ナ得たことは何?学校での友達付き合いは?家庭での役割分担は?社会との関わり方は?この人生の小さな節目に、これから始まる42日間の夏休みの課題を、君自身で見つけてください。
■ 「義務教育」の勘違い
日本国憲法第二六条
教育を受ける権利
1 すべて国民は、法律(教育基本法第三条第二項)の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2 すべて国民は、法律(教育基本法第四条)の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。
京都女子高等学校 学則
第二五条
進級及び卒業は、所定の教科・科目を履修し、かつその単位を修得したものに対して、特別活動の成果及び平素の操行勤怠を考慮して認める
定められた授業や特別活動に自分の時間を縛られたくないならば、この学校を自らの意思で辞める権利を自らの責任で行使し、自分にふさわしい場所を求めて下さい。
学校は「もっと学びたい。分かるようになりたい」という君の願いを支える場です。様々な事情に配慮しながら君の成長を手助けする場です。頑張っているのにうまく行かないとき、君には何とかしてほしいと学校に要求する権利があります。そして学校はそれに応える責任があるのです。京女の教師の一人である僕も、京女でこそ得られる何かを求める君を応援します。
■ 法律が守るもの、法律が裁くもの。一人の大人として願うこと
法律には、個人の権利を守るものと社会の秩序を守るものがあります。君を守ってくれている法律には、「日本国憲法」をはじめとして「教育基本法」、「児童福祉法」、「青少年育成条例」、「少年法」、「児童の権利に関する条約」などがあります。それらは君の健全な成長と社会的な自立を願って作られた法律です。だから、そうした法律の多くには、君の成長を妨げ安全を脅かす大人への処罰が定められています。
「児童福祉法」第34条では「児童にこじきをさせ、又は児童を利用してこじきをする行為」を禁じています。「京都府青少年の健全な育成に関する条例」では「何人も、青少年に対し、金品その他財産上の利益若しくは職務を供与し、若しくはそれらの供与を約束することにより、又は精神的、知的未熟若しくは情緒的不安定に乗じて、淫行又はわいせつ行為をしてはならない」と定め、違反した大人に対し「一年以下の懲役又は五十万円以下の罰金」を科します。
未成年者飲酒禁止法
第一条
〔未成年者に対する飲酒の禁止〕
1 満二十年ニ至ラサル者ハ酒類ヲ飲用スルコトヲ得ス
2 未成年者ニ対シテ親権ヲ行フ者(※例えば親)若ハ親権者ニ代リテ之ヲ監督スル者(※例えば教師)未成年者ノ飲酒ヲ知リタルトキハ之ヲ制止スヘシ
3 営業者ニシテ其ノ業態上酒類ヲ販売又ハ供与スル者(※例えば飲み屋の店員)ハ満二十年ニ至ラサル者ノ飲用ニ供スルコトヲ知リテ酒類ヲ販売又ハ供与スルコトヲ得ス
第二条 〔酒類及び器具の没収・廃き等の処分〕(略)
第三条 〔罰則〕
1 第一条第三項ノ規定ニ違反シタル者ハ五十万円以下ノ罰金ニ処ス
2 第一条第二項ノ規定ニ違反シタル者ハ科料(※千円以上一万円未満)ニ処ス
■ 紫陽花の花言葉……移り気&辛抱強い愛情 | |||
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つづく | |||
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■ 君は誰のどんな権利を守りたい |
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それと同じように、奈良県の有名進学私立高校一年生による母子殺害事件の記事も、注意しなければ見落としてしまいかねない大きさになっています。ただ、昨日(6/28)の朝日新聞朝刊の「長男、接見で『反省』」という見出しの記事の最後に書かれていた右の一文は、僕の心にゴリリと引っかかりました。 その高校の教師は、彼の何を思って『論語』を差し入れたのか?『論語』は「礼」を基本として、主君に対する「忠」や親に対する「孝」を重んじる孔子の思想書です。父の期待に背き、母を殺した彼に対して、その罪を自覚させようということなのでしょうか?君がもし彼の友達だったなら、彼にどんな本を紹介するのでしょう。 |
長男は取り調べの合間にベストセラー小説『ハリー・ポッター』シリーズと、通学する高校の教員が差し入れた孔子の『論語』を読んで過ごしているという。 |
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つづく | ||||
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■ 死ぬまで生きる。なら、どう生きる |
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その恋が実ったのも束の間、彼女は体に変調を来たし、あっけなくこの世を去ります。最期の時を迎えるしばらく前、両親に付き添われた彼女は紫外線を遮る防護服を着て浜辺に立ち、サーフィンをする彼をじっと見つめます。その彼女の死期が近いことを知っている父親は彼女に向かって「そんな服脱いで、思いっきり走りまわれ!」と言います。その父の言葉の意味を理解しつつ、それを否定した彼女の言葉が心に染みました。「私は死ぬまで生きる。生きて生きていきまくるの。」そんな彼女がこの世に残した曲の題名は『Good-by days』でした。 |
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つづく | |
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■ 社会を見る眼―理性を磨こう |
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つづく | |
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■ 言葉が混沌に秩序を与え、世界を創造する |
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昨日のお芝居『ヘレン・ケラー〜ひびきあうものたち』(松兼功作、浅野佳成演出)を見ていて、右に紹介した旧約聖書の創世記の冒頭を思い出しました。 キリスト教世界で信じられている神ヤハウェは「言葉」によってこの世界を作ったと言うのです。創世記には、言葉によって産み出された光が闇と混沌に秩序をもたらし、命が産み出されていく過程が記されているのです。 一日の始まりが朝ではなく夕べであるところが心に染みます。 |
