名誉霊域(7区/特殊)



多磨霊園特殊 多磨霊園特殊


氏名 経歴埋葬場所
古賀峯一こが みねいち元帥海軍大将7-特-1-3
東郷平八郎とうごう へいはちろう元帥海軍大将7-特-1-1
山本五十六やまもと いそろく元帥海軍大将7-特-1-2


多磨霊園名誉霊域

 多磨霊園正面門を入ると、大植込みのある広場から園内に何本も通じて行く園路のうち、真中の最も広い園路を進んで行くと霊園のシンボルである高さ15メートルの大噴水塔が見える。 この園路の両側千坪(3300平方メートル)の区域が、国家的功労者の埋葬を予定した名誉霊域である。この辺りは多磨霊園でも最も風致が優れ、公園墓地の代表的なところである。

 この名誉霊域は、元帥海軍大将の東郷平八郎(7区特種1側1番)〔国葬〕・元帥海軍大将の山本五十六(7区特種1側2番)〔国葬〕・元帥海軍大将の古賀峯一(7区特種1側3番)の3人のみが使用されている。
 3人とも連合艦隊総司令官の軍人である。今の時代のフィルターで考えれば、なぜ名誉霊域内に軍人なんかがと思う人もいるかもしれない。 しかし、当時の環境面や考え方からたどると、妥当な策であったのかもしれない。
 現在、古賀峯一が埋葬されてから50年以上経つが、誰一人として名誉霊域内に葬られないのは、民主主義と時代が変わり平等社会になったからなのかもしれない。

 多磨霊園を研究すると日本の歴史がおもしろいように感じることができる。 今では学校の授業ですらタブーとなっている軍国主義時代を学ぶ上で、これほど適した環境はない。ここでは名誉霊域について語っていこうと思う。



<どうして名誉霊域ができたのか>

 まず、名誉霊域一番手である東郷平八郎について書く必要がある。
 昭和9年5月30日朝、東郷平八郎が麹町の自宅で死去した。日露戦争でロシアのバルチック艦隊を撃滅し、名が全世界に鳴り響いたことは有名である。
 日露戦争に勝利を収めた日本は、その後、第一次世界大戦に参戦し、国威を発揚するとともに、次第に軍事大国への道を歩いていった。 続いて昭和6年9月18日、日支は満州において戦火を交え(満州事変)、やがて戦火は満州から上海へ飛火し(第一次上海事変)、日本の中国侵略は着々と進み、日本全土をあげて軍事色一色に染まりつつあった。 以上のような時代背景のもとで、東郷の名は軍神とあがめられ、大東郷の名は実に日本のシンボル的存在であった。

 この東郷元帥の死去の報は、全世界に報道され、その葬儀は国葬をもって営まれた。 6月4日、日比谷公園で行われた国葬には、英・米・仏・支・伊の五カ国は軍艦を派遣し、その海兵が儀伏兵として葬儀に加わった。
 当日の人出は、東郷邸から日比谷まで59万7千人。国葬場付近70万人。
国葬場から多磨墓地(当時は多摩墓地と言った改称は昭和10年)まで56万7千7百人であり、国葬場では10万人は霊前の参拝ができたが、60万人が参拝できなかったと、警視庁は発表したほどの大変な騒ぎであった。
 国葬当日のもようは、各新聞とも全紙面のほとんどを使って報道した。 葬儀を終え日比谷の国葬場を発した霊柩車は、車を連ねて夕刻、多磨墓地に到着、大角海軍大将以下将兵約100名が参列するなかで、れんそう斂葬の儀(埋葬式)を行って、名誉霊域に永遠の眠りについた。
 なお、50日祭(神道なので50日、仏教は49日)まで、霊前の燈明をたやさないための墓守りには、多数の希望者があったが、日本海海戦当時「三笠」で元帥と生死を共にした勇士のなかから、12名を選んで最初の一週間だけ交替で勤めたと、当時の新聞は報じている。 このように、多数の紙面で東郷国葬のもようを取り上げられたことにより、多磨墓地の名も一挙に世間に広まることになったのである。 それまで、市当局(当時は東京市)の市民に対する多磨墓地の売込みも、たいして効果をあげることができず、全く人気がなかった。 その時、多磨墓地に「われらの東郷さん」が埋葬されたとなると、無名の多磨墓地の株は一挙に急上昇した。それ以降、多磨墓地使用は増加の方向に向かったことは言うまでもない。

 では、東郷平八郎がなぜ多磨墓地に埋葬されたのか。
 実はすでに東郷家においては、実家の青山墓地に埋葬することが決定していた。 ところが、この墓地は約6坪(約20平方メートル)で狭すぎることを聞いた東京市は、5月31日、当時の牛塚市長自ら、国家的功労者の埋葬を予定していた名誉霊域を提供したいと海軍省に申し入れた。 東郷家では、同省と相談のうえこの申し出を受けることになり、市でも6月1日参事会で、名誉霊域の使用を正式に決定した。

 名誉霊域埋葬の第二号は、第二次世界大戦で南溟の空に散った当時の連合艦隊司令長官元帥海軍大将山本五十六であった。 この葬儀や埋葬についての詳細は「歴史が眠る多磨霊園(や〜ん)」の山本五十六の項目を参照してもらいたい。もちろん国葬であった。 東郷平八郎と全く同じ大きさの墓が建てられた。ついでこれまた、同対戦で戦死した古賀峯一が、この霊域に墓碑を連ねることになった。 東郷と山本は墓所の作りが全く同じであり、強勢を誇った帝国の軍神をたたえるにふさわしい巨大な石塔が設けられているのにくらべ、古賀のものは広い墓域に、敷石や灯篭などの飾り付けもなく、ただ簡素な五輪塔が一基寂然と置かれているにすぎない。 これは当時の国勢、戦局の推移、日本の運命を如実に現しているように見える。

 名誉霊域がいずれも軍人のみに使われていることは、日本の悲しい歴史の一断面を示すとともに、歴史の真実を物語っている。
 戦火をあおる政府が建てた石碑が取り壊されなくなってゆく中、お墓はそうもいかず茂みに隠れるように建っている。 名誉霊域に眠っている三武人は、現在ではその名も薄れ、もはや過去の人と忘れ去られようとしている。今の若者はこの三武人の名を知っている者も少ないであろう。時勢の変遷、時の経過はただ無常である。 しかし、その真実の歴史を知ろうとせずに21世紀を担おうとすることは、またこれも悲しい。今後、国際関係が激化する中で、もっとも近い近現代史を知らずに国際関係がうまく保てるであろうか。 国際化は双方の国の歴史を正しくとらえることで初めて成り立つ。お互いの痛みを未来へどう生かすかが大切なのではなかろうか。


*東郷平八郎の誕生地である鹿児島県の祗園州砲台跡(鹿児島市清水町)の西側の高台に東郷墓地があり、東郷元帥の立像が鹿児島湾から桜島を望みながら立っている。傍らには東郷元帥の遺髪を納めた墓や聖将の碑などある。

*新潟県長岡市は山本五十六の誕生地である。旧長岡藩士高野貞吉の六男として生まれ、のち戊辰戦争で長岡藩大隊長であった山本帯刀家の養子になった。 山本家歴代の墓所は長興寺(長町)にあり、五十六の墓も存在するが・・・。

多磨霊園著名人研究家 小村大樹




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