ナ得たことは何?学校での友達付き合いは?家庭での役割分担は?社会との関わり方は?この人生の小さな節目に、これから始まる42日間の夏休みの課題を、君自身で見つけてください。


■ 「義務教育」の勘違い

右にあげたのは日本国憲法第26条です。この条文をちゃんと読まない人の中には、「中学生には学校に行って勉強する義務がある」とか、「高校は義務教育と違うから、つまらない授業は受けなくて良いし、嫌な行事は出なくてもかまわない」などという勘違いを信じ込んでいる人がいます。

この憲法の条文は
「子供が教育を受ける権利」を保障するものです。親は家の都合で学校に通わせないまま子供を働かせてはならないし、国には子供が学校に通えるような環境を作る義務があるといっているのです。

日本国憲法第二六条 
        教育を受ける権利


1  すべて国民は、法律(教育基本法第三条第二項)の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。

2  すべて国民は、法律(教育基本法第四条)の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。 


君は義務教育を修了し高校生になりました。親はもう君を学校に行かさないで働かせても構いません。君が、「どうしても高校だけは出ておきたい。もっと多くのことを学校で学びたい」と親に願い、親もそれに同意していて、学校が入学を許可したから京女に通っているだけなのです。大学となれば、なおさらのこと。
「私の将来のためを思って、私がやりたい勉強をする時間とお金を下さい」と親に頭を下げて頼む筋合いのものです。

「親が行けというから学校に行ってるだけ」「親が行けと言うから大学受験しなければならない」などと口にすることが、いかに恥ずかしいことかを肝に銘じて下さい。そして、君が望んで入学したこの京女で学び続けたいなら、右の「学則」(君が持っている生徒手帳に全文が載っています)にあるように、この学校が必要と認める努力とその成果を示してください。

京都女子高等学校  学則

第二五条
進級及び卒業は、所定の教科・科目を履修し、かつその単位を修得したものに対して、特別活動の成果及び平素の操行勤怠を考慮して認める

定められた授業や特別活動に自分の時間を縛られたくないならば、この学校を自らの意思で辞める権利を自らの責任で行使し、自分にふさわしい場所を求めて下さい。

学校は「もっと学びたい。分かるようになりたい」という君の願いを支える場です。様々な事情に配慮しながら君の成長を手助けする場です。頑張っているのにうまく行かないとき、君には何とかしてほしいと学校に要求する権利があります。そして学校はそれに応える責任があるのです。京女の教師の一人である僕も、京女でこそ得られる何かを求める君を応援します。


■ 法律が守るもの、法律が裁くもの。一人の大人として願うこと

法律には、個人の権利を守るものと社会の秩序を守るものがあります。君を守ってくれている法律には、
「日本国憲法」をはじめとして「教育基本法」「児童福祉法」「青少年育成条例」「少年法」「児童の権利に関する条約」などがあります。それらは君の健全な成長と社会的な自立を願って作られた法律です。だから、そうした法律の多くには、君の成長を妨げ安全を脅かす大人への処罰が定められています。

「児童福祉法」第34条では「児童にこじきをさせ、又は児童を利用してこじきをする行為」を禁じています。「京都府青少年の健全な育成に関する条例」では「何人も、青少年に対し、金品その他財産上の利益若しくは職務を供与し、若しくはそれらの供与を約束することにより、又は精神的、知的未熟若しくは情緒的不安定に乗じて、淫行又はわいせつ行為をしてはならない」と定め、違反した大人に対し「一年以下の懲役又は五十万円以下の罰金」を科します。

「未成年者飲酒禁止法」「未成年者喫煙禁止法」も、同じ精神で作られています。酒(タバコ)を飲んではならないと禁止されているのは20歳未満の君たちです。しかし、処罰の対象となるのは、君の飲酒(喫煙)を知りながらそれを止めさせなかった親や教師、未成年と知りながら酒(タバコ)を売った店員です。

酒は時に人や人生を狂わせます。アルコール依存症は家庭を崩壊させることもありますし、飲酒運転で人を殺すこともあります。にもかかわらず酒が売られているのは、適量であれば酒が体や心の健康に役立ち、人間関係を豊かにするからです。
自分をコントロールできずに適量を越し、不始末を犯した結果不利益をこうむっても、それは大人としての自己責任だというのが法律の立場です。

同時に、この国の大人達が決めた法律は、
未成年者にそんな責任は取らせられないし、そんなことにならないように保護するのが周りの大人や社会の責任だと定めているのです。だから、見て見ぬ振りをする大人や、未熟さにつけ込んで儲けようとする大人を無責任だとして処罰するのです。

未成年者飲酒禁止法

第一条
〔未成年者に対する飲酒の禁止〕

1 満二十年ニ至ラサル者ハ酒類ヲ飲用スルコトヲ得ス

2  未成年者ニ対シテ親権ヲ行フ者(※例えば親)若ハ親権者ニ代リテ之ヲ監督スル者(※例えば教師)未成年者ノ飲酒ヲ知リタルトキハ之ヲ制止スヘシ

3  営業者ニシテ其ノ業態上酒類ヲ販売又ハ供与スル者(※例えば飲み屋の店員)ハ満二十年ニ至ラサル者ノ飲用ニ供スルコトヲ知リテ酒類ヲ販売又ハ供与スルコトヲ得ス

第二条   〔酒類及び器具の没収・廃き等の処分〕(略)

第三条   〔罰則〕
1  第一条第三項ノ規定ニ違反シタル者ハ五十万円以下ノ罰金ニ処ス
2  第一条第二項ノ規定ニ違反シタル者ハ科料(※千円以上一万円未満)ニ処ス


僕は
一人の大人として君の親と共に、君が多くを学び、社会の一員として生きていけるよう援助し、自分の権利と社会の秩序を守れる主権者に育ってほしいという願いを持っています。君がよろめき、君がつまずき、君がうずくまり、君が投げやりになっている時、そのことを思い出してくれれば幸いです。

つづく 目次にもどる






































となりでトロトロ

その18  楽になるまでの羅苦

2006年度 18枚目 2006/07/03

■ 紫陽花の花言葉……移り気&辛抱強い愛情


図書係の仕事の分担で、今年の読書感想文コンクールの課題図書の一つである
『その日のまえに』重松清著、文藝春秋刊)の紹介文を書く仕事がまわってきました。最も印象的だったのは、癌で死んだ妻が夫へ宛てた手紙に、たった一行だけ書き残した〈忘れてもいいよ〉という言葉でした。

残された人が、楽しい思い出だけを覚えていられるならいいけれど、失った悲しみに引き摺られて新しい人生への一歩を踏み出していけないならば、この世から消えていく自分のことを〈忘れてもいいよ〉という妻の切ない愛情。読み返すほどに胸がふさがり苦しくなりました。作品の一部分を下に転載しました。興味が湧いたら本を手に取って下さい。

クリックすると拡大画像が見られます

悲しみと不安とでは、不安の方がずっと重い。病名という形を与えられる前の、輪郭を持たない不安は、どんなにしても封じ込めることができない。どこにいても、不安は目に見えない霧になって僕にまとわりついていた。(中略)

一年足らずの余命を宣告されて、形のなかった不安は現実的な悲しみになった。告知の瞬間、僕はそして和美も、冷静だった。(中略)

僕たちは、いずれ訪れる和美の亡くなる日を、「その日」と呼んでいた。(中略)

僕たちの胸には、不安の代わりに絶望が居座った。だが、絶望というのは、決して長くはつづかないのだ。これも初めて知った。

ひとの心は絶望を背負ったまま日々を過ごすほど強くはないのだと思う。だから、ひとは、絶望して死を選ぶ。そうでなければ、絶望をつかのま忘れようとする。和美の余命は絶望とともに死を迎えるには長すぎた。のこされる二人の息子のことを思うと、自ら死を選ぶわけにもいかなかった。だから、僕たちは日常を生きた。(中略)

僕の胸に宿るものは絶望から悲しみに変わった。悲しみは深い。けれど、不安と違って、そこにはちゃんと輪郭がある。ありかがわかれば、それに触れないようにすることだって、できる。和美の入院する大学病院に通うのが日常になった時、僕は悲しみとの付き合い方をおぼえたのかもしれない。

        『その日のまえに』(重松清著、文藝春秋刊)より


今日7月3日で、僕のヨメさんが死んでからちょうど2年経ちます。昨日は、身近な人と彼女を偲ぶ食事会をする予定でした。しかし、名古屋で一人暮しをしている僕の父が、先週肺癌と診断され、肺炎を併発して入院してしまったので、息子たちと病院に見舞いにいきました。肺炎がおさまったら手術をする予定ですが、それに耐えられる体力が79歳の父に残っているかどうか分かりません。
「別に今日の晩死んでも、何も困らせん」というのが父の別れ際の言葉でした。

名古屋へ行く前に、玄関に咲いている紫陽花を切って、ヨメさんの墓に供えてきました。10年程前に彼女と一緒に買った鉢植えを挿し木で増やし、今では30株ほどに増えた紫陽花が静かな藍をたたえています。入道雲が立つ真夏の空の青さは素敵です。心まで染まってしまいそうな秋の夕焼けも素敵です。でも、厚い雨雲が空を閉ざす梅雨空の下で、静かな明るさをたたえる紫陽花の青が僕は好きです。よく聞く
紫陽花の花言葉移り気ですが、青い紫陽花の花言葉には「辛抱強い愛情」というものがあるそうです。梅雨の雨にふさぎがちな人の心を明るくする花の姿が、そうした花言葉をつけさせたのかもしれません。


■ 生きて行くのに必要なのは

5年前の紫陽花が咲き始めた頃、ヨメさんの父の食堂癌が見つかり、年明けの2月に亡くなりました。その臨終の3日前、ヨメさんは腹部の激痛で緊急入院して開腹手術をしました。手術室から出てきた医師に、「癌性腹膜炎で腸閉塞を起こしていました。癌は手のほどこしようがなく、長くて6ヵ月だと思ってください」と言われました。それから2年半、ヨメさんは転院を繰り返しながら、手術の痛みと抗癌剤の副作用に耐えました。

義父の葬儀は上の息子の高校の卒業式と重なり、息子の大学生活は母の看病生活となりました。それから2年後の1月の深夜、老人性鬱病で治療中だった僕の母が心臓麻痺で急死したのですが、その葬儀の日は下の息子の大学入試の前日で、彼は告別式だけ出て試験を受けに戻りました。そしてその半年後、妻は京都市内のホスピスで家族みんなに手を握られながら静かに息を引きとり、僕は白い柩に横たわった彼女を紫陽花で飾って送りました。

この春、ヨメさんが「勉強はできないけど気の良い子」と言っていた上の息子は就職しました。「だらしがないけど優しい子」と言っていた下の息子も3月19日に20歳を過ぎました。これで、まもなく迎える僕の父の看取りさえすれば、僕は夫としての責任も父としての責任も子としての責任も最低限は果たしたことになります。そうした
義務から自由になった時、何をのぞみに生きていくのか惑います。

ヨメさんの墓碑には
「楽」の一字だけが彫ってあります。音楽の教師で、家族と楽しく過ごすことが好きだったヨメさんが、病気の苦痛から解き放たれて安楽になれたことのしるしです。先日、墓を飾った鉢植えの花の世話をしながら、ふと思いました。「楽」は羅苦(ずらりと連なった苦しみ)の果てにある。はたから見れば努力不足で自分勝手でいい加減でも、子供も大人も一杯いっぱい精一杯で生きている。隣りの人の精一杯に勇気付けられるからこそ、自分もなんとか頑張れる。自分も誰かの支えになれる。そんな縁があればこそ、なんとか生きていけるのだと思いませんか?