初めに、神は天地を創造された。 |
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ヘレン・ケラーは闇と混沌の世界の住人でした。アニー・サリバンは言葉(すべてのものには固有の名前があること)を教えることでヘレンの闇を光で照らし、混沌としたヘレンの内面に秩序を与えていきました。それは彼女の第二の誕生でした。そういう意味で、あのお芝居は「人間創造」の物語だったと言えるかもしれません。 |
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「清潔で行儀がよいだけでは意味がないのです。」そして「意味もわからず言われた通りやっているだけでは幸せになれないのです。」しかし「好き勝手させることは愛情ではなく、相手の人間としての尊厳を踏みにじることです」という、サリバン先生が両親に投げ掛ける言葉を聞いて、ズキリと胸の痛んだ教師は僕だけではなかっただろうと思います。 でも、そうした声の言葉(台詞)以上に僕の心に残ったのは、演劇ならではの「体の言葉」です。それは対になる二人の「広げられた両腕」です。 |
渇きを癒す水を汲むPOMP |
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ヘレンの腰をかがめて両手を広げた、あの異様な姿勢に最初戸惑いを感じた人も多かったでしょう。そしてサリバンもヘレンと向き合い同じように両腕をいっぱいに広げていました。それは混沌の世界に住むヘレンが両腕を広げて闇を探って生きている姿であり、サリバンがヘレンを両腕を広げて全身で受け止めようとする姿でした。言葉を無理やり教えられ、先生が操る指人形のように言いなりになっていた時のヘレンは、腕を広げることを止め、行儀は良いけれど小さく縮こまっていました。それは、笑い=生きる意欲や喜びを失った彼女の心を象徴的に表現する、分かりやすい演出でした。
君は両腕を広げて闇を探る勇気がありますか?闇を照らす言葉の光を求めていますか?それは、大人達が迷える君と正面から向き合い、両腕を広げて受けとめようとすることと同じぐらいの覚悟がいることであり、君の成長を信じて見守り続けるほどの忍耐がいることなのだと思います。
そして、それが実現できるよう、一人一人の手助けをし、クラスの課題を解決していくのに必要な時間やアドバイスを、担任に与えて下さること。 |
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つづく | |||||
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■ 残された時間、君がやっておきたいことは何 |
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死が近いことを知った彼は、病気を隠して仕事を休職し、恋人とも別れを告げ、遠く離れて暮す祖母のもとへ行きます。その旅の途中、夫の体の都合で不妊に悩む夫婦から、子どもを作る手伝いをしてほしいと頼まれた彼は、いったん拒否したものの申し出を受け入れ、やがて生まれてくる子供に全財産を贈ることを遺言として残します。死期の迫る間際、彼は拒絶していた姉と和解し、海水浴客で賑わう海辺に向かい、降り注ぐ太陽の下で安らかな最期の時を迎えます。 |
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可能性に満ちた人生を謳歌していた彼は、絶望に打ちひしがれながらも、自分が為すべきことを見つけ、それを果たして行きました。それは、それまで振りほどこうとしてきた家族との絆を結び直し、見ることのない子供に自分の生を託すことでした。カメラマンだった彼が、彼を呼び出す携帯電話をゴミ箱に捨てた後も手放さなかったのは、一台のカメラでした。彼は最後の瞬間まで、自分が心惹かれたものをカメラに写します。それは、自分が命の連鎖の中に生きている存在であることを実感し、死という絶対的な孤独から救われようとする行為のようでした。 君は、いま生きている実感を得ていますか?そして、その時までに自分が為し遂げておきたいことを自覚していますか?それは、成長の途上にある君にも、成熟の過程にある大人にも、とても難しいことです。死が与えられるまでに、自らが果たすべきミッション(使命)を見つけられた人は幸いです。 |
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■ 目指すべき道と乗り越える方法を見つけたい |
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そこで今回は、勉強方法の手引書を紹介。朝日新聞の書評欄にも紹介されていた『夢をかなえる勉強法』(サンマーク出版\1300)です。司法試験合格のためのHow to本なのですが、「塾や学校は、勉強ではなく『勉強法』を教えてもらう場所なのだ」、「自分の人生の目標は何か?それはなぜか?そのために何をしているのか?その答えをさがすために、私たちは勉強をしているのである」といった投げかけとともに、日々の勉強や進路に悩む高校生にも役立つ勉強方法の秘訣が記されています。 | |
著者の伊藤真氏は「1958年生まれ。伊藤塾塾長。革新的な勉強法を導入し、司法試験短期合格者の輩出数全国トップクラスの実績を不動のものとする。深遠でわかりやすい講義、他の追随を許さない高い合格率、そして『合格後を考える』という独自の指導理念が評判を呼び、『カリスマ塾長』としてその名を知られている」(紀伊国屋WEBより抜粋)という人物です。 |
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つづく | |
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■ ひたすら待つ子に救いはあるのか |
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大人となった松子は中学の音楽教師になりますが、教え子に裏切られて辞職。故郷を捨てて貧乏作家と同棲しますが、彼は松子に暴力を振るったあげく「生まれてすみません」という太宰治の『二十世紀旗手』に書かれた有名な言葉を紙に書き付けて、松子の目の前で踏切自殺してしまいます。 |
