてマニラに赴任。山下奉文(16-1-8-6)大将のもと、フィリピンの山に籠り抗戦するがそのまま終戦となった。最終階級は陸軍中佐。終戦後、捕らえられ早暁収容所に収容されたが、同.12.31 無罪となり収容所をを出る。マニラに着くと、日本人を見た現地人から投石を受ける中、銅貨もあり、缶詰や煙草も投げられたという。石と金(食べ物など)の両方が飛んでくる割り切れない現実のリアルに、「しぐるる街ざわめく声は罵り来」と詠い、これが戦争の真実だと感じながら朝帰。なお余談であるが、戦後、山下財宝を追う番組に、元参謀として出演し、「林檎の木箱一杯の金貨を送りましたね」と答えている。
俳句を趣味としてはじめ、'38頃「層雲」に加わったが一時中絶し、実兄の本田功の誘いに従い、'42 「寒雷(かんらい)」に入会。加藤楸邨(1905-1993)に師事して句作を再開。'45「寒雷」は1月号をもって休刊となったが、戦後、復刊に奔走し、'46.9 復刊を果たす。私財を投じ、'50まで編集経営に携わった。
戦後、戦争責任の追及が渦巻く中、「寒雷」創始者の加藤楸邨は俳人の中村草田男から、軍高官を自誌に置いて便宜を図ってもらったと非難を受ける。しかもその高官を戦後も同人として遇しているのは何故かと問われた。軍高官とは秋山牧車と実兄の本田功、清水清山(陸軍中将)を指していた。加藤楸邨は便宜を図ってもらったことなどはないと反論。戦前の寒雷会員にはコミュニストの赤城さかえ(20-1-16)、古澤太穂ら様々な主義主張をもった人たちも所属していたことが裏付けるように、戦後も三人を仲間として他の同人、会員と同様に扱った。
'48「寒雷」暖響作家に推される。'62 寒雷同人会発足に伴い副会長となる。会長は清水清山。'69 寒雷同人会会長に就任し、'91(H3)に退任するまで22年間会長を務めた。一年置いた後、'93 再び会長に推されている。
'73 第5回清山賞受賞。句集を二冊刊行している。終戦直前にフィリピンの山に籠り抗戦したときの句を収めた『山岳州』(1974)。もう一冊は『合掌』(1981)。享年96歳。没後、'96「寒雷 2月号」は秋山牧車追悼特集号として刊行された。
*墓石は和型「秋山家之墓」、右面「昭和四十五年三月」。左側に墓誌が建つ。父の秋山銀次郎(T6.1.23歿・行年53才)から刻みが始まる。母はチキ(S25.11.12歿・行年85才)。秋山輝男の戒名は乾德院殿亀鑑達道大居士。「昭和十八年七月六日ガダルカナル沖にて戦歿 勲二等 秋山輝男 行年五十三才」と刻む。輝男の妻は久子(S43.7.16歿・行年72才)。秋山牧車は墓誌には本名の秋山邦雄で刻む。邦雄の妻は禄(H11.2.8歿・行年90才)。息子で長男の秋山邦晴は作曲家・音楽評論家。邦晴の妻はピアニストの高橋アキ。アキの兄は作曲家・ピアニストの高橋悠治。アキの父は『音楽研究』の編集長を務めた音楽評論家の高橋均、アキの母はピアニスト蔭山英子。息子で次男の秋山邦博(同墓)はNHKアナウンサー。邦博の妻は秋山秀子。