■ 夏の保護者面談のお報せ

下記の通り、夏の保護者面談を行ないます。時間は30分から1時間程度です。曜日や時間帯の御都合を今週中にお知らせ下さい。ご家庭の事情に応じて三者面談、家庭訪問にも応じます。

期間・日時 : 7月19日〜8月6日 及び 8月24日〜8月30日 の 朝9:00〜夜8:00

つづく
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となりでトロトロ

その17  誰かに弱音を吐く権利 自分の足で立つ尊厳

2006年度 17枚目 2006/06/29

■ 君は誰のどんな権利を守りたい

まだ「沖縄修学旅行事前研究レポート」を出せていない人が13人います。「沖縄慰霊の日」が遠ざかるにつれ、沖縄関連の記事が新聞から消えていく現実を目にしながら、君が何を思うのか。それを書いて出すだけでも、深いレポートになると思います。

それと同じように、奈良県の有名進学私立高校一年生による母子殺害事件の記事も、注意しなければ見落としてしまいかねない大きさになっています。ただ、昨日(6/28)の朝日新聞朝刊の「長男、接見で『反省』」という見出しの記事の最後に書かれていた右の一文は、僕の心にゴリリと引っかかりました。

その高校の教師は、彼の何を思って『論語』を差し入れたのか?
『論語』は「礼」を基本として、主君に対する「忠」や親に対する「孝」を重んじる孔子の思想書です。父の期待に背き、母を殺した彼に対して、その罪を自覚させようということなのでしょうか?君がもし彼の友達だったなら、彼にどんな本を紹介するのでしょう。

 長男は取り調べの合間にベストセラー小説『ハリー・ポッター』シリーズと、通学する高校の教員が差し入れた孔子の『論語』を読んで過ごしているという。


そんな事を思いながら週刊誌
『AERA』(2006.7.3第19巻32号通巻999号)をめくっていると、今度は「いい子がだすシグナル」という見出しの特集記事が目につきました。下に転載した記事(省略)の「弱音を吐く権利」という小見出しがズシリ重く、その一方で「学習のリズムを崩さないで頑張ってほしい」という校長の言葉にため息。


■ 自分の足で立つことの尊さと厳しさ

今日の仏参の講話で、京女の校長先生は
茨木のり子の詩を紹介されました。『論語』でなくてホッとしました。せっかくなので紹介されていた「自分の感受性くらい」をみんなに覚えてもらえるようここに載せます。忘れてならないのは、叱っているのも叱られているのも「ばかもの」である自分だということ。「自分の感受性くらい」は1977年の同名の詩集に収められていた詩ですが、僕は1999年に出された倚(よ)りかからず』という詩集に収められた同名の詩がもっと好きです。それも合わせて紹介します。


    自分の感受性くらい

                            茨木のり子

ぱさぱさに乾いていゆく心を

ひとのせいにはするな

みずから水やりを怠っておいて



気難しくなってきたのを

友人のせいにはするな

しなやかさを失ったのはどちらなのか



苛立つのを

近親のせいにはするな

何もかも下手だったのはわたくし



初心消えかかるのを

暮らしのせいにはするな

そもそもが

ひよわな志にすぎなかった



駄目なことの一切を

時代のせいにはするな

わずかに光る尊厳の放棄



自分の感受性くらい

自分で守れ

ばかものよ


    倚
(よ)りかからず

                         茨木のり子


もはや

できあいの思想には倚りかかりたくない


もはや

できあいの宗教には倚りかかりたくない

もはや

できあいの学問には倚りかかりたくない

もはや

いかなる権威にも倚りかかりたくはない

ながく生きて

心底学んだのはそれぐらい

じぶんの耳目(じもく)

じぶんの二本の足のみで立っていて

なに不都合のことやある

倚りかかるとすれば

それは

椅子の背もたれだけ

つづく
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となりでトロトロ

その16  瞳に力を

2006年度 16枚目 2006/06/24

■ 死ぬまで生きる。なら、どう生きる

朝礼に行く前、一人の遅刻・欠席連絡もなかったので気分良く教室に向かうと、ダンス部の公欠一人分を除いても7つの空席。そんななかで、今朝〆切だった「沖縄・平和問題新聞切り抜きレポート」の1枚目をきちんと出せた5人の
意欲と誠実さが梅雨の晴れ間のように爽やかでした。これは皮肉でもなんでもありません。「できていない現実」と「できている現実」の両方から目をそらさずにいることでしか、自分が為すべき次の一歩は見えてこないからです。

僕も先週末から体調が悪く、週初めには休ませてもらい迷惑を掛けました。昨日は病院で診察を受け経過観察ということになったので、元気が出るよう気分転換を兼ねて半月ぶりに映画を観に出掛けました。選んだのは
小泉徳宏監督の『タイヨウのうた』(主演YUI)。太陽の紫外線を浴びるとアレルギー反応で死ぬ可能性があるXP(色素性乾皮症)という病気を抱えた16歳の少女の物語。昼間は部屋に閉じこもっていなければならない彼女は高校には進学せず、毎晩家の近くの駅前に出かけ、自作の歌をギターで弾き語りしています。そんな彼女は、自宅の窓から見える停留所に毎朝やってくるサーフィン好きの高校生に恋をします。

その恋が実ったのも束の間、彼女は体に変調を来たし、あっけなくこの世を去ります。最期の時を迎えるしばらく前、両親に付き添われた彼女は紫外線を遮る防護服を着て浜辺に立ち、サーフィンをする彼をじっと見つめます。その彼女の死期が近いことを知っている父親は彼女に向かって「そんな服脱いで、思いっきり走りまわれ!」と言います。その父の言葉の意味を理解しつつ、それを否定した彼女の言葉が心に染みました。「私は死ぬまで生きる。生きて生きていきまくるの。」そんな彼女がこの世に残した曲の題名は『Good-by days』でした。


僕らは毎日、今日という日とサヨナラしています。
二度と取り戻すことができない日々を、僕らは毎日送っているのです。その一人である君は、この一週間をどんな風に送ったのでしょう?W杯の熱に浮かれた?再来週から始まる期末考査の準備を着実に進めた?社会との関わりなどには目をやる余裕もなく、混沌の中でもがいて終わった?そんな君は、明日から始まる次の一週間をどんな風に送ろうとしているのでしょう。

下に紹介したのは、那覇商高3年生の池彩夏さんが沖縄全戦没者追悼式で朗読した詩『若い瞳』を紹介する朝日新聞夕刊(6/23)の記事の切り抜きです。(省略)

「私達が持っている瞳の光は/何よりも強く真っ直ぐ/沖縄をみつめているのだから」

君は、自分と社会の現実と未来を見つめる、真っ直ぐな瞳に憧れますか?それとも、夢見る少女のぼんやり潤んだ瞳が好きですか?まだ目を開けずに、心の闇に沈んでいますか?

一週間後、君の新たな一週間と思い出深くサヨナラできますように

つづく
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となりでトロトロ

その15  沖縄慰霊の日

2006年度 15枚目 2006/06/23

■ 社会を見る眼―理性を磨こう

今朝6時にTVをつけて、NHKニュースを見るとトップニュースは「サッカーW杯日本敗退」、2番目が「奈良の高1殺人放火で逮捕」、そして3番目が「今日沖縄慰霊の日の式典」でした。君がもし、沖縄の修学旅行に行くことがなければ、三つ目のニュースなど意識にさえ留らないかもしれません。心を躍らせるスポーツの勝敗や、同世代による悲惨な事件が君の心をとらえるのはとても自然なことです。だからこそ、世の中の流れやブームに流されず、小さな自分の意識に納まりかえらず、自分が生きる時代を読み解き、自分の進路を見付けるためには、理性を磨くことが大切。社会を見つめる「眼」を育てることが大切なのです。

沖縄修学旅行を自分を育てるきっかけにしてもらいたい。そんな思いで、昨日の京都新聞夕刊と今日の毎日新聞朝刊の記事の幾つかを転載します。

つづく
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となりでトロトロ

その14  両腕を広げて探る。受け止める。

2006年度 14枚目 2006/06/17

■ 言葉が混沌に秩序を与え、世界を創造する

昨日のお芝居『ヘレン・ケラー〜ひびきあうものたち』(松兼功作、浅野佳成演出)を見ていて、右に紹介した旧約聖書の創世記の冒頭を思い出しました。

キリスト教世界で信じられている神ヤハウェは「言葉」によってこの世界を作ったと言うのです。創世記には、
言葉によって産み出された光が闇と混沌に秩序をもたらし、命が産み出されていく過程が記されているのです。

一日の始まりが朝ではなく夕べであるところが心に染みます。

初めに、神は天地を創造された。
地は混沌であって、闇は深淵の面(おもて)にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。
「光あれ。」
こうして、光があった.
神は光を見て、良しとされた。
神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。
夕べがあり、朝があった。第一日の日である。

 旧約聖書 創世記 天地創造1

ヘレン・ケラーは闇と混沌の世界の住人でした。アニー・サリバンは言葉(すべてのものには固有の名前があること)を教えることでヘレンの闇を光で照らし、混沌としたヘレンの内面に秩序を与えていきました。それは彼女の第二の誕生でした。そういう意味で、あのお芝居は「人間創造」の物語だったと言えるかもしれません。

「清潔で行儀がよいだけでは意味がないのです。」そして「意味もわからず言われた通りやっているだけでは幸せになれないのです。」しかし「好き勝手させることは愛情ではなく、相手の人間としての尊厳を踏みにじることです」という、サリバン先生が両親に投げ掛ける言葉を聞いて、ズキリと胸の痛んだ教師は僕だけではなかっただろうと思います。

