- 1 -
その日は明け方から雪が深々と降っていた。
この地方では雪がまとまって降ることは珍しく、子供達が外ではしゃいでいる一方で、大人達は雪掻きに精を出していた。
雪が降ってること以外は普段と全く変わらない日にその事件は起こった。
青年とホーリーナイトが初めて出遭った日からもうすぐ1年が経とうとしていた日だった。
ホーリーナイトは魚が焼ける香ばしい匂いに気付き、目覚めた。
「おっ? キョウのアサメシはサカナか! アイツめ、フンパツしやがって」
ホーリーナイトは台所へと向かった。
台所では青年が今まさにホーリーナイトの餌を盛り付けているところだった。
餌は、ご飯に秋刀魚の切れ端を乗せただけの質素な、それでもホーリーナイトにとっては豪勢な餌だった。
「うはぁ! アサからこんなゴチソウがタべられるなんて・・・キョウはナンていいヒなんだ!」
「さ、召し上がれ・・・」
「いっただきまーす!」
嬉しそうに餌を食べるホーリーナイトとは裏腹に、青年はそれをぼんやりと眺めているだけだった。
餌を食べ終わると、ホーリーナイトはそんな青年の視線に気付き、不思議に思った。
「・・・ん? ナニをミてるんだよ? おマエはメシタべないのか?」
「・・・僕はお腹空いてないからいいや。 それより、今日の朝食、美味しかったかい?」
ホーリーナイトは人間の言葉を喋られる筈は無い。
なのに青年は、ホーリーナイトの思ってることが解っていた。
「そりゃウマかったぜ! もうオレ、おナカイッパイだよ」
「・・・そうか。 それは良かった・・・」
青年の声は明らかに元気が無かった。
しかし、満腹でご機嫌なホーリーナイトは朝食の余韻に浸っており、青年の様子に気付かなかった。
「・・・じゃあ、もう僕は出掛ける時間だから、行くね・・・」
「おう! ガンバってエをウってコいよ! キョウもイッパイウれるといいな!」
「・・・うん・・・ありがとう・・・。 じゃあ、行って来ます・・・。」
青年がそう言って席を立ち、二、三歩歩いた時、青年は膝から崩れるようにして倒れ込んだ。
びっくりしたホーリーナイトは慌てて駆け寄り、青年の顔を覗き込んだ。
「お・・・おいっ! ダイジョウブか!? なぁ!! どうしたんだよ!? メをアけてくれよ! ジョウダンなんだろ!?」
青年は心配そうに自分を見るホーリーナイトを殆ど閉じている眼で見つめていた。
- 2 -
青年が倒れる前の三週間もの間、彼の描いた絵は一枚として売れなかった。
その間にただでさえ少なかった貯金は底を突き、遂に絶食しなければならない状況に陥ってしまった。
しかし、自分が絶食している時も、ホーリーナイトの餌だけはちゃんと確保していた。
ごみ置き場を漁り、まだ腐っていない残飯を見つけてはビニール袋に入れて持ち帰り、ホーリーナイトに与えていた。
ホーリーナイトは食事を摂りながら、食事を摂らずに自分を眺める青年に、何故食べないのかと疑問を抱いた。
それに対し青年は、
「僕は外で食べてきたから大丈夫だよ」
と、嘘を吐いた。
ホーリーナイトに心配を掛けたくなかったのだろう。
そんな日が何日か続いた。
青年は日に日に衰弱していった。
しかし、ホーリーナイトには残り少ない体力を振り絞って元気な姿で振る舞った。
――そして絶食し始めて九日目に、青年は倒れた。
ホーリーナイトは何故青年が倒れたのか、見当もつかなかった。
昨日まであんなに元気だったのに。
ホーリーナイトは必死に青年に呼びかけた。
「ナンでタオれちゃったんだよ!」
「ベツにドコもワルいトコロなんてナかっただろ!?」
「なのにどうして・・・!」
「メシだってちゃんとソトでタべてるってイってたじゃないか!」
ホーリーナイトは最近の青年の様子を思い返していた。
果たしてホーリーナイトは、気付き始めていた。
「まさか・・・まさかコイツ・・・オレにウソをツいて・・・」
青年の顔を至近距離でまじまじと見つめると、その予感が確信へと変わっていった。
「・・・カオがヤせこけてる・・・」
最近は意識して見ていなかった青年の顔が前よりもかなり細くなり、頬がこけていた。
青年が倒れ、ホーリーナイトの目線に青年の顔があったために初めて気付いた。
「・・・ナンで・・・オレにウソツいてたんだよ・・・。 オレ・・・ミッカくらいメシクわなくてもダイジョウブなのに・・・オレのメシをワけてやったのに・・・!」
ホーリーナイトの眼には涙がうっすらと光っていた。
その時、青年の左手が微かに動いた。
青年の意識は無くなってはいなかった。
しかし、はっきりとはせず、朦朧としていた。
自分が倒れている最中も、
「あ・・・僕、今倒れてる・・・」
と、自分でも驚くくらいに冷静だった。
倒れた時に受け身が遅れて頭を床に打ち付けてしまった。
しかし、意識は遠のかず、痛みも感じられた。
音が・・・聞こえなくなった。
ビデオのスローモーションを見ているかのように、ゆっくりとホーリーナイトが自分目掛けて近付いて来ているのが分かった。
青年は何となく嬉しくなった。
青年は自然と眼を閉じていたが、中途半端に閉じたため、瞼と瞼の間からその様子は見えていた。
やがて自分の顔の前に来たホーリーナイトから声を掛けられた。
「お・・・おいっ! ダイジョウブか!? なぁ!! どうしたんだよ!? メをアけてくれよ! ジョウダンなんだろ!?」
(僕、大丈夫・・・なのかなぁ・・・あはは・・・)
青年はホーリーナイトに返答しようと試みた。
しかし自分では口からその言葉は発しているつもりだったが、実際は心の中でそう呟いているだけだった。
「ナンでタオれちゃったんだよ!」
(・・・何でだろうね)
「ベツにドコもワルいトコロなんてナかっただろ!?」
(うん、僕の唯一の自慢は健康なことだからね)
「なのにどうして・・・!」
(・・・どうしてだろうね)
青年には音は聞こえていないはずだった。
何故こんなやり取りが出来るのか、それは、青年には動物の心を読める能力があった、としか言いようが無い。
「メシだってちゃんとソトでタべてるってイってたじゃないか!」
(・・・言ってたね)
青年は心が痛かった。
床に打ち付けた頭の痛みよりもずっとずっと心の方が痛かった。
「まさか・・・まさかコイツ・・・オレにウソをツいて・・・」
青年はいたたまれない気持ちになった。
(・・・ごめんよ、ホーリーナイト。 本当に・・・すまなかった)
青年は脱水症状も引き起こしており、一粒の涙さえ流せなかった。
「・・・カオがヤせこけてる・・・」
(・・・)
「・・・ナンで・・・オレにウソツいてたんだよ・・・。 オレ・・・ミッカくらいメシクわなくてもダイジョウブなのに・・・オレのメシをワけてやったのに・・・!」
(・・・ホーリーナイト・・・)
ホーリーナイトの眼には涙が浮かんでいた。
その涙は青年が故郷に置いて来た恋人のそれにそっくりだった。
青年は、残りの力を絞り出して、ホーリーナイトの頭に左手を乗せた。
- 3 -
ホーリーナイトは驚いたが、青年が生きていることを知って喜んだ。
「おぉ、イきてたか! いやぁ、ヨかったぁ・・・