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明るい未来を夢見て一途に人を信じ、幾度裏切られてもなお愛されることを願って、ひたすら男を待ち続けた松子は、「待つ子」でした。待つ相手を失った時、彼女は生きる意欲を失います。廃屋のようなアパートに引きこもり、ゴミの山に埋もれて醜く肥満した松子が、一つの希望の光を見出し、待つのではなく自らの手で人生を切り開こうとした直後、彼女は意外な最期を迎えます。そして彼女の愛から逃げ去ったかつての教え子は彼女の死を知った時、持っていた『聖書』を河原に落とし、犯した罪への罰と許しを求めて川に飛び込みます。 |
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■ 何があれば、人は生きていけるのか 僕の家の小さな庭には、引っ越してきた時に作った鳥の巣箱があります。それを作った翌年、シジュウカラが卵を産み、雛を育てました。その後、何年も巣箱は空き家になっていたのですが、この前の日曜の午後、シジュウカラが巣箱に餌を運んでいるのに気付きました。耳を澄ますと、微かに雛の鳴く声が聞こえました。 |
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僕は、四、五分おきにかわるがわる餌を運び続けている二羽の親鳥を、日の暮れるまで眺めていました。そして、生き物が生きるということは食べるということ、そして子どもを育てるということなのだと、改めて実感しました。その時思い出したのが「人はパンのみで生きるにあらず」という聖書の言葉です。 「人はパンだけで生きるものでなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(新約聖書、マタイの福音書4)とイエスは言ったそうです。 |
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君だって、食べ物や生活に必要なお金さえあれば生きていけるとは思っていないでしょう。では信仰とは無縁の君の命を支えてくれるもの、君にとって生きるに値する人生を作り出してくれるものとは何でしょう。それは友達ですか?自分の夢ですか? |
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つづく | |
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■ 「自分の輪郭」欲しいですか? 右の文章は講談社新書の『悪の恋愛術』の「第1章 独善力」から抜粋したものです。君がこの本の著者の福田和也の意見に共感するのか反感を抱くのかわかりません。ただ、そういうことを言っている人がいると云うことは、そう云うことも世の中には実際にあるんだろうなと言うことを、知っておいても損はありません。 新しい月の新しい席で学ぶ君が、様々な人と関わり、そこで得られる新たな知識と出会い、君の人格や個性がくっきりと描き出されていったら、それはドキドキするような面白いことでしょう。新たな出会いは自己変革の場です。 衝撃的な出会いは、「これまで意識していなかった自分が育てたいもの」や「ぼんやりとしか分からなかった自分が手に入れたいもの」をはっきりさせます。そしてそれは時に、「これまで自分が守ってきたもの」や、「自分を守ってくれたなじみのもの」を捨て去ることをせまります。 出会いを求めて自分を変えるチャンスにするのか、これまでの自分を守るために人やものとの関わりを制限するのか。それが君の生き方を決めていくのでしょうね。 |
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自らの性同一性障害を本につづったフェンシングの元日本代表 ひと 杉山(すぎやま)文野(ふみの)さん(24) |
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体は女なのに心は男。そんな性同一性障害(GID)との診断を半年通院の末、5月に受けた。「風呂とトイレは男女のどっちに入ればいいのかな」と改めて思った。 物心付いた頃から女の子の扱いに抵抗があった。立ち小便をしてズボンを汚し、好きな女の子にはどきどきした。首都圏の小中高一貫の女子校でセーラー服を着た。女体の着ぐるみの上に、女装する感覚だった。生理が始まり、心と体の不一致が大きくなる。自己嫌悪と周囲にばれないかという恐怖の中で過ごした。 フェンシングが救いにもなった。中学でジュニア女子の日本代表に。04年にはナショナルチームに入った。今は子どもたちを指導する。 性別を聞かれれば、「真ん中」と答える。人との付き合いの幅が広がるうちに、自分は「男+女」だと思えるようになった。性別の前に自分を磨こう。そうなるまでの半生を「ダブルハッピネス」(講談社)につづった。日常の不便や周囲への告白。ガールフレンドとの性行為での満足感と、それでも残るもやもやにも触れた。 GIDに悩む人は全国で数千人という。カミングアウトして当選した議員の存在や、テーマに取り上げたテレビドラマ「金八先生」の影響で認知は進んだが、偏見は依然残る。「僕も少数派だけど、間違っているわけじゃない。受け入れられない人たちや社会に障害はないんですか」 |
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文・写真 ゙喜郁 | |
つづく | |
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■ 生きながら死を育む 死んでなお生き続ける 親鸞さんの誕生パーティーに参加できた人は幸いです。集まった人々に踊や歌や演奏を楽しんでもらえた人は幸いです。そして会の最後を締めくくる高史明さんの短い講演を最後まで眠らずに聞くことができた君は、なお幸いです。なぜなら、誕生パーティーのおめでたい席で、自らの「死」について考えるチャンスを与えられたからです。 |
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高さんの息子の岡真史(おか・まさふみ)君は1975年7月17日、団地から投身自殺をし、12年9ヵ月の人生を閉じました。彼は死の半年前から死の当日まで、一冊の手帳に詩を綴っていました。 |
ひとり |
リンゴ |
ぼくは |
「ひとり」は、彼の手帳の表紙に書かれていた詩。「リンゴ」は、僕の心にじんわりとまった詩。「ぼくはしなない」は、彼が死の直前に書いた最後の詩。絶対に死なないと言い残して飛び降りた彼は、実は彼の言う通り、まだ死んでいないのかもしれません。 父親の高さんが書いた詩集のあとがきには、次のような言葉がありました。 「人間の死は生とは別物ではなく、生そのものの中にあったのでした。死もまた、日々を生きているのです」 |