でも、そうした声の言葉(台詞)以上に僕の心に残ったのは、演劇ならではの
「体の言葉」です。それは対になる二人の「広げられた両腕」です。




渇きを癒す水を汲むPOMP

ヘレンの腰をかがめて両手を広げた、あの異様な姿勢に最初戸惑いを感じた人も多かったでしょう。そしてサリバンもヘレンと向き合い同じように両腕をいっぱいに広げていました。それは混沌の世界に住むヘレンが両腕を広げて闇を探って生きている姿であり、サリバンがヘレンを両腕を広げて全身で受け止めようとする姿でした。言葉を無理やり教えられ、先生が操る指人形のように言いなりになっていた時のヘレンは、腕を広げることを止め、行儀は良いけれど小さく縮こまっていました。それは、笑い=生きる意欲や喜びを失った彼女の心を象徴的に表現する、分かりやすい演出でした。

君は両腕を広げて闇を探る勇気がありますか?闇を照らす言葉の光を求めていますか?それは、大人達が迷える君と正面から向き合い、両腕を広げて受けとめようとすることと同じぐらいの覚悟がいることであり、君の成長を信じて見守り続けるほどの忍耐がいることなのだと思います。

サリバンは
「卵の中の雛はいつか必ず殻を破って生まれてきます」と言いました。どんな雛がかえり、成長してどこへ飛びたって行くのか。それは本来心配ではなく期待に満ちたことのはずです。


■ 保護者会・クラス懇談会へのご参加ありがとうございました

先日はご多忙にもかかわらず学校に足をお運び下さり有難うございました。当日のポイントを若干ご報告申しあげます。

全体会での駿台予備校講師による「進路講演会」では、主として医歯薬系や京大・早稲田・慶応・同志社への進学希望者へのアドバイスがなされました。また学年主任からは、修学旅行の概要が報告されましたが、それらに関する資料はお嬢さんが既にお持ちのものですので、ご参加頂けなかったご家庭ではお嬢さんのものをご覧下さい。

教務係主任からは、二学期に選択してもらう3年時の選択講座(10単位分)についての説明がありました。選択講座は自分の進路(受験科目)に合わせて選ぶので、夏休み中に志望大学や志望学科を決めておいてほしいとの旨が話されました。特に、京女大への推薦を第一志望とするかどうかは大きなポイントになるので、夏休み中の
オープンキャンパスには必ず参加してもらいたいと、学年主任からも念が押されました。

全体会後のクラス懇談会では、事前にお願いしたアンケートに寄せられていたクラスの状況や教科の指導についての不安や疑問、京女大への推薦制度やその留意点について、担任から1時間ほど話をさせて頂きました。その後40分ほど、5〜6人のグループ懇談をしていただき、それぞれが日頃気にかけておられたお嬢さんの進路や生活態度についての心配事などを語り合っていただきました。

そして、担任から御家庭に対して次のようなお願いをしました。

様々な事情や弱さを抱えている子や親の苦しみを想像し、支え合える環境を作ること。
社会(学校)の中にある不条理に打ち克ち、やり繰りしながら生き抜いていく力を付けること。

そして、それが実現できるよう、一人一人の手助けをし、クラスの課題を解決していくのに必要な時間やアドバイスを、担任に与えて下さること。

懇談会で語られた様々な課題については、担任としても真摯に受け止め、朝終礼や個人面談、この学級通信などを通して生徒たちにも考える材料を示していくつもりです。保護者の皆様のご家庭での語り合いや、様々な子どもたちやご家庭へのご理解と支えが頼りです。7月5日から始まる期末考査終了後、一学期の成績が出たあたりから保護者の皆様とも個人面談をさせて頂き、個々の課題が解決されるように工夫して参ります。期末考査までに面談のご要望があればご連絡ください。

※ 次号の『手紙』では、会の終了後寄せていただいた懇談会の感想のいくつかを紹介します。

※ 裏面には全体会で配布されたカリキュラム表を転載しました。親子でご確認下さい。(省略)

つづく
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となりでトロトロ

その13  「ミッション」は自分で気付くもの

2006年度 13枚目 2006/06/13

■ 残された時間、君がやっておきたいことは何

一昨日、京都みなみ会館で上映中のフランス映画、
フランソワ・オゾン監督の『僕を葬(おく)る』を観ました。メルヴィル・プポー演ずるカメラマンのロマンは31歳。彼は仕事中に倒れ、肺や肝臓などに転移した末期癌で余命3ヶ月と宣告されます。

彼の家族は複雑でした。彼の祖母は若くして夫を失った悲しみから死を思いますが、幼い息子(ロマンの父)を捨てて生き抜くために男性遍歴を続けました。母親に見捨てられて育ったロマンの父は、妻を裏切る形で不倫をしつつも夫婦の絆を断ちませんでした。その長女であるロマンの姉は結婚して一児をもうけたものの夫と離婚し、両親のもとに戻ってきます。その姉とロマンは激しくいがみ合い傷つけ合っていました。そして彼自身はゲイ(男性同性愛者)であり、若い恋人(男の子)と同棲していたのです。

死が近いことを知った彼は、病気を隠して仕事を休職し、恋人とも別れを告げ、遠く離れて暮す祖母のもとへ行きます。その旅の途中、夫の体の都合で不妊に悩む夫婦から、子どもを作る手伝いをしてほしいと頼まれた彼は、いったん拒否したものの申し出を受け入れ、やがて生まれてくる子供に全財産を贈ることを遺言として残します。死期の迫る間際、彼は拒絶していた姉と和解し、海水浴客で賑わう海辺に向かい、降り注ぐ太陽の下で安らかな最期の時を迎えます。

可能性に満ちた人生を謳歌していた彼は、絶望に打ちひしがれながらも、自分が為すべきことを見つけ、それを果たして行きました。それは、それまで振りほどこうとしてきた家族との絆を結び直し、見ることのない子供に自分の生を託すことでした。カメラマンだった彼が、彼を呼び出す携帯電話をゴミ箱に捨てた後も手放さなかったのは、一台のカメラでした。彼は最後の瞬間まで、自分が心惹かれたものをカメラに写します。それは、自分が命の連鎖の中に生きている存在であることを実感し、死という絶対的な孤独から救われようとする行為のようでした。

君は、いま生きている実感を得ていますか?そして、その時までに自分が為し遂げておきたいことを自覚していますか?それは、成長の途上にある君にも、成熟の過程にある大人にも、とても難しいことです。
死が与えられるまでに、自らが果たすべきミッション(使命)を見つけられた人は幸いです。

■ 目指すべき道と乗り越える方法を見つけたい

月曜日までに保護者のみなさまからお寄せ頂いた十数通の「よりよいクラス懇談会のための保護者アンケート」の回答の一つに、この『手紙』の「進路シリーズ となりでトロトロ」について、「進路というより、人生について考える材料という感じがします」という感想がありました。そこには、大学進学に向けての具体的なアドバイスや役立つ情報をもっと伝えてほしいという願いが潜んでいるようにも思えました。そうしたことについても、折に触れ、親子で話し合っていただけるように工夫をして行きます。

そこで今回は、勉強方法の手引書を紹介。朝日新聞の書評欄にも紹介されていた『夢をかなえる勉強法』(サンマーク出版\1300)です。司法試験合格のためのHow to本なのですが、「塾や学校は、勉強ではなく『勉強法』を教えてもらう場所なのだ」、「自分の人生の目標は何か?それはなぜか?そのために何をしているのか?その答えをさがすために、私たちは勉強をしているのである」といった投げかけとともに、日々の勉強や進路に悩む高校生にも役立つ勉強方法の秘訣が記されています。 クリックすると拡大画像が見られます

著者の伊藤真氏は「1958年生まれ。伊藤塾塾長。革新的な勉強法を導入し、司法試験短期合格者の輩出数全国トップクラスの実績を不動のものとする。深遠でわかりやすい講義、他の追随を許さない高い合格率、そして『合格後を考える』という独自の指導理念が評判を呼び、『カリスマ塾長』としてその名を知られている」(紀伊国屋WEBより抜粋)という人物です。

最終節「夢をかなえる思考術 勉強は人生の種まきである」を裏面に転載したので、興味を持った人は書店で手に取って見て下さい。(省略)


つづく
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となりでトロトロ

その12  「意味」は自分で見つけるもの

2006年度 12枚目 2006/06/08

■  ひたすら待つ子に救いはあるのか

中島哲也
監督の映画『嫌われ松子の一生』(原作:山田宗樹著、幻冬舎文庫)を観ました。予告編を観た時は、悲劇的な喜劇を想像していたのですが、それは偶然にも、この一ヶ月現代文の授業で扱ってきた太宰治の作品や人生が重ね合わされた、切なさで胸がずしりと重くなる喜劇仕立ての悲劇でした。

中谷美紀演ずる松子は、いつか幸せをつかむことを夢見つつ、病弱な妹ばかりを可愛がる父親の気を引こうと道化を演じる少女でした。

大人となった松子は中学の音楽教師になりますが、教え子に裏切られて辞職。故郷を捨てて貧乏作家と同棲しますが、彼は松子に暴力を振るったあげく「生まれてすみません」という太宰治『二十世紀旗手』に書かれた有名な言葉を紙に書き付けて、松子の目の前で踏切自殺してしまいます。

その後、風俗譲となった松子は自分を裏切ったヒモを殺して刑務所へ。出所後、かつて自分を裏切りヤクザとなっていた教え子と同棲しますが、今度は彼が刑務所へ。彼は、刑務所の前で花束を抱えて待っていた松子を殴り倒して逃げます。

明るい未来を夢見て一途に人を信じ、幾度裏切られてもなお愛されることを願って、ひたすら男を待ち続けた松子は、「待つ子」でした。待つ相手を失った時、彼女は生きる意欲を失います。廃屋のようなアパートに引きこもり、ゴミの山に埋もれて醜く肥満した松子が、一つの希望の光を見出し、待つのではなく自らの手で人生を切り開こうとした直後、彼女は意外な最期を迎えます。そして彼女の愛から逃げ去ったかつての教え子は彼女の死を知った時、持っていた『聖書』を河原に落とし、犯した罪への罰と許しを求めて川に飛び込みます。

愛されようとするあまり相手に合わせて自分を失い、自分らしさをつかもうとして命を失った松子の人生に、僕らは何を学べばよいのでしょうか?「救い」はどこかにあるのでしょうか? それがあるとするならば、松子が人に愛されなくとも、人を愛し続けようとして自分らしく死んだところにあるのかもしれません。

君が悩める君ならば、君は何によって救われるのでしょう。


■ 何があれば、人は生きていけるのか

僕の家の小さな庭には、引っ越してきた時に作った鳥の巣箱があります。それを作った翌年、シジュウカラが卵を産み、雛を育てました。その後、何年も巣箱は空き家になっていたのですが、この前の日曜の午後、シジュウカラが巣箱に餌を運んでいるのに気付きました。耳を澄ますと、微かに雛の鳴く声が聞こえました。

僕は、四、五分おきにかわるがわる餌を運び続けている二羽の親鳥を、日の暮れるまで眺めていました。そして、生き物が生きるということは食べるということ、そして子どもを育てるということなのだと、改めて実感しました。その時思い出したのが「人はパンのみで生きるにあらず」という聖書の言葉です。

「人はパンだけで生きるものでなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(新約聖書、マタイの福音書4)とイエスは言ったそうです。

君だって、食べ物や生活に必要なお金さえあれば生きていけるとは思っていないでしょう。では信仰とは無縁の君の命を支えてくれるもの、君にとって生きるに値する人生を作り出してくれるものとは何でしょう。それは友達ですか?自分の夢ですか?

