歴史(行政区画の変遷)


立石地区を含む旧小田町は、古くから小田郷と呼ばれ親しまれてきました。さらに古くは、現在の砥部町(旧広田村)や大洲市河辺村の一部とともに、総称して浮穴郡広奴田郷太田山(あるいは小田山)と呼ばれていました。戦国時代に入り、小田郷は久万山地区、荏原郷とともに久万大除城主大野家の領分となり、上浮穴郡としての交流がここで生まれています。しかし、道後湯築城主河野氏の滅亡により、元和3年(1617年)加藤貞泰の大洲領(久万郷は松山領)となり、この体制が明治まで及びました。藩政時代、小田郷は5,000石といわれ、うち「立石村(現在の立石地区)」は大洲新谷分として496石であったと、元禄13年の元禄村高帳に記されています。

明治2年の「版籍奉還」により、地方行政区画は府・県が置かれることとなり、立石村は藩の名称をそのまま継承した「新谷県」の属するところとなりました。その2年後の「廃藩置県」により、伊予8県は「松山県」と「宇和島県」とに統合され、さらに明治5年には松山県が「石鉄県」、宇和島県が「神山県」と改称、翌明治6年に2県が統合され、「愛媛県」となっています。この間、末端自治組織は次々と再編をされていきましたが、明治11年に「郡区町村編成法」が施行されたことにより、小田郷の各村は久万郷とともに上浮穴郡を構成することになりました。この当時に編成された小田郷の各村(13村)が、現在の大字として今に受け継がれています。また、村には数か村ごとに「戸長役場」が置かれ、立石村もその一つでした。

明治22年の市町村制の施行により、郡内44か村は15か村に統合され、立石村は南山村と統合し「石山村」となりました。(上川・中川・本川は「参川村」に、大平・日野川・町村・寺村は「小田町村」に、吉野川・中田渡・上田渡・臼杵は「田渡村」に統合)この体制は、昭和18年に、石山村と小田町村が合併するまで50年余り続くことになります。

昭和30年3月、参川村、小田町村、田渡村の3村が合併し小田町となり、 そして平成17年1月1日、喜多郡内子町、同郡五十崎町、上浮穴郡小田町が合併し、新「内子町」が誕生しました。

 

明治11年当時 明治22年
(町村制施行)
昭和18年 昭和の大合併
(S30.3)
平成の大合併
(H117.1)
上川村 参川村 小 田 町

内子町

喜多郡内子町、 五十崎町、 上浮穴郡小田町が合併し、新「内子町」となる

中川村
本川村
大平村 小田町村
日野川村
町村
寺村
南山村 石山村 小田町村と合併
立石村
吉野川村 田渡村
中田渡村
上田渡村
臼杵村

教育


立石地区の学校教育の歴史を紐解けば、藩政時代へと遡ります。庶民教育のための寺子屋教育は、天保年間(1830~1843年)に入ってやっと小さな村まで普及し、当時、新谷藩に属していた立石地区には「立石塾」がつくられ、20名前後の子どもたちが教育を受けていたようです。 立石塾は、明治8年に立石・南山両部落により啓蒙(啓童)小学校として創立。以後、明治20年に立石簡易小学校、明治25年に立石尋常小学校、明治42年に石山尋常小学校、大正10年に石山尋常高等小学校、昭和16年に石山国民学校、昭和22年に石山小学校、昭和30年に立石小学校となり、昭和50年3月をもって閉校、小田小学校と統合し100年の歴史に幕を降ろしました。地域から子どもの声が消えることは、当時の立石地区の人々にとって大きな悲しみであり、その思いは開校100年記念誌「百年のあゆみ」に綴られています。

立石小学校校舎は、その後公民館立石分館として、立石地域の社会教育・生涯学習の拠点として受け継がれ、様々な公民館事業が活発に展開されてきました。その位置づけは今もかわることなく、立石地区の人々の憩いと交流の場であります。平成16年4月の自治会制度導入に伴い、立石自治会館へと名称を変更しました。

 

昭和25年当時の石山小学校


昭和49年当時の立石小学校

産業


立石地区の主幹産業は農林業で、昔から養蚕をはじめ、葉たばこ、しいたけ、栗等の栽培が盛んに行われてきました。水田は、立石川とその支流に沿って広く耕作され、今でも美しい田園風景を形成しています。

養蚕は、明治の初期から中期にかけて生糸生産が外貨獲得に重要な位置を占めるようになり、養蚕の奨励が国の重要施策となってきました。大正時代になると、愛媛県にも養蚕試験場が設置され、この頃から繭の価格もよくなり、「更生徳利」の由来などをみても、立石地区でも盛んに行われるようになったと思われます。大正15年の養蚕戸数は当時の小田町で568戸、石山村(当時の立石・南山地区)では107戸という記録が残っています。昭和5年頃をピークに、後年は次第に減少し、今では立石地区において養蚕農家はありません。

旧小田町で葉たばこ栽培が始まったのは戦後で、当時の小田町村長であった故・篠崎長之進(立石)らが中心となり、松山専売公社へ打診を始めたのがきっかけでした。以後、葉たばこ耕作農家は急激に増加し、昭和39年に第1次農業構造改革事業の指定を受けたときに、町は迷わず主幹作目に「葉たばこ」を選択。このことが、葉たばこ生産に一層の拍車をかけることとなり、町生産物第一位の所得をあげるまでになりました。立石地区でも、尾首地区を中心に葉たばこ団地が形成され、ピーク時には多くの農家が栽培を行っていましたが、昭和50年代後半になると、生産者の老齢化と後継者不足により次第にその数が減少し、さらに現在は、世界的な禁煙傾向によって需要が低迷し、いまでは5戸の農家が栽培を行っているだけとなっています。

農林業センサスのデータによると、平成12年度において立石地区の農家数は86戸、農家人口は310人となっています。いずれにしても、農業は昔も今も立石地区の主要産業であり、今後の農林業振興施策が、立石地区を活気づける大きな要因であることは間違いありません。若者が従事できる魅力ある産業へと結びつけることが大きな課題です。