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■ 自分の死ぬときを知って、初めて自分の人生が始まった ちまたではロン・ハワード監督の『ダ・ヴィンチ・コード』が大流行りのようですが、予告編を見ても心が引き寄せられず、どうやら見ずに終わりそうです。ただ、“マグダラのマリア”のことは以前からずっと気にかけていて、関係する本もいろいろ読んできました。福音書(新約聖書)の中で、聖母マリアとコントラストを描く最も魅力的な登場人物だからです。彼女はどの使徒よりも深くイエスを愛し、彼の言葉を信じ、そこに救いを求めようとしていました。偉そうに人を見下して説教したがる人間よりも、自らの罪深さを自覚して天を見上げる人の姿にこそ、心打たれるものがあります。 |
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そう強く思ったのは、四条烏丸の京都シネマで上映しているジョン・メイブリー監督の作品『ジャケット』のラストシーンを観てです。 『戦場のピアニスト』で知られるエイドリアン・ブロディが演ずる青年ジャックは、湾岸戦争で頭部を負傷し記憶障害となります。帰国後、殺人事件に巻き込まれて精神病院に送られた彼は、深夜密かに異様な治療を受けます。それは薬を打たれ、拘束衣(=ジャケット)にくるまれ、死体安置用の狭い引き出しに閉じ込められるというものでした。 |
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彼はその引き出しの中で未来にトリップし、自分の死が4日後に迫っていることを知ります。記憶障害によって自分が何者なのかが分からなくなっていたジャックは、自分の過去と未来を繋いでくれる少女ジャッキーと出会い、絶望感の中で自堕落に生きていた彼女の運命を変えることに、自分に残された生の意味を見つけます。 不思議ですね。「死にたい」と呟く人に「死ぬな」と怒鳴る人も、いずれは共に死にます。「死にたくない」と泣き叫ぶ人を「大丈夫だよ」と静かになだめる人も、やがて共に死にます。死は誰にでも確実にやって来るのに、それが何時なのかだけはわからない。君はその時を知ったら、今日一日をどう過ごしますか。それを知らないままの君は、明日一日をどう過ごすのでしょう。君は自分の生きる意味を見つけていますか? 「何をするでもなく何かの役に立つでもなく、ただ、今ここに居てくれるだけでいい」と君に言ってくれる人がいたら、その人が君にとっての生きる意味そのものになるのかもしれませんね。 |
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つづく | |
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■ 母になる日はいつの日か 母の日の新聞に、巣に卵を産んだ小鳥が「母になるのは卵を生んだ時かしら、それとも卵から雛がかえった時かしら?」と悩んでいる四コマ漫画が載っていました。君は、母が母になるのは何時だと思いますか?妊娠に気付いた時?出産した時?それとも「お母さん」って子どもが呼んでくれた時? |
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君は、お母さんから「あんたがそうしていられるのは誰のお蔭やと思ってんの!産んで育てたお母さんに、もっと感謝したらどないや!」と言われて、「私が産まれて来たからお母さんになれたんやろ、お母さんにしてあげた私に、もっと感謝したらどう?」と言い返した事はありませんか? |
金魚 作詞 北原白秋 作曲 成田為三 母さん、母さん、どこへ行た。 紅い金魚と遊びませう。 母さん、歸らぬ、さびしいな。 金魚を一匹突き殺す。 まだまだ、歸らぬ、くやしいな。 金魚をニ匹締め殺す。 なぜなぜ、歸らぬ、ひもじいな。 金魚を三匹捻(ね)ぢ殺す。 涙がこぼれる、日は暮れる。 紅い金魚も死ぬ死ぬ。 母さん怖いよ、眼が光る。 ピカピカ、金魚の眼が光る。 大正10(1921)年2月18日 『「赤い鳥」童謡 第四集』 |
でも、子どものためにと親があれこれ気をまわして何かをするより、口を出さずに暖かく見守ってほしい。頑張れなかった自己嫌悪に落ち込んでいる上に、世間からは冷たく責められ、信じていた仲間にも見捨てられた時こそ、親には黙ってそばに居てほしい。してくれることよりも居てくれること。そんな存在を求めるのは、子どもに限ったことではないでしょう。 |
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■ 人を愛せる人になるには 先週末、映画『海猿』を観に行った人もいるようですが、僕はリュック・ベッソン監督のフランス映画『アンジェラ』と、堤幸彦監督の『明日の記憶』(原作は荻原浩の同名小説)をみました。 『アンジェラ』は、周囲から馬鹿にされてばかりの冴えない小男が、身長180cmの金髪美人との出会いによって、自信を取り戻し、目先のことに流されず、誇りを持って生きて行けるようになる話。 |
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「あなたは愛された事がないから、自分を愛する事ができない。自分を愛する事ができないから、人を愛する事もできない」といったアンジェラ(=エンジェル)の台詞が印象的でした。 |
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一方、50歳で若年性アルツハイマー病を発病する男(渡辺謙)とその妻(樋口可南子)の物語『明日の記憶』は、エンドロールの最後になっても泣くに泣けないほど、辛く重たい映画でした。確実に自分の記憶=自分の人格を失ってしまう夫の恐怖と、自分の記憶を失われてしまう妻の切なさが息苦しいほどにせまってきました。 |
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誕生は死へのスタートならば、死は新たな生命に居場所を譲る営みなのかもしれません。『明日の記憶』で、父親が娘の「できちゃった婚」について語る場面がありました。出会いは別れの始まりだと知っていながら永遠のパートナーを求め、いずれ失われる命と知りながら子を宿し産み育てようとする不思議について自らに問うのも、進路を考える大事な要素です。 |