一昨日から始めた個人面談用に作った「初夏の個人面談基礎資料」には、「あなたが『京都女子高校で学ぶ意味』を聞かれたら答えられますか」という項目を設けました。その問に「いいえ」と答えた人が何人もいました。そして高校卒業後の進路希望に「大学・短大への進学」を希望していながら、高校卒業後に勉強したいことや取りたい資格、将来就きたい仕事について、「ない」と答えた人が何人もいました。

そんな君が授業中、睡魔に負けて眠っていたり、教師の言葉に耳を傾けられないままムダ話で授業を潰していても不思議はありません。そこに、君が求めるものを見つけられていないのですから。そんな君は、どこに何を求めているのでしょう。
「意味」は元々そこにあるのではなく、自分自身が見つけるものだと、僕は思っています。

思い出してください。
池内了も言っていたように、今自分が成し遂げたいことをちゃんと持っている人は、限られた人生の中で自分の時間を大切にしようとします。大切にしたいものを持っている人は、他者の時間も大切にしようとします。君が、授業中に私語に明け暮れているならば、君は同じ教室で学ぼうとしている一人一人の時間を奪っていることに気が付かない鈍感な人間です。そして、自分が大切にしたいものを見失い、ただとりとめもなく時間を浪費している悲劇のヒロインです。


■ 保護者のみなさまへのお願い

6月13日の保護者会全体会後のクラス懇談会は、年に二度の貴重な機会です。そこで実のある場となるよう別紙「よりよいクラス懇談会のための保護者アンケート」を準備しました。ご多忙とは存じますが、是非ご回答頂き、クラス懇談会にもご参加下さいますよう、重ねてお願い申し上げます。

2年1組は今、保護者のみなさまの深いご理解と温かな励ましを必要としています。

つづく
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となりでトロトロ

その11  弱いから助け合う 足りないから補い合う

2006年度 11枚目 2006/06/03

■ 「自分の輪郭」欲しいですか?

右の文章は講談社新書『悪の恋愛術』の「第1章 独善力」から抜粋したものです。君がこの本の著者の福田和也の意見に共感するのか反感を抱くのかわかりません。ただ、そういうことを言っている人がいると云うことは、そう云うことも世の中には実際にあるんだろうなと言うことを、知っておいても損はありません。

新しい月の新しい席で学ぶ君が、様々な人と関わり、そこで得られる新たな知識と出会い、君の人格や個性がくっきりと描き出されていったら、それはドキドキするような面白いことでしょう。新たな出会いは自己変革の場です。

衝撃的な出会いは、「これまで意識していなかった自分が育てたいもの」や「ぼんやりとしか分からなかった自分が手に入れたいもの」をはっきりさせます。そしてそれは時に、「これまで自分が守ってきたもの」や、「自分を守ってくれたなじみのもの」を捨て去ることをせまります。

出会いを求めて自分を変えるチャンスにするのか、これまでの自分を守るために人やものとの関わりを制限するのか。それが君の生き方を決めていくのでしょうね。


 正直に申しあげて、大変失礼だけれど、あまり人社会的経験のない、若い人たちに、いや本当の問題はむしろ若い人たちだけではないのですが、個性だの、人格だのといったものがあるとは思えないのです。

  無論、いろいろな好みとか、センスとかいったものはあるでしょうし、それなりに独自の経験といったものはあるのだと思います。

  けれども、そういったものは、個性だのなんだのというほどのものではない。個性とか、人格とかいったものは、自分自身だけでできるものではない。個人の感覚とか、内面的な意識とかから発するものではないからです。

  まったく逆に、他者との様々な関係からこそ、人が人たる輪郭ができてくるのではありませんか。

  ですから、未経験な人たちには個性と呼べるものはない、と申しましたけれども、それは極端な云い方であって、限られた範囲での人格といったものはあると思います。それはまず家族との関係であり、次には学校での友達との関係でしょう。



■ 良い悪いの裁きではなく 遣り繰りつけられる手助けを

右は、2年1組の5月の出欠状況。(省略)無遅刻・無結果・無欠席の人はクラスで18人。自分が表のどれに当るのか確かめてみてください。ただし、選択授業や実習実技など、「出席簿」に欠課(保健室での休養など)が記入されていない場合がありますので、人によっては欠課の数がもっと多いはずです。

席替えの時にも確認しましたが、「目の具合の悪い人」「耳の調子の悪い人」が優先的に前の方に坐ることに異議を唱える人はいません。それと同じように「頭の具合が悪い」「心の調子が悪い」「根性が悪い」「性格が悪い」「体型が悪い」「環境が悪い」「親が悪い」「運が悪い」…etc.と人知れず悩んでいる人が、クラスの中にわんさかいるのでしょうし、そうした人たちもその「障害」ごとに配慮されるべきでしょう。

「悪さ」を責めるのではなく「つらさ」に共感し、それぞれが具合悪さを克服し、それと上手に付き合いながら遣り繰り付けて生きていけるよう手助けしあう。そんな社会こそが豊かな社会でしょう。自分が足りないものを誰かに補ってもらい、少しばかり余っているものを誰かに貸してあげられたら、これに勝る幸いはありません。

僕は下に紹介した2006年6月2日朝日新聞朝刊「ひと」欄の記事に出会い、そんな思いを強くしました。

自らの性同一性障害を本につづったフェンシングの元日本代表

ひと   杉山(すぎやま)文野(ふみの)さん(24)
体は女なのに心は男。そんな性同一性障害(GID)との診断を半年通院の末、5月に受けた。「風呂とトイレは男女のどっちに入ればいいのかな」と改めて思った。

物心付いた頃から女の子の扱いに抵抗があった。立ち小便をしてズボンを汚し、好きな女の子にはどきどきした。首都圏の小中高一貫の女子校でセーラー服を着た。女体の着ぐるみの上に、女装する感覚だった。生理が始まり、心と体の不一致が大きくなる。自己嫌悪と周囲にばれないかという恐怖の中で過ごした。

フェンシングが救いにもなった。中学でジュニア女子の日本代表に。04年にはナショナルチームに入った。今は子どもたちを指導する。

性別を聞かれれば、「真ん中」と答える。人との付き合いの幅が広がるうちに、自分は「男+女」だと思えるようになった。性別の前に自分を磨こう。そうなるまでの半生を「ダブルハッピネス」(講談社)につづった。日常の不便や周囲への告白。ガールフレンドとの性行為での満足感と、それでも残るもやもやにも触れた。

GIDに悩む人は全国で数千人という。カミングアウトして当選した議員の存在や、テーマに取り上げたテレビドラマ「金八先生」の影響で認知は進んだが、偏見は依然残る。「僕も少数派だけど、間違っているわけじゃない。受け入れられない人たちや社会に障害はないんですか」
文・写真  ゙喜郁
つづく
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となりでトロトロ

その10  救いがたさを救えるものなら救ってみてよ

2006年度 10枚目 2006/05/23

■ 生きながら死を育む 死んでなお生き続ける

親鸞さんの誕生パーティーに参加できた人は幸いです。集まった人々に踊や歌や演奏を楽しんでもらえた人は幸いです。そして会の最後を締めくくる
高史明さんの短い講演を最後まで眠らずに聞くことができた君は、なお幸いです。なぜなら、誕生パーティーのおめでたい席で、自らの「死」について考えるチャンスを与えられたからです。

高さんの息子の岡真史(おか・まさふみ)君は1975年7月17日、団地から投身自殺をし、12年9ヵ月の人生を閉じました。彼は死の半年前から死の当日まで、一冊の手帳に詩を綴っていました。

彼の父親の高さんは、彼の死後その手帳を見付け、『ぼくは12歳』と題した詩集として出版しました。現在書店で手に入る『新編 ぼくは12歳』(ちくま文庫)から三つの詩を紹介します。


   ひとり
ひとり
ただくずれさるのを
まつだけ


   リンゴ

あそこのリンゴ
あと数分で
落ちるでしょう
じっとみてます
じっとみてます

リンゴは
もう えだと
くっついていないかも
しれないのにおちません
おちません

なんだかみていると
まぶしくなります
リンゴが日光に
反射するからですか?
それとも

あのしんぼうづよさが
まぶしいのですか?
じっとみてます


   ぼくはしなない

ぼくは
しぬかもしれない
でもぼくはしねない
いやしなないんだ
ぼくだけは
ぜったいにしなない
なぜならば
ぼくは
じぶんじしんだから


「ひとり」は、彼の手帳の表紙に書かれていた詩。「リンゴ」は、僕の心にじんわりとまった詩。「ぼくはしなない」は、彼が死の直前に書いた最後の詩。絶対に死なないと言い残して飛び降りた彼は、実は彼の言う通り、まだ死んでいないのかもしれません。

父親の高さんが書いた詩集のあとがきには、次のような言葉がありました。

「人間の死は生とは別物ではなく、生そのものの中にあったのでした。死もまた、日々を生きているのです」


■ 自分の死ぬときを知って、初めて自分の人生が始まった

ちまたでは
ロン・ハワード監督の『ダ・ヴィンチ・コード』が大流行りのようですが、予告編を見ても心が引き寄せられず、どうやら見ずに終わりそうです。ただ、“マグダラのマリア”のことは以前からずっと気にかけていて、関係する本もいろいろ読んできました。福音書(新約聖書)の中で、聖母マリアとコントラストを描く最も魅力的な登場人物だからです。彼女はどの使徒よりも深くイエスを愛し、彼の言葉を信じ、そこに救いを求めようとしていました。偉そうに人を見下して説教したがる人間よりも、自らの罪深さを自覚して天を見上げる人の姿にこそ、心打たれるものがあります。
そう強く思ったのは、四条烏丸の京都シネマで上映しているジョン・メイブリー監督の作品『ジャケット』のラストシーンを観てです。

『戦場のピアニスト』で知られるエイドリアン・ブロディが演ずる青年ジャックは、湾岸戦争で頭部を負傷し記憶障害となります。帰国後、殺人事件に巻き込まれて精神病院に送られた彼は、深夜密かに異様な治療を受けます。それは薬を打たれ、拘束衣(=ジャケット)にくるまれ、死体安置用の狭い引き出しに閉じ込められるというものでした。
彼はその引き出しの中で未来にトリップし、自分の死が4日後に迫っていることを知ります。記憶障害によって自分が何者なのかが分からなくなっていたジャックは、自分の過去と未来を繋いでくれる少女ジャッキーと出会い、絶望感の中で自堕落に生きていた彼女の運命を変えることに、自分に残された生の意味を見つけます。

不思議ですね。
「死にたい」と呟く人に「死ぬな」と怒鳴る人も、いずれは共に死にます。「死にたくない」と泣き叫ぶ人を「大丈夫だよ」と静かになだめる人も、やがて共に死にます。死は誰にでも確実にやって来るのに、それが何時なのかだけはわからない。君はその時を知ったら、今日一日をどう過ごしますか。それを知らないままの君は、明日一日をどう過ごすのでしょう。君は自分の生きる意味を見つけていますか?

