広島県広島市出身。本名は藤村昌(ふじむら さかえ)。父は国文学者の藤村作、スエ(共に同墓)の二男。姉の近藤宮子(21-2-8)は「チューリップ」「こいのぼり」の唱歌作詞家。
2歳の時に、父が東京帝国大学赴任に伴い一家は上京。東京府立第五中学校、旧制山形高校を経て、東京帝国大学文学部に入学。
'32 在学中に日本共産党(非常時共産党)に入党し、機関紙「赤旗」を手伝うなど、亀井勝一郎、山本健吉、原民喜らと地下活動を行う。同.10.30(S7)熱海温泉で行われた共産党の幹部の地方代表者会議に参加。集まりが悪く会議を延期し解散しようとした朝方、その情報をかぎつけた警察官100人が党員の宿泊している別荘を包囲し、一斉に踏み込んだ。銃撃戦となり激しく抵抗したが、赤城を含む11人全員逮捕された(熱海事件)。このようなことがあり大学を中退。共産党の活動を続けていたが、のち転向。戦後に共産党に復党している。
'37 陸軍に召集されたが、坐骨神経痛で除隊となる。'38 昭和鉱業に就職。しかし、'40 北海道の鉱山で働いていた時に結核を発症。逗子湘南サナトリウムに入院。またガンにも罹患し闘病生活に入る。
'41 入院中「ホトトギス」の山田雨雷を講師に招いた院内の句会で俳句に触れる。これを機に俳句を始めたが、この時、33歳であった。'43「寒雷」に入会し、加藤楸邨に師事。のちに清瀬市の国立療養所に再入院したところ、俳人の石田波郷と同室となり盟友となる。
戦後、'47 古沢太穂と同人誌「沙羅」を創刊。秋元不死男の推薦で新俳句人連盟に参加(のちに幹事をつとめる)。この頃から俳論を始めるが、この時、39歳であった。
「俳句人」に掲載されたデビュー作である評論『草田男の犬』を発表。赤城は中村草田男の句の中で一番優れた句として「壮行や深雪に犬のみ腰をおとし」を紹介。しかし、草田男を戦争協力者として俳句そのものを認めないとする連盟の一部勢力、そして双方に与する俳人たちによる論争が起こった。赤城は当時の連盟の主流を占める風潮とは真っ向対立する論陣を張った。
'51 古沢太穂が職場の俳句サークルを母体とした同人誌「道標」を立ち上げた際には所属。短詩型文学なども関係し、'54『淺蜊の唄 赤城さかえ句集』刊行。'68 水原秋桜子の「馬酔木」に『戦後俳句論争史』を発表。
現代俳句協会幹事としても多方面で論陣を張ったが、評論と俳句は殆どが病魔と死神に纏いつかれ、痛みと嘔吐で七転八倒、身悶えながら、時には自ら筆を執ることもままならず口述筆記に委ねた箇所もあるほど、人生の大半は病苦にあった。享年58歳。
没後、'88 古沢太穂・石塚真樹監修『赤城さかえ全集』、'92(H4)古沢太穂編著『赤城さかえの世界』、'94 藤田湘子監修『赤城さかえ』、2021(R3)日野百草 著『評伝 赤城さかえ−楸邨・波郷・兜太に愛された魂の俳人』が刊行された。
<20世紀日本人名事典> <「評伝 赤城さかえ」日野百草>
*墓石前面「藤村家の人々の墓」。右側に墓誌が建つ。「従三位 勲三等 東京大學名誉教授 文學博士 藤村作」という父の刻みから始まる。墓誌には、母のスエ(1879.2-1963.2.19歿・享年84歳)。長男で兄の藤村聽(1904.2-1938.2.20・享年34歳)。自身は本名の藤村昌(1908.6.3-1967.5.16・享年58歳)と俳名「赤城さかえ」の刻みもある。昌の妻の澄子(2005.12.27歿・享年82歳)。三男で弟の藤村堯(1918.5-2008.11.14・享年90歳)には「理學博士」と刻む。堯の妻の聰子(2017.11.24歿・享年94歳)。四女で妹の藤村えい子(1921.5-2021.3.26歿・享年99歳)が刻まれている。
*藤村作とスエの間には、3男4女を儲ける。長男の藤村聽、二男の藤村昌(赤城さかえ)、三男の藤村堯。長女の宮子は「チューリップ」「こいのぼり」の唱歌作詞家。父の弟子の国文学者の近藤忠義(共に21-2-8)に嫁ぐ。二女は ふみ子(T1.12生)、三女は ちとせ(T3.11生)、四女は えい子(T10.5生)。
第510回 死神に纏いつかれた過激派俳人 草田男の犬論争 赤城さかえ 近世文学の先駆者 藤村作 お墓ツアー
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