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つづく | |
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■ 過去はない 未来もない |
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でも、そんな元気が湧いてこないときは、無理せず焦らず腐らずに、時の流れにこの身をゆったり浮かべて、流れにまかせてみるのも一つです。 右の詩は5月4日に亡くなった猫好きで知られた吉行理恵の古い詩です。彼女の詩集を探す途中で、吉野弘の詩集が目に付いて、開いたページの次の詩が心に留まりました。 君は誰かを愛していますか? 君は誰かに愛されていますか? 君は自分を愛せていますか? |
現代詩文庫65 吉行理恵詩集(思潮社)より |
奈々子に |
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つづく | |
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■ 世間とは 君じゃないか 今日は連休はざまの土曜日。世間には9連休の最終コーナーという人もいる一方、連休こそが稼ぎ時と大忙しで商売に励む人もいれば、連休に関わりなく残業や出張に明け暮れている人もいる訳で、人々の暮らしは様々。 もし君の将来(例えば27歳〜37歳〜47歳〜87歳)を考えたとき、このゴールデンウィークをどんな風に過ごす生活を求めるのでしょう。「世間並の暮らし」などという言い方がありますが、世間などしょせんは個人の集まり。自分がどこでどう誰とどんな風に暮らすことに満足するのか、満足とまでは行かなくても何とか納得できるのかということしかないでしょう。 |
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5月11日のHR読書会では太宰治の『人間失格』を囲むことになっていますが、君は完読したでしょうか。この小説のキーワードは「道化」と「罪」。太宰治が愛人と心中した死の間際に書かれた、彼の精神的自伝小説とも言うべき作品。「世間」から葬られて行く若者の姿が描かれています。 新潮文庫P90には次のような一節がありました。 |
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今まで、君も「そんなことしていて世間が許すと思うの?」とか「世間はそんなに甘くない!」などと親や教師から言われたことがあるでしょう。その時君は、言い返せたでしょうか?「あなたの言う世間って何?世間じゃなくてあなたが、私のやっている事が気に入らないだけで、世間じゃなくて、あなたがそれを許したくないだけでしょ?世間なんて曖昧な言葉で、自分の責任を誤魔化さないで!」って。僕はそれを言いたかったけどやめました。傷つけ合うだけになると思ったからです。 僕が高校生のころ、父親から「もっと人のことを考えて行動しろ!」としかられた事があります。そして「もっと人の気持ちを考えろ!」と怒鳴られた事があります。その時、僕はその言葉に素直にうなずけませんでした。なぜなら、父親の言う「人」とは、世間の一般市民の事でもなく、一緒に暮らすほかの家族の事でもなく、ただ単に、「父親自身」の事だということが見え透いていたからです。父が、「もっと俺の気にいるように行動しろ!」「もっと俺の事を大切にしろ!」と言えば、それを聞いた僕の気持ちも少し違って、父に対する付き合い方も変わったと思います。でも、それはないものねだりでした。自分の思いを世間と言う言葉に重ねてでしかものを言えない人間にだけはなるまいと心に誓いました。 君が「世間並」を求めるのではなく、「自分の願い」を実現しようとするならば、それに必要な力や資質は何でしょうか。知識?学歴?資格?体力?美貌?信仰?さて何でしょう。 そうしたどれもこれもが人並み以下でも、私は人生の荒波を笑顔一つで乗り切ってみせるという人もいるかもしれません。それを望む君ならば、何があってもへこたれない根性や、何かあってもすぐに気分を切りかえられる楽天性を鍛える修業が君の課題なのでしょう。この連休中、君はそれに取り組むことができたでしょうか?もし、それが不充分だと思うなら、明日の一日を、自分の課題に当ててみてはどうでしょう。 ■ 罪の対義語(アントニム)と同義語(シノニム) 君は今、そしてこれから一人の人間として何と向き合い、それとどう付き合おうとしているのでしょうか。『人間失格』のクライマックスに近い場面(P114)での罪についての独白に対して、君はどんな答えを導き出すか、僕には興味があります。それをぜひ、読書会の時に君の口から聞きたいものです。 |
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つづく | |
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■ 薫る風を教室に |
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ソワソワ心や体が落ちつかない人、誰かに追いたてられているようでいらつきがちな人、何かに追いつめられているようで息苦しい人。そんな風にゆとりを失っていると、大切なものを失っても気付かず、素敵な出会いのチャンスも向うから逃げて行ってしまいます。 |
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■ 遠足、花祭、読書会……文系の味わいと誇りを |
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つづく | |
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■ 流れのままに この身を任せ |
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印象に残った台詞は「おれはからっぽじゃない。だって、痛てぇもん、ズキズキズキズキ痛てぇもん」。 ただ結局最後まで“チェケラッチョ”が何なのか分からなかった(ホンの数秒その説明の台詞があったのですが……)ので、売店で原作を買って帰って読みました。ところが何と原作の小説にはチェケラッチョという言葉すら出てこなかったのです。それでインターネットであれこれ調べると「Check it out,Yo!」のことなのだそうですが、その英語の意味がまたわからない。それで、Y先生に聞いてみると「見てろ!」とか「必見!」とか言うような、ラップやHPで使われる幅の広い意味の言葉だとのこと。勉強になりました。 |