「何をするでもなく何かの役に立つでもなく、ただ、今ここに居てくれるだけでいい」と君に言ってくれる人がいたら、その人が君にとっての生きる意味そのものになるのかもしれませんね。
つづく
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となりでトロトロ

その9  街路樹の繁る吐息の 生臭さ

2006年度 9枚目 2006/05/16

■ 母になる日はいつの日か

母の日の新聞に、巣に卵を産んだ小鳥が「母になるのは卵を生んだ時かしら、それとも卵から雛がかえった時かしら?」と悩んでいる四コマ漫画が載っていました。君は、
母が母になるのは何時だと思いますか?妊娠に気付いた時?出産した時?それとも「お母さん」って子どもが呼んでくれた時?

君は、お母さんから「あんたがそうしていられるのは誰のお蔭やと思ってんの!産んで育てたお母さんに、もっと感謝したらどないや!」と言われて、「私が産まれて来たからお母さんになれたんやろ、お母さんにしてあげた私に、もっと感謝したらどう?」と言い返した事はありませんか?

産んだら母だというのなら、本当の母は「産みの親」だけで、「育ての親」は偽の母なのでしょうか? もし「母の資格」があるとしたら、それはいったい何でしょう?

そんなことに思いをめぐらしていて、北原白秋の童謡『金魚』を思い出しました。求めても得られぬ淋しさ、見捨てられてしまったのではないかという不安、よりどころを失った苛立ち。孤独に対する怯えが、人を攻撃的な存在にすることをリアルに描いた詩です。これは童謡なのでちゃんと曲もついています。君は、この歌を一人で歌っている子どもの顔を想像できますか?

「子は何もしなくても子どもだけど、親は何もせずには親になれない」という人がいます。


         金魚
 
                作詞 北原白秋
                作曲 成田為三

    母さん、母さん、どこへ行た。
    紅い金魚と遊びませう。
 
    母さん、歸らぬ、さびしいな。
    金魚を一匹突き殺す。

    まだまだ、歸らぬ、くやしいな。
    金魚をニ匹締め殺す。

    なぜなぜ、歸らぬ、ひもじいな。
    金魚を三匹捻(ね)ぢ殺す。

    涙がこぼれる、日は暮れる。
    紅い金魚も死ぬ死ぬ。

    母さん怖いよ、眼が光る。
    ピカピカ、金魚の眼が光る。


             大正10(1921)年2月18日
             『「赤い鳥」童謡 第四集』

でも、子どものためにと親があれこれ気をまわして何かをするより、口を出さずに暖かく見守ってほしい。頑張れなかった自己嫌悪に落ち込んでいる上に、世間からは冷たく責められ、信じていた仲間にも見捨てられた時こそ、親には黙ってそばに居てほしい。
してくれることよりも居てくれること。そんな存在を求めるのは、子どもに限ったことではないでしょう。

■ 人を愛せる人になるには

先週末、映画『海猿』を観に行った人もいるようですが、僕は
リュック・ベッソン監督のフランス映画『アンジェラ』と、堤幸彦監督の『明日の記憶』(原作は荻原浩の同名小説)をみました。

『アンジェラ』は、周囲から馬鹿にされてばかりの冴えない小男が、身長180cmの金髪美人との出会いによって、自信を取り戻し、目先のことに流されず、誇りを持って生きて行けるようになる話。

「あなたは愛された事がないから、自分を愛する事ができない。自分を愛する事ができないから、人を愛する事もできない」
といったアンジェラ(=エンジェル)の台詞が印象的でした。

一方、50歳で若年性アルツハイマー病を発病する男(渡辺謙)とその妻(樋口可南子)の物語『明日の記憶』は、エンドロールの最後になっても泣くに泣けないほど、辛く重たい映画でした。確実に自分の記憶=自分の人格を失ってしまう夫の恐怖と、自分の記憶を失われてしまう妻の切なさが息苦しいほどにせまってきました。

自分を愛してくれた人を失うこと以上に辛いのは、愛し合った事を忘れてしまったその人のそばで生き続けることかもしれません。あの世にせよもう一つの世界にせよ、
「先に行ったもん勝ち」だなとしみじみ思ってしまいました。

誕生は死へのスタートならば、死は新たな生命に居場所を譲る営みなのかもしれません。『明日の記憶』で、父親が娘の「できちゃった婚」について語る場面がありました。出会いは別れの始まりだと知っていながら永遠のパートナーを求め、いずれ失われる命と知りながら子を宿し産み育てようとする不思議について自らに問うのも、進路を考える大事な要素です。

例えば次の朝日新聞への投書(省略)について、君はどんな意見を持つでしょう。

つづく
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となりでトロトロ

その8  艶やかに濡れて手を振る楓かな

2006年度 8枚目 2006/05/08

■ 過去はない 未来もない

連休明けで月が変わっても、相変わらず全員がそろわないままの1組。緩み過ぎた生活を学校モードに切り替えるのに苦労している人もいるようですが、体や心をゆったり休められてしっとり落ちつきが見られるようになってきた人もいるのが何よりです。

ただつらいのは、今日も宿題もやらないまま
惰性で学校に来てしまい、雑然とした机に坐って呆然と授業をやり過ごし、とりとめのないおしゃべりで漫然と一日を消費するのに忙しい君にも、あと3週間で中間考査はやってくるという事実です。

君は今、どんな生活をしたいのでしょう。
過去はもう過ぎ去ってしまったのですから、どんなに懐かしんでも戻ってこないし、どんなに悔いても変えようがない。一方、未来はまだ決まってないのですから、どんなに夢見たってどうなるかわからないし、どんなに心配したってどうしようもない。「大切なのは今だけ」というと刹那的で頽廃的だと非難する人もいます。でも、失われた過去に引きずられるのでもなく、あてがわれた未来に縛られるのでもなく、今ここで自分がなすべきだと確信した事を流れに流されることなく、よどみに沈む事もなく自分で責任を持って実行する事ほど主体的なことはないでしょう。

今ある自分を怠惰に消費するのではなく、ありたい自分を今この瞬間に産み出そうとする。今日一日をそんなふうに過ごせたら、どんなに自分も輝くか。

でも、そんな元気が湧いてこないときは、無理せず焦らず腐らずに、時の流れにこの身をゆったり浮かべて、流れにまかせてみるのも一つです。

右の詩は5月4日に亡くなった猫好きで知られた
吉行理恵の古い詩です。彼女の詩集を探す途中で、吉野弘の詩集が目に付いて、開いたページの次の詩が心に留まりました。

君は誰かを愛していますか?
君は誰かに愛されていますか?
君は自分を愛せていますか?



  猫の一日

            吉行理恵


眼をさます  と

ミルクを飲んだ

う、めえ……  と鳴いて

もう、眠ってしまった



                   現代詩文庫65 吉行理恵詩集(思潮社)より

  奈々子に

             吉野弘


赤い林檎の頬をして
眠っている奈々子。


お前のお母さんの頬の赤さは
そっくり
奈々子の頬にいってしまって
ひところのお母さんの
つややかな頬は少し青ざめた。
お父さんにもちょっと酸っぱい思いがふえた。


唐突だが
奈々子
お父さんはお前に
多くを期待しないだろう。
ひとが
ほかからの期待に応えようとして
どんなに
自分を駄目にしてしまうか。
お父さんははっきり
知ってしまったから。


お父さんが
お前にあげたいものは
健康と
自分を愛する心だ。


ひとが
ひとでなくなるのは
自分を愛することをやめるときだ。


自分を愛することをやめるとき
ひとは
他人を愛することをやめ
世界を見失ってしまう。


自分があるとき
他人があり
世界がある。


お父さんにも
お母さんにも
酸っぱい苦労がふえた。


苦労は
今は
お前にあげられない。


お前にあげたいものは
香りのよい健康と
かちとるにむづかしく
はぐくむにむづかしい
自分を愛する心だ。


             現代詩文庫12 吉野弘詩集(思潮社)より

つづく
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となりでトロトロ

その7  ゆらゆらと萌える若葉のいじらしさ

2006年度 7枚目 2006/05/06

■ 世間とは 君じゃないか

今日は連休はざまの土曜日。世間には9連休の最終コーナーという人もいる一方、連休こそが稼ぎ時と大忙しで商売に励む人もいれば、連休に関わりなく残業や出張に明け暮れている人もいる訳で、人々の暮らしは様々。

もし君の将来(例えば27歳〜37歳〜47歳〜87歳)を考えたとき、このゴールデンウィークをどんな風に過ごす生活を求めるのでしょう。
「世間並の暮らし」などという言い方がありますが、世間などしょせんは個人の集まり。自分がどこでどう誰とどんな風に暮らすことに満足するのか、満足とまでは行かなくても何とか納得できるのかということしかないでしょう。

5月11日のHR読書会では太宰治『人間失格』を囲むことになっていますが、君は完読したでしょうか。この小説のキーワードは「道化」と「罪」。太宰治が愛人と心中した死の間際に書かれた、彼の精神的自伝小説とも言うべき作品。「世間」から葬られて行く若者の姿が描かれています。

新潮文庫P90には次のような一節がありました。


「世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、恐いものとばかり思ってこれまで生きてきたのですが、しかし、堀木にそう言われてふと

「世間というのは君じゃないか」
という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめた。
(それは世間がゆるさない)
(世間じゃない。あなたがゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどい目に逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬るのはあなたでしょう?)
汝は、汝個人のおそろしさ、怪奇、悪辣、古狸性、妖婆性を知れ!


