いつでも
  どこでも
    誰とでも
そして いつまでも
  それが 
スポチャン

教育関係者のみなさん
 学校でスポチャンを始めてみませんか
               国際スポーツチャンバラ協会
               全国中学校・高等学校普及委員会
                        委員長 細川 健一
              現
東京都葛飾区立立石中学校教諭

スポチャン仲間を一人でも多く増やしたいと考えております。
特に学校関係者のみなさま・先生方是非ともよろしくお願いします。

こんな学校・先生方・生徒さんにお勧め

スポチャンのキャッチフレーズは
「いつでも どこでも 誰とでも そして いつまでも それが スポチャン」
それはこんなことからきているのです

1.他校に自慢するものを持ちたいと思っている学校

2.練習場所が限られている学校

3.生徒に自信を持って指導できるものを持ちたいと思っている先生

4.海外との交流を持ちたいと考えている学校

学校での稽古風景 新宿区立戸山中学校

 

学校普及委員会委員長 細川 健一
私とスポーツチャンバラの出会いは、大学生の時でした。小学校から剣道を習ってはいましたが、インターハイ・関東大会からは全く縁のない剣道生活でした。大学では、剣道部に入ったところで、剣道で将来を考えているような強豪ばかりでは、レギュラーなど夢のまた夢だと思い、居合道部に入部しました。その監督が、現国際スポーツチャンバラ協会会長の田辺哲人先生にお世話になっていたことから、ある日の稽古に監督がスポチャンの道具を持ってきたのが始まりでした。しかし、当時は居合道のことばかり考えていたため1回だけ大会に出場しただけでした。(昭和60年第7回全日本小太刀護身道大会大学生の部準優勝)

昭和62年に東京都内中学校の教員として採用され大田区立馬込東中学校に赴任しました。
やる気満々の新任先生として1年生の担任をしました。部活動はやはり剣道部(ちょうど顧問がいなかった)を受け持つことができました。宣伝の甲斐もあり30数名の部員を集めることができました。稽古は、月・火・木・金・土とありましたが、球技全盛の時代で体育館は月曜日のみの使用でした。他の曜日は、外を走り、屋上で素振りの毎日でした。
そんな暴れ盛りの子供たちの発散法として思い出したのが「スポチャン」でした。

 早速用具を取り寄せ、屋上での稽古開始となりました。雨の日は、特別活動室の机を廊下に出して、教室一つを道場として稽古しました。当時は、まだスポチャンではなく「小太刀護身道」と呼ばれ、用具も小太刀しかありませんでした。したがって私自身も、生徒と一緒に稽古を始めたようなものでした。

 初めて出場した昭和62年7月の全国大会では、私を含めて20数名が参加したものの、3本勝負でも、個人戦は全員が1本も取れずに敗退し、団体戦で一人がようやく勝っただけという散々な内容であったことを覚えています。その年の暮れの大会では、私がベスト8の敢闘賞に入り、初めての賞状を獲得、翌年の3月の都大会で中学生の部で初めての金メダルを獲得、その後は大会では、一目をおかれる存在へと成長するようになりました。
 その中でも、1992年の世界大会では、中学3年生がグランドチャンピオンに輝くという快挙を達成し、まさに誰にでもチャンスがあるということを実践した結果となりました。
続く