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でも、もう一つ勉強になった=興味を持っていろいろ考えたことがあります。それは『チェケラッチョ』の原作の作家が秦建日子(ハタ・タケヒコ1968年生まれ、早稲田大学法学部卒)で、映画の監督は宮本理江子(山田太一の娘で『101回目のプロポーズ』(1991)や『優しい時間』(2005)の演出を手がけた売れっ子演出家)だということ。 男性作家が書いた小説では主人公が少女なのに対して、女性監督が撮った映画では主人公が少年になっているねじれが面白かった。 |
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また、先週二度目を観に行った『かもめ食堂』の原作は群ようこ(1954年東京都生まれ。日本大学芸術学部卒)で、脚本・映画監督は荻上直子(1972年生まれ、千葉大学工学部画像工学科卒)で、女性ペアの作品。登場人物も日本とフィンランドの年の異なる女性達です。 そうそう、確か上映中のミュージカル映画『プロデューサーズ』の字幕訳者は戸田奈津子(津田塾大学英文科卒)でした。 映画やドラマや芝居を観て、その登場人物の生き方に刺激や影響を受けるというのは昔からよくあることでした。でも、女性が様々な分野に進出し、多くの成果を挙げ始めている現代では、描かれた女性像だけでなく、それを描いたり、多くの人間を動かして制作したり、ある分野で特別な役割を担っっている女性の姿に目を留めて、自分の生き方を考えるきっかけにしてみるのもいいかも。 |
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そのためには、「何事も勉強」と大手を振るって、いろんなところに足を運び、未知のものと出会いに行ってはどうでしょう。 |
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つづく | |
目次にもどる |
■ いられないつらさ いない席を見るつらさ 見知らぬ人と新たな接点を見つけていくのは、とても刺激的でワクワクします。新鮮な発見が得られてウキウキします。でも、その分かなりのエネルギーが必要で、ヘロヘロになります。教師歴25年のオッサンでも、はじめて出会った5クラス196人との間に新たなコミュニケーションの回路を作ることに苦労します。ましてや敏感なお年頃の君であれば、きっとシンドイことも多いんだろうね。 |
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日直さんが付けてくれている『学級日誌』を見ると、「今日も一日たのしかった!」という書き込みがある一方、「2年生の勉強はキツイ∂」「最近毎日 小テスト……」といった嘆きが綴られています。4月10日に高2の授業が始まってから昨日までの10日間、環境が変わって思うように調子が整わない人もいました。右の表のように、始業式以外、朝礼で41人の顔がそろった日が一日としてありませんでした。つらいなぁ。 いつか君に言ったかもしれませんが、僕は遅刻や欠席が『罪』だとは思いません。ただ、来られなかった人にとっても来られた人にとっても、いないという現実がつらいことだと思うのです。 |
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君はやってもやらなくてもいいはずの勉強をしたくて高校に進学してきました。君は「高卒の資格」さえ手に入ればそれでいいと言うわけではないでしょう。同世代の人とクラブやクラスや共通する趣味を通して、豊かな関わりを持つことを期待しているでしょう。そして、それを今年もこの学校で続けたいからこそ、君は今この教室にいるのでしょう。学校に来て新たな発見をし、トキメク時間を過ごすことが君の願いのはずです。 なのに、朝から夕方まで一日フルに学校生活を楽しめないのはつらい。やりたいことが思うようにできない状況や、思うように自分をコントロールできない自分の身体や心が、もどかしくてつらい。 同時に、ちゃんと朝から来られた人にとっては、その日そこにいるべき人がいなくて、自分と彼女とのあるべき接点がないことが、淋しくてつらい。 |
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ちゃんと来られない人には、来ている人には想像しずらい辛さがある。ちゃんと来ている人には、来られない人が思ってもみないつらさがある。一緒の教室で過ごしながら、そうしたつらさの擦れ違いに気付いてしまうと、またそれがつらくなる。 ただ、そうした辛さを意識しつつも、健気(けなげ)に明るく過ごしてくれている人の笑顔を見ると、救われます。 つらさを克服するには、それに耐えられる力を身に付けるための厳しさも必要ですが、それは単に「鈍感」な人間を作り出すだけに終わることもあります。豊かな感受性を失わず、それでいてしなやかな強さを身に付けるのに必要なものは何か。それが分かれば、そこに「いない人」も「いる人」も、新たな一歩を踏み出せるかも。 ■ 時間よ止まれ 現代文の授業で池内了の『生物時間を生きる』をやっていますが、「物理時間」についてのやりとりで、「時間が止まって欲しいと思うときはどんな時」という問いに対して「試験勉強ができていないときの試験前日」といった答えがあったのを覚えていますか? とても高校生らしい、可愛い答えだと思いましたが、僕がその時思い浮かべたのは、右に紹介した矢沢永吉の『時間よ止まれ』(資生堂のCMソングにも使われてました)。 そして、下に紹介した三木露風の詩『接吻(せっぷん)の後』でした。 虚しい溜め息に暮れる人生ではなく、熱い溜め息を交わせる人生を送りたいと思いませんか? |
作詞:山川啓介 作曲:矢沢永吉 罪なやつさ Ah PACIFIC 汗をかいたグラスの 罪なやつさ Ah PACIFIC Mm―STOP THE WORLD 矢沢永吉 1949年9月14日、広島生まれ。 1972年、ロックバンド 「キャロル」でデビュー。 |
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「眠りたまふや。」 |
※
裏に球技大会のメンバー表を転載しました。 |