今まで、君も
「そんなことしていて世間が許すと思うの?」とか「世間はそんなに甘くない!」などと親や教師から言われたことがあるでしょう。その時君は、言い返せたでしょうか?「あなたの言う世間って何?世間じゃなくてあなたが、私のやっている事が気に入らないだけで、世間じゃなくて、あなたがそれを許したくないだけでしょ?世間なんて曖昧な言葉で、自分の責任を誤魔化さないで!」って。僕はそれを言いたかったけどやめました。傷つけ合うだけになると思ったからです。

僕が高校生のころ、父親から
「もっと人のことを考えて行動しろ!」としかられた事があります。そして「もっと人の気持ちを考えろ!」と怒鳴られた事があります。その時、僕はその言葉に素直にうなずけませんでした。なぜなら、父親の言う「人」とは、世間の一般市民の事でもなく、一緒に暮らすほかの家族の事でもなく、ただ単に、「父親自身」の事だということが見え透いていたからです。父が、「もっと俺の気にいるように行動しろ!」「もっと俺の事を大切にしろ!」と言えば、それを聞いた僕の気持ちも少し違って、父に対する付き合い方も変わったと思います。でも、それはないものねだりでした。自分の思いを世間と言う言葉に重ねてでしかものを言えない人間にだけはなるまいと心に誓いました。

君が「世間並」を求めるのではなく、「自分の願い」を実現しようとするならば、それに必要な力や資質は何でしょうか。知識?学歴?資格?体力?美貌?信仰?さて何でしょう。

そうしたどれもこれもが人並み以下でも、私は人生の荒波を笑顔一つで乗り切ってみせるという人もいるかもしれません。それを望む君ならば、何があってもへこたれない根性や、何かあってもすぐに気分を切りかえられる楽天性を鍛える修業が君の課題なのでしょう。この連休中、君はそれに取り組むことができたでしょうか?もし、それが不充分だと思うなら、明日の一日を、自分の課題に当ててみてはどうでしょう。


■ 罪の対義語(アントニム)と同義語(シノニム)

君は今、そしてこれから一人の人間として何と向き合い、それとどう付き合おうとしているのでしょうか。『人間失格』のクライマックスに近い場面(P114)での罪についての独白に対して、君はどんな答えを導き出すか、僕には興味があります。それをぜひ、読書会の時に君の口から聞きたいものです。


罪。罪のアントニムは、何だろう。  (中略)

牢屋にいれられる事だけが罪じゃないんだ。罪のアントがわかれば、罪の実体もつかめるような気がするんだけど、……神、……救い、……愛、……光、……しかし神にはサタンというアントがあるし、救いのアントは苦悩だろうし、愛には憎しみ、光には闇というアントがあり、善には悪、罪と祈り、罪と悔い、罪と告白、罪と、……嗚呼、みんなシノニムだ。罪の対義は何だ  (中略)

今はもう自分は在任どころではなく狂人でした。……神に問う。無抵抗は罪なりや?  (中略)

人間、失格。もはや、自分は、完全に、人間でなくなりました。

つづく
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となりでトロトロ

その6 人に流されず 時間に追われず 初夏の風に吹かれたい

2006年度 6枚目 2006/04/28

■ 薫る風を教室に

バスケットボール準優勝おめでとう!バレーボールや卓球は入賞こそできませんでしたが、朝練習でチームごとの付き合いも深まり、試合でもそれぞれの持ち味を出しながら楽しめたようで結構でした!と当日の終礼では思っていたのですが、その翌日の朝は正直言ってガッカリ。

朝の仏参の遅刻2名、欠席は何と10名。HRの終わりになってもまだ9名がおらず、二時間目の現代文の時間は欠席確定の2名のほかに、授業に間に合わないままの2名と保健室で休養した2名を加え、6人もいないまま。HRで席替えをした後の空席の目立つ教室は、なんとなく
緊張感が緩んだ生ぬるい空気が漂っているように感じられました。授業中机に突っ伏して寝たままの彼女も含めて、授業に参加できないまま連休中の宿題の内容も知らないままの君は、つらいねえ。

一方、体に疲れを残しながらも、
気持ちだけは引き締めて授業に集中している顔もあり、新しい席で生活をリセットさせて、心機一転頑張ろうとしている表情もうかがえます。行事があろうとなかろうと、席がどこで誰が隣りであろうと、マイペースを維持している姿もあります。そうできるだけの力を持っている人は、幸いです。それを引き出し支えてくれる仲間を持っている人はなお、幸いです。

次に教室で授業を受けるのは風薫る五月。新緑に輝く初夏の陽射しのように明るく弾けるのもいいし、深まる緑の木陰のようにしっとり静かに物思うのもよし。
それぞれが、それぞれに、それぞれの五月を楽しめるようにするための、互いを気遣うマナーやルールを忘れずに。それが『豊かな個人主義』を支える絶対条件です。

ソワソワ心や体が落ちつかない人、誰かに追いたてられているようでいらつきがちな人、何かに追いつめられているようで息苦しい人。そんな風にゆとりを失っていると、大切なものを失っても気付かず、素敵な出会いのチャンスも向うから逃げて行ってしまいます。

現代文の課題、五月の新書カードのテーマは「時間・現代・豊かさ」です。現代文便り『ベランダの風』でも紹介しましたが、今月出たばかりの
筑紫哲也『岩波新書 スローライフ 緩急自在のすすめ』は落ちつかない君にぴったりの一冊です。

■ 遠足、花祭、読書会……文系の味わいと誇りを

京都国立博物館で源氏物語絵巻や鳥獣戯画を割引料金で観られる遠足。連休明け9日火曜2時間目の花祭のアトラクションはハープ奏者内田奈織さんの演奏会。そして11日木曜のHRは
太宰治『人間失格』を囲んでの読書会。美術・音楽・文芸の三点セットで始まる五月です。一組は文系のTAコース。ならばこそ、こうしたチャンスを最大限ものにしたいもの。自分が立っている場所を自覚することで、今の自分にとってすべき事が見えてくるのだと思います。

とりあえず、土日の連休明けは遠足。集合時間の10:00、稲荷駅近くの公園に何人が集まっているのか?遅刻や欠席ばかりで元気の出ない遠足になりませんように。

ワイワイおしゃべりして騒ぐ人、のんびりまわりの景色を楽しむ人、うつむいて自分の足取りを確かめる人etc.同じ行事に参加しても楽しみ方はいろいろ。楽しむ事が苦手な人は、
人生の不条理について思策する哲学者の散歩のように緑の中を歩いてはいかがでしょう。

つづく
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その5 木漏れ陽のレースを纏いはしゃぐ娘ら

2006年度 5枚目 2006/04/24

■ 流れのままに この身を任せ

今日は一日中、中学生のスポーツ大会の歓声がグランドに鳴り響いていましたが、授業に集中できたでしょうか?うるさくってイライラした人もいるでしょうが、明後日の高校の球技大会ではその逆になるので、間抜けなおあいこといったところでしょうか。

さて、昨日の日曜日は、M17ちゃん・M33ちゃんのMMコンビと10組の遠足委員さんたちと一緒に、遠足の下見をしてきました。すると、何と言うことでしょう!一番のお目当ての「大山崎山荘美術館」は遠足当日の月曜日は休館日であることが判明したのです。

ど〜すんねん!と言っても始まらないので、本番では見られない
モネの「睡蓮」やドガやピカソやモディリアーニの作品をゆっくり眺めて楽しみました。そのあと天王山の山頂を経て長岡天神まで。お喋りしたり歌ったり、滑ったり転んだり血を流したりしながら、約4時間の道のりを歩きました。そして、その下見の結論は、美術館が休みでトイレもろくにないこのコースはアウト!でした。

「そんなこと行くまで分からんかったのか?」と言われれば、まったくもってそのとおり。間抜けな学校の毎度のパターンなのですが、僕は素敵な絵画や新緑のハイキングコースを楽しめたことで満足。ここで得た教訓の一つは
「人の話に乗っても、結果は自分の責任だ」ということ。もう一つは「思いがけないことになっても、思いがけない楽しみは見つかる」ということ。面倒を嫌い失敗を恐れて、チャンスを逃すことにウンザリし始めたら、時には流れに身をまかせ、移り行く人の世の景色を楽しんでみてはどうでしょう。

ただ、聞いた話によると、今日の京都新聞朝刊に「天王山の竹藪で死体発見」という記事があったとか……僕らでなくってよかった。とりあえず、遠足本番のコースをどうするかは、係の先生や遠足委員さんたちと相談します。


■ 女性の作った作品から生き方を学ぶ

遠足の下見の帰り掛け、M17ちゃんから沖縄を舞台にした映画『チェケラッチョ』がおもしろそうだと聞きました。僕は今年の修学旅行委員が当っているので、それなら観なくちゃと思ってTOHO二条まで足を伸ばしました。『青春デンデケデケデケ』という芝居(本でも読みました)の現代沖縄版といった感じの明るく楽しい青春映画でした。


印象に残った台詞は
「おれはからっぽじゃない。だって、痛てぇもん、ズキズキズキズキ痛てぇもん」

ただ結局最後まで“チェケラッチョ”が何なのか分からなかった(ホンの数秒その説明の台詞があったのですが……)ので、売店で原作を買って帰って読みました。ところが何と原作の小説にはチェケラッチョという言葉すら出てこなかったのです。それでインターネットであれこれ調べると
「Check it out,Yo!」のことなのだそうですが、その英語の意味がまたわからない。それで、Y先生に聞いてみると「見てろ!」とか「必見!」とか言うような、ラップやHPで使われる幅の広い意味の言葉だとのこと。勉強になりました。

でも、もう一つ勉強になった=興味を持っていろいろ考えたことがあります。それは『チェケラッチョ』の原作の作家が秦建日子(ハタ・タケヒコ1968年生まれ、早稲田大学法学部卒)で、映画の監督は宮本理江子(山田太一の娘で『101回目のプロポーズ』(1991)や『優しい時間』(2005)の演出を手がけた売れっ子演出家)だということ。

男性作家が書いた小説では主人公が少女なのに対して、女性監督が撮った映画では主人公が少年になっている
ねじれが面白かった。

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また、先週二度目を観に行った『かもめ食堂』の原作は群ようこ(1954年東京都生まれ。日本大学芸術学部卒)で、脚本・映画監督は荻上直子(1972年生まれ、千葉大学工学部画像工学科卒)で、女性ペアの作品。登場人物も日本とフィンランドの年の異なる女性達です。

そうそう、確か上映中のミュージカル映画『プロデューサーズ』の字幕訳者は
戸田奈津子(津田塾大学英文科卒)でした。

映画やドラマや芝居を観て、その登場人物の生き方に刺激や影響を受けるというのは昔からよくあることでした。でも、女性が様々な分野に進出し、多くの成果を挙げ始めている現代では、描かれた女性像だけでなく、それを描いたり、多くの人間を動かして制作したり、ある分野で特別な役割を担っっている女性の姿に目を留めて、自分の生き方を考えるきっかけにしてみるのもいいかも。

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そのためには、「何事も勉強」と大手を振るって、いろんなところに足を運び、未知のものと出会いに行ってはどうでしょう。

つづく
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となりでトロトロ

その4 花影に萌たる緑 瑞々し

2006年度 4枚目 2006/04/21

■  いられないつらさ いない席を見るつらさ

見知らぬ人と新たな接点を見つけていくのは、とても刺激的でワクワクします。新鮮な発見が得られてウキウキします。でも、その分かなりのエネルギーが必要で、ヘロヘロになります。教師歴25年のオッサンでも、はじめて出会った5クラス196人との間に
新たなコミュニケーションの回路を作ることに苦労します。ましてや敏感なお年頃の君であれば、きっとシンドイことも多いんだろうね。

日直さんが付けてくれている『学級日誌』を見ると、「今日も一日たのしかった!」という書き込みがある一方、「2年生の勉強はキツイ∂」「最近毎日 小テスト……」といった嘆きが綴られています。4月10日に高2の授業が始まってから昨日までの10日間、環境が変わって思うように調子が整わない人もいました。右の表のように、始業式以外、朝礼で41人の顔がそろった日が一日としてありませんでした。つらいなぁ。

いつか君に言ったかもしれませんが、僕は遅刻や欠席が『罪』だとは思いません。ただ、来られなかった人にとっても来られた人にとっても、
いないという現実がつらいことだと思うのです。

遅刻

早退

欠席

10日(月)

1人

11日(火)

4人

1人

12日(水)

6人

1人

13日(木)

3人

1人

14日(金)

5人

1人

15日(土)

4人

1人

2人

17日(月)

3人

1人

18日(火)

9人

2人

19日(水)

2人

1人

3人

20日(木)

8人

1人

1人

君はやってもやらなくてもいいはずの勉強をしたくて高校に進学してきました。君は「高卒の資格」さえ手に入ればそれでいいと言うわけではないでしょう。同世代の人とクラブやクラスや共通する趣味を通して、豊かな関わりを持つことを期待しているでしょう。そして、それを今年もこの学校で続けたいからこそ、君は今この教室にいるのでしょう。学校に来て新たな発見をし、トキメク時間を過ごすことが君の願いのはずです。

なのに、朝から夕方まで一日フルに学校生活を楽しめないのはつらい。やりたいことが思うようにできない状況や、
思うように自分をコントロールできない自分の身体や心が、もどかしくてつらい。

同時に、ちゃんと朝から来られた人にとっては、その日そこにいるべき人がいなくて、
自分と彼女とのあるべき接点がないことが、淋しくてつらい

ちゃんと来られない人には、来ている人には想像しずらい辛さがある。ちゃんと来ている人には、来られない人が思ってもみないつらさがある。一緒の教室で過ごしながら、そうしたつらさの擦れ違いに気付いてしまうと、またそれがつらくなる。

ただ、そうした辛さを意識しつつも、健気(けなげ)に明るく過ごしてくれている人の笑顔を見ると、救われます。

つらさを克服するには、それに耐えられる力を身に付けるための
厳しさも必要ですが、それは単に「鈍感」な人間を作り出すだけに終わることもあります。豊かな感受性を失わず、それでいてしなやかな強さを身に付けるのに必要なものは何か。それが分かれば、そこに「いない人」も「いる人」も、新たな一歩を踏み出せるかも。


■ 時間よ止まれ

現代文の授業で
池内了『生物時間を生きる』をやっていますが、「物理時間」についてのやりとりで、「時間が止まって欲しいと思うときはどんな時」という問いに対して「試験勉強ができていないときの試験前日」といった答えがあったのを覚えていますか?

とても高校生らしい、可愛い答えだと思いましたが、僕がその時思い浮かべたのは、右に紹介した
矢沢永吉『時間よ止まれ』(資生堂のCMソングにも使われてました)。

そして、下に紹介した
三木露風の詩『接吻(せっぷん)の後』でした。

虚しい溜め息に暮れる人生ではなく、熱い溜め息を交わせる人生を送りたいと思いませんか?


 時間よ止まれ

作詞:山川啓介 作曲:矢沢永吉
          1978/3/21

罪なやつさ Ah PACIFIC
碧く燃える海
どうやらおれの負けだぜ
まぶた閉じよう
夏の日の恋なんて幻と
笑いながら
この女(ひと)に賭ける

汗をかいたグラスの
冷えたジンより
光る肌の香りが
おれを酔わせる
幻でかまわない
時間よ止まれ生命(いのち)の
めまいの中で

罪なやつさ Ah PACIFIC
都会(まち)の匂いを
忘れかけたこのおれ
ただの男さ
思い出になる恋と西風が
笑うけれど
この女に賭ける

Mm―STOP THE WORLD




矢沢永吉  

1949年9月14日、広島生まれ。

1972年、ロックバンド

「キャロル」でデビュー。


        接吻の後に
              三木露風

「眠りたまふや。」
「否
(いな)」といふ。

皐月
(さつき)
花さく、
日なかごろ

(うみ)べの草に、
日の下
(もと)に、
「眼
(め)閉ぢ死なむ」と
君こたふ。

   裏に球技大会のメンバー表を転載しました。

昼休みなどにチームで練習できたら、勝っても負けても楽しいね。

(省略)

つづく
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となりでトロトロ

その3
闇を照らさず 闇に目を慣らせ

2006年度 3枚目 2006/04/12

■  クラス名簿が教えてくれること

今日配布した「2年1組クラス名簿」からは、41人のキャラの一端がうかがえて面白い。書かれた言葉だけでなく、字体や字の大きさ、添えられたイラストやマーク、そして書かれていない空白からもその人柄が偲ばれます。

「コミュニケーション」とか「表現」とかいうと、ことばが伝える意味ばかりに目が行きがちです。しかし実際には、多くの人は言葉の意味以上に、相手の表情や声の調子、文字の乱れや筆圧から、その人の気分感情こだわりなどを読み取ります。そして、豊かな想像力を働かせれば、無表情な顔や紙の空白に、相手が忘れてしまっていること、相手が気に懸けていないこと、相手が避けようとしていること、相手が隠そうとしていることまでをも推測できるかもしれません。

そこで大切なのは、
自分が書いたものを他人になったつもりでじっくり眺めて読んでみること。自分が書いた名簿の文章やイラストが何を語り、空白が何を示しているのか? ひょっとしたらこのクラス名簿で一番新鮮な発見は、自分自身のページにあるかもしれません。

そうしたことに興味がわいた人は竹内一郎『人は見た目が9割』(新潮新書)を読んでみて下さい。顔つき、仕草、目つき、匂い、色、温度、距離等々、君を取り巻く言葉以外の膨大な情報が持つ意味を考え、心理学・社会学からマンガ・演劇まで、あらゆるジャンルの知識を駆使した「非言語コミュニケーション」入門書です。

今の自分を知ろうとせずに、どれだけ模擬試験を受けてみたところで「進路」や「将来」なんて見えてくるはずがありません。まずは自分を見つめる眼を育てましょう。

■ 君も祈られ、願われる未完のひと

クラス名簿の表紙の写真に、君は見覚えない?それは講堂の入り口に立って、君をそっと迎える小さなブロンズ像。

『未完の女(ひと)』と題されたその像は、ある日事故で命を落とし、卒業の日を迎えることなくこの世を去った一人の生徒の父母が、娘の死を悼み、ここで学ぶすべての少女たちの健やかな成長を願って学校に贈られたものです。

その前に立った君に、彼女は
去り行く過去を手繰り寄せ、見えぬ不思議を目にすることのせつなさを語り始めるかもしれません。

半分ほど集まった「保護者アンケート」(明後日14日金曜日〆切)にも、娘に対する親のせつない願いが綴られていました。
例えば……
  • 学習と部活の両立は大変ですが、まず心身ともに健康であればそれに結果がついてくると思います。両方しっかりした結果が得られるよう頑張ってほしいと望んでおります。
  • どんなことでもいいので、好きなことを見つけて生き生きと毎日を送ってほしい。将来につながる、夢、趣味、友人をみつける貴重な若い日々だと思うので。
  • 自分の夢・理想と自分の置かれている環境・状況や社会の現実への妥協とのバランスを身に付けて元気に生きて行って欲しい、自ら生きる力を身に付けて欲しいと願っています。
  • 毎日の授業を大切にうけて、自分の将来に備えてほしいです。知的好奇心を持ち続けて豊かな人生が送れるよう基礎を築いてほしい。
  • 娘がよく考えて決めた道であれば、親として全面的に協力するつもりです。期待はしていませんが自分(娘)の納得のいく道を歩んでくれればと思います。
こうした思いに通じる詩を一つ紹介します。今年国語科の新任として来られたM先生(彼女が京女の中学生の時、僕が国語を担当しました)が、彼女のクラスの学級通信で紹介されていた詩です。     名前は祈り

         毛里 武

 名前はその人のためだけに
 用意された美しい祈り
 若き日の父母が
 子に込めた願い
 幼きころ  毎日、毎日
 数え切れないほどの
 美しい祈りを授かった
 祈りは身体の一部に変わり
 その人となった
 だから心をこめてよびかけたい
 美しい祈りを

 
  『親から子へ伝えたい17の詩(うた)』
                             双葉社より


つづく
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となりでトロトロ

その2 現実を生き抜く力を虚構の世界で身につける

2006年度 2枚目 2006/04/10

■ 人を育てる環境を

君の新生活はどんな具合でしょうか?心地良い緊張感を味わっていますか?休み時間に教室でくつろげて、何とか楽しくやっていけそうだと思っている人は幸いです。そうそう、緊張感で思い出しましたが、始業式で生活指導の先生が「緊張感が欠けているんじゃないか?」「遅刻してばかりいるようではではろくな学校生活は送れない!」というような話をされたでしょ。あれは君にというより、僕も含めた教師に向けて発せられた戒めだと思いました。

開式にあたって、いつも通り発せられた「開扉」の言葉の後、いつものようにはオルガンが鳴らず、遅刻してきた音楽の先生を待つまでの教師の気まずい沈黙と、鳴り出したオルガンと共に何事もなかったかのように流れた君の澄んだ歌声。閉式にあたって、いつも通りと違った「これで終業式を終わります」の言葉を聞いた君が飲み込んだ息の音と、それに反応して言い直された「これで始業式を終わります」の動揺した声の響き。生徒の君より教師の僕たちのほうがよっぽどチグハグでした。君は校長先生の願いにもかなう
「その場でどんな行動を取るべきかわかっている」心根の優しい娘です。