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つづく | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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■ クラス名簿が教えてくれること 今日配布した「2年1組クラス名簿」からは、41人のキャラの一端がうかがえて面白い。書かれた言葉だけでなく、字体や字の大きさ、添えられたイラストやマーク、そして書かれていない空白からもその人柄が偲ばれます。 「コミュニケーション」とか「表現」とかいうと、ことばが伝える意味ばかりに目が行きがちです。しかし実際には、多くの人は言葉の意味以上に、相手の表情や声の調子、文字の乱れや筆圧から、その人の気分感情こだわりなどを読み取ります。そして、豊かな想像力を働かせれば、無表情な顔や紙の空白に、相手が忘れてしまっていること、相手が気に懸けていないこと、相手が避けようとしていること、相手が隠そうとしていることまでをも推測できるかもしれません。 そこで大切なのは、自分が書いたものを他人になったつもりでじっくり眺めて読んでみること。自分が書いた名簿の文章やイラストが何を語り、空白が何を示しているのか? ひょっとしたらこのクラス名簿で一番新鮮な発見は、自分自身のページにあるかもしれません。 |
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そうしたことに興味がわいた人は竹内一郎著『人は見た目が9割』(新潮新書)を読んでみて下さい。顔つき、仕草、目つき、匂い、色、温度、距離等々、君を取り巻く言葉以外の膨大な情報が持つ意味を考え、心理学・社会学からマンガ・演劇まで、あらゆるジャンルの知識を駆使した「非言語コミュニケーション」入門書です。 今の自分を知ろうとせずに、どれだけ模擬試験を受けてみたところで「進路」や「将来」なんて見えてくるはずがありません。まずは自分を見つめる眼を育てましょう。 |
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■ 君も祈られ、願われる未完のひと |
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『未完の女(ひと)』と題されたその像は、ある日事故で命を落とし、卒業の日を迎えることなくこの世を去った一人の生徒の父母が、娘の死を悼み、ここで学ぶすべての少女たちの健やかな成長を願って学校に贈られたものです。 その前に立った君に、彼女は去り行く過去を手繰り寄せ、見えぬ不思議を目にすることのせつなさを語り始めるかもしれません。 半分ほど集まった「保護者アンケート」(明後日14日金曜日〆切)にも、娘に対する親のせつない願いが綴られていました。 例えば…… |
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こうした思いに通じる詩を一つ紹介します。今年国語科の新任として来られたM先生(彼女が京女の中学生の時、僕が国語を担当しました)が、彼女のクラスの学級通信で紹介されていた詩です。 | 名前は祈り 毛里 武 名前はその人のためだけに 用意された美しい祈り 若き日の父母が 子に込めた願い 幼きころ 毎日、毎日 数え切れないほどの 美しい祈りを授かった 祈りは身体の一部に変わり その人となった だから心をこめてよびかけたい 美しい祈りを 『親から子へ伝えたい17の詩(うた)』 双葉社より |
つづく | |
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■ 人を育てる環境を 君の新生活はどんな具合でしょうか?心地良い緊張感を味わっていますか?休み時間に教室でくつろげて、何とか楽しくやっていけそうだと思っている人は幸いです。そうそう、緊張感で思い出しましたが、始業式で生活指導の先生が「緊張感が欠けているんじゃないか?」「遅刻してばかりいるようではではろくな学校生活は送れない!」というような話をされたでしょ。あれは君にというより、僕も含めた教師に向けて発せられた戒めだと思いました。 開式にあたって、いつも通り発せられた「開扉」の言葉の後、いつものようにはオルガンが鳴らず、遅刻してきた音楽の先生を待つまでの教師の気まずい沈黙と、鳴り出したオルガンと共に何事もなかったかのように流れた君の澄んだ歌声。閉式にあたって、いつも通りと違った「これで終業式を終わります」の言葉を聞いた君が飲み込んだ息の音と、それに反応して言い直された「これで始業式を終わります」の動揺した声の響き。生徒の君より教師の僕たちのほうがよっぽどチグハグでした。君は校長先生の願いにもかなう「その場でどんな行動を取るべきかわかっている」心根の優しい娘です。 誰かのカッコ悪さや間の悪さをクスリと笑って許し合える世の中は居心地が良いし、元気も出るもんです。緊張しすぎてビビったり、疎ましくなって逃げ出す人が続出する世の中より、欠点も個性の内っていうぐらいにゆったり受け止めてくれる世の中の方が、人は成長しやすし、未経験のことにチャレンジしやすいもんだというのが、僕の経験則です。頑張れと言われて頑張れる人もいれば、そうした言葉によって追いつめられたりできない自分にへこたれたりする人もいます。だから、たいした薬にならない代り毒にもならず、ちょっぴりまわりに気遣いながらボチボチ暮らして行くのも一つかも。 自分が生きて行く社会や時代の中で自分の持ち味を守り、それを活かす方法を探ること。それが「進路」を考えるってことです。 ■ 常識を突き抜けたところにある真実 今日は入学式。君も形式的にはこの小さな学校の中で『先輩』と呼ばれる立場になったわけ。先輩・後輩と言うのは、在校生同士で呼び合う言葉ではなく、卒業してそこから旅だった人を先輩、その後に続くものを後輩と言うのが本来の使い方だと聞いたことがあります。そう言う君の先輩にあたる人の生きている姿に触れるというのは、結構意味のあることかも。 そこで映画を一つ紹介。京都の四条烏丸のココンカラスマという唐草模様のビルの3階にある京都シネマ上映中の邦画、マキノ雅彦(津川雅彦)監督の『寝ずの番』です。初めから終わりまで「下ネタ」で突っ走るR15指定のコメディですが、長門裕之演ずる落語家の奥さん役を君の先輩である富司純子が演じています。 1945年12月1日生まれ彼女は、京都女子高等学校在学中、父の勤務先である東映京都撮影所に見学に行ったところをマキノ雅弘にスカウトされ藤純子の芸名でデビュー。ヤクザ映画の主演で人気を集め、東映が生んだ「客の呼べる唯一の大女優」といわれたそうです。NHKの大河ドラマ「源義経」で共演した歌舞伎俳優の尾上菊五郎と結婚して引退。長女(寺島しのぶ)、長男(尾上菊之助)を育てながら寺島純子の本名でフジテレビのワイドショーの司会者をつとめ、44歳で富司純子として女優に復帰。60歳を過ぎたこの映画でも、色っぽくてチャーミングな演技で楽しませてくれました。 彼女が三味線弾きつつ口ずさんだ「俺は御前のトタン屋根 思う気持ちはカワラない」という、粋で洒落た小唄が印象に残りました。「常識の殻を破った非常識」の中にこそ溢れる、艶やかな情感を楽しんでください。 |
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喜劇は今の気分じゃないという人には、同じ京都シネマで上映中の『ベロニカは死ぬことにした』(堀江慶監督、真木よう子主演、R15指定)がおすすめ。デフォルメされた精神病院の描写に違和感を持つかもしれませんが、「何でもあるけど何にもないの。退屈でつまらない人生だから死ぬことにしたの」という主人公の変化と結末が面白い。 |
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正常とは何か?本当におかしいのは何なのか?常識に目を曇らされず、この世や自分を冷静にチェックする客観的な目を鍛え、常識にとらわれずと柔軟な発想を育てていきたい人にお薦めです。 | |
■ 担える自分を誇らしく |
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つづく | |
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■ 「はじめまして」から始まる初め はじめまして、君たちの新しいクラスに混ぜてもらうことになった担任の成田です。この学級通信「手紙」では、バタバタした教室では伝えきれない事や、一緒に考えたいことなどを折々に取り上げて行きます。まだ見ぬ保護者の皆様も、直接お会いできる機会は少ないと思いますので、この紙面を通じて御付き合いください。 先日『詩歌(しいか)の待ち伏せ』(北村薫著、文春文庫)という本に出会いました。そこで取り上げられていた二つの詩を、新たなスタートの記念に紹介します。 |
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僕は、君が僕の事を知らないように、君のことを知りません。今、君の隣りに坐っている人が中学1年生の時から一緒のクラスの人だったとしても、彼女が君のこと(例えば、この一年間、君が何にときめき、何に絶望し、何に救いを求め、何を学んだのか)をほとんど知らないように、君は彼女の事をほとんど知らないでしょう。しかも、この世のすべてのものは変化し続けます。今日の君は昨日の君でないように、明日の彼女は今日の彼女と違っているはず。それは親子や夫婦の間でも同じこと。 だからこそ相手に関わりなく、今日の「はじめまして」はドラマチックで、明日の「おはよう」も新鮮なはず。 |
君がこの世で過ごすわずかな時間、他の誰かよりも早く遠くへ行き着きより多くの物を得たいなら、余計な事を考えず、誰かに与えられた問題の決められた答えを決まった手順で探すことに精を出すのが一番です。 しかし、君にとって必要なものを手に入れ、生きている実感を得たいのなら、君が求めるものを知り、それを手に入れるための方法を学び、それを手助けしてくれる仲間を作らなければなりません。仲間なんていらないって思うのが傲慢であることを知っている君なら、謙虚に学ぶことの大切さも知っているはず。 |
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■ 一人一人別々だから共感することの歓びがある 4月6日の朝日新聞Web News に「エッセイストの絵門ゆう子さん死去 がんを患い活動」という訃報がありました。NHKのアナウンサーを経て女優活動もしていた絵門さんは2000年に転移性乳がんにかかった後、二冊の闘病記を出版し、2003年11月からは、全身にがんが転移した日常を朝日新聞東京版に『絵門ゆう子のがんとゆっくり日記』として連載していました。3月30日の第92回目の結びの言葉は「次回も続きます」。しかしその4日後、呼吸困難で死去。49歳でした。2006年02月23日の日記の一部を以下抜粋します。 |
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中学高校時代、私は跡見学園という女子校でバスケット部に所属した。初めの3年間はベンチウォーマーだった。1年生の新入部員までが、ほぼ全員出してもらえた試合でもベンチで終わった日の悔しかったこと。しかし、そこから負けじ魂に火がついた。早朝始業時前のコートで朝練習に励み、お弁当は早弁して昼休みもほとんど練習、授業の合間の10分間の休憩は近場の階段でトレーニング。自分が選手として活躍する姿をイメージして日々邁進した。結果、成績はガタ落ち。教員室に呼びだされたが、高校ではレギュラーメンバーになれ、2年生の時は国体の候補選手として名前があがった。大学受験のため国体出場はしなかったが、バスケットを通しての苦闘の歴史はけっこう今の私を支えている。4年も5年もかかろうが、あきらめなければなんとかなるという体験を植えつけてくれた。(中略) しかし今、階段を上がるのもつらい体という弱者になって、考えさせられることは多い。(中略)弱者の事情は、一日でも不自由な体で過ごしてみないとわかってもらえないのだろうと思った。弱者は少数派だ。営利を優先すれば決して弱者は守られない。身体障害者用の設備を排除することを当たり前に考えていた東横インの社長。弱い立場に立ったことのない人は、多かれ少なかれああいう考え方を根っこでしてしまうのかもしれない。(中略) 再び高校バスケット部でのこと。練習がきつく息が切れる時は、手を両膝(ひざ)にあてて体を丸め、下を向くと楽になる。でも私は、それは我慢すべきだと思い、体を伸ばし続ける努力をしていた。そしてよく膝に手を置くチームメートに「そうすると楽だけど、我慢してがんばらないといけないと思うよ」と言ったことがある。あの時の彼女の悲しそうな顔をよく思い出す。彼女のつらさが自分と同じ程度だと思ったあの頃の私が恥ずかしい。 弱い者にしか分からないこと http://mytown.asahi.com/tokyo/news.php?k_id=13000130602230002 |
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