誰かのカッコ悪さや間の悪さをクスリと笑って許し合える世の中は居心地が良いし、元気も出るもんです。緊張しすぎてビビったり、疎ましくなって逃げ出す人が続出する世の中より、
欠点も個性の内っていうぐらいにゆったり受け止めてくれる世の中の方が、人は成長しやすし、未経験のことにチャレンジしやすいもんだというのが、僕の経験則です。頑張れと言われて頑張れる人もいれば、そうした言葉によって追いつめられたりできない自分にへこたれたりする人もいます。だから、たいした薬にならない代り毒にもならず、ちょっぴりまわりに気遣いながらボチボチ暮らして行くのも一つかも。

自分が生きて行く社会や時代の中で自分の持ち味を守り、それを活かす方法を探ること。それが「進路」を考えるってことです。


■ 常識を突き抜けたところにある真実

今日は入学式。君も形式的にはこの小さな学校の中で『先輩』と呼ばれる立場になったわけ。先輩・後輩と言うのは、在校生同士で呼び合う言葉ではなく、卒業してそこから旅だった人を先輩、その後に続くものを後輩と言うのが本来の使い方だと聞いたことがあります。そう言う君の先輩にあたる人の生きている姿に触れるというのは、結構意味のあることかも。

そこで映画を一つ紹介。京都の四条烏丸のココンカラスマという唐草模様のビルの3階にある京都シネマ上映中の邦画、
マキノ雅彦(津川雅彦)監督の『寝ずの番』です。初めから終わりまで「下ネタ」で突っ走るR15指定のコメディですが、長門裕之演ずる落語家の奥さん役を君の先輩である富司純子が演じています。

1945年12月1日生まれ彼女は、京都女子高等学校在学中、父の勤務先である東映京都撮影所に見学に行ったところをマキノ雅弘にスカウトされ藤純子の芸名でデビュー。ヤクザ映画の主演で人気を集め、東映が生んだ「客の呼べる唯一の大女優」といわれたそうです。NHKの大河ドラマ「源義経」で共演した歌舞伎俳優の尾上菊五郎と結婚して引退。長女(寺島しのぶ)、長男(尾上菊之助)を育てながら寺島純子の本名でフジテレビのワイドショーの司会者をつとめ、44歳で富司純子として女優に復帰。60歳を過ぎたこの映画でも、色っぽくてチャーミングな演技で楽しませてくれました。

彼女が三味線弾きつつ口ずさんだ「俺は御前のトタン屋根 思う気持ちはカワラない」という、粋で洒落た小唄が印象に残りました。
「常識の殻を破った非常識」の中にこそ溢れる、艶やかな情感を楽しんでください。

喜劇は今の気分じゃないという人には、同じ京都シネマで上映中の『ベロニカは死ぬことにした』堀江慶監督、真木よう子主演、R15指定)がおすすめ。デフォルメされた精神病院の描写に違和感を持つかもしれませんが、「何でもあるけど何にもないの。退屈でつまらない人生だから死ぬことにしたの」という主人公の変化と結末が面白い。

「病院の外の人たちは、みんな自分が正しいと思っている。それでいてみんな他人と同じようにしようとする」という一人の患者の言葉と、トワが抑圧された精神を解放するのに成功したセクシュアルな場面が印象的。午前中一回だけの上映なので、映画館に足を運びにくい人は、原作
『ベロニカは死ぬことにした』パウロ・コエーリョ著、角川文庫)を是非手にとって見て下さい。


正常とは何か?本当におかしいのは何なのか?常識に目を曇らされず、この世や自分を冷静にチェックする客観的な目を鍛え、常識にとらわれずと柔軟な発想を育てていきたい人にお薦めです。

■ 担える自分を誇らしく

1・2時間目のHRで下表の通りクラス役員が決まりました。一人一人、なった動機や経緯はどうあれ、自分がこの世の中を担う一員として存在できたことを、今日一日のささやかな歓びとしましょうよ。きっと、君が引き受けた仕事の取り組み方に、君の人生観や価値観が表現されていくに違いありません。

つづく
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となりでトロトロ

その1 共感できる繊細さと、孤独に耐える強さを 誰かと共に

2006年度 1枚目 2006/04/08

■ 「はじめまして」から始まる初め

はじめまして、君たちの新しいクラスに混ぜてもらうことになった担任の成田です。この学級通信「手紙」では、バタバタした教室では伝えきれない事や、一緒に考えたいことなどを折々に取り上げて行きます。まだ見ぬ保護者の皆様も、直接お会いできる機会は少ないと思いますので、この紙面を通じて御付き合いください。

先日
『詩歌(しいか)の待ち伏せ』(北村薫著、文春文庫)という本に出会いました。そこで取り上げられていた二つの詩を、新たなスタートの記念に紹介します。


    いたそうね

        岡山孝介(東京 小四)

ぼくが  くりのいがを
手でもったら  とても
いたかったよって
ママに話したら
ママが
いたそうねって
顔をしかめた
ママってかわいそうだね
おはなしをきいただけで
いたくなるなんて

僕は、君が僕の事を知らないように、君のことを知りません。今、君の隣りに坐っている人が中学1年生の時から一緒のクラスの人だったとしても、彼女が君のこと(例えば、この一年間、君が何にときめき、何に絶望し、何に救いを求め、何を学んだのか)をほとんど知らないように、君は彼女の事をほとんど知らないでしょう。しかも、この世のすべてのものは変化し続けます。今日の君は昨日の君でないように、明日の彼女は今日の彼女と違っているはず。それは親子や夫婦の間でも同じこと。

だからこそ相手に関わりなく、今日の「はじめまして」はドラマチックで、明日の「おはよう」も新鮮なはず。


君がこの世で過ごすわずかな時間、他の誰かよりも早く遠くへ行き着きより多くの物を得たいなら、余計な事を考えず、誰かに与えられた問題の決められた答えを決まった手順で探すことに精を出すのが一番です。

しかし、君にとって必要なものを手に入れ、生きている実感を得たいのなら、君が求めるものを知り、それを手に入れるための方法を学び、それを手助けしてくれる仲間を作らなければなりません。仲間なんていらないって思うのが傲慢であることを知っている君なら、謙虚に学ぶことの大切さも知っているはず。

       蝶
                  西條八十

やがて地獄へ下るとき、
そこに待つ父母や
友人に私は何を持って行こう。
たぶん私は懐から
蒼白(あおざ)め、破れた
蝶の死骸をとり出すだろう
そうして渡しながら言ふだろう。

一生を
子供のやうに、さみしく
これを追ってゐました、と


■ 一人一人別々だから共感することの歓びがある


4月6日の朝日新聞Web News に「エッセイストの絵門ゆう子さん死去 がんを患い活動」という訃報がありました。NHKのアナウンサーを経て女優活動もしていた絵門さんは2000年に転移性乳がんにかかった後、二冊の闘病記を出版し、2003年11月からは、全身にがんが転移した日常を朝日新聞東京版に『絵門ゆう子のがんとゆっくり日記』として連載していました。3月30日の第92回目の結びの言葉は「次回も続きます」。しかしその4日後、呼吸困難で死去。49歳でした。2006年02月23日の日記の一部を以下抜粋します。


中学高校時代、私は跡見学園という女子校でバスケット部に所属した。初めの3年間はベンチウォーマーだった。1年生の新入部員までが、ほぼ全員出してもらえた試合でもベンチで終わった日の悔しかったこと。しかし、そこから負けじ魂に火がついた。早朝始業時前のコートで朝練習に励み、お弁当は早弁して昼休みもほとんど練習、授業の合間の10分間の休憩は近場の階段でトレーニング。自分が選手として活躍する姿をイメージして日々邁進した。結果、成績はガタ落ち。教員室に呼びだされたが、高校ではレギュラーメンバーになれ、2年生の時は国体の候補選手として名前があがった。大学受験のため国体出場はしなかったが、バスケットを通しての苦闘の歴史はけっこう今の私を支えている。4年も5年もかかろうが、あきらめなければなんとかなるという体験を植えつけてくれた。(中略)

しかし今、階段を上がるのもつらい体という弱者になって、考えさせられることは多い。(中略)
弱者の事情は、一日でも不自由な体で過ごしてみないとわかってもらえないのだろうと思った。弱者は少数派だ。営利を優先すれば決して弱者は守られない。身体障害者用の設備を排除することを当たり前に考えていた東横インの社長。弱い立場に立ったことのない人は、多かれ少なかれああいう考え方を根っこでしてしまうのかもしれない。(中略)

再び高校バスケット部でのこと。練習がきつく息が切れる時は、手を両膝(ひざ)にあてて体を丸め、下を向くと楽になる。でも私は、それは我慢すべきだと思い、体を伸ばし続ける努力をしていた。そしてよく膝に手を置くチームメートに「そうすると楽だけど、我慢してがんばらないといけないと思うよ」と言ったことがある。
あの時の彼女の悲しそうな顔をよく思い出す。彼女のつらさが自分と同じ程度だと思ったあの頃の私が恥ずかしい。

弱い者にしか分からないこと http://mytown.asahi.com/tokyo/news.php?k_id=13000130602230002


人はこの世にたった一人素っ裸で生まれて来て、何も持たずたった一人で死んで行きます。だからこそ
君は、君と生を共有し、君に共感し、君を記憶し君の記録をたどってくれる誰かを求めます。君は自分の顔を生涯一度たりとも直接観ることなく死んで行きます。だからこそ君は、君を認め君を照らし出し、君の正体を探る君の孤独な作業に付き合ってくれる誰かを求めます。それは成長途上の君だけでなく、熟成途上の僕や君の親御さんだって同じこと。求め合いながら擦れ違ってばかりいるのがこの世の習い。自分が誰かを求めていることに気付かないまま、君はすでに誰かに求められているのかも。

クールなポーズもカッコイイけど、いつもそれでは風邪引きます。燃える女もいいけれど、あっという間に燃え尽きて炭になっても困ります。それでトロトロ。肉や野菜が荷崩れ煮詰まったドロドロスープじゃなくて、コクと食感があって後味の良いシチュー。君の持ち味が引き出され、多様な個性が溶けあった味わい深いクラスにしていけるよう、ちょっぴりスパイス効かせつつ、いっしょにじっくりトロトロトロ火でつきあえたら幸いです。


■ 三つのお願い

@ クラス名簿を作ります。所定の用紙に黒ペンであれこれ書いて下さい。〆切は来週月曜日。
A 別紙の保護者アンケートにご協力下さい。できれば14日(金)までにお願いします。
B 緊急の際は、裏面の緊急連絡網で連絡をまわしてください。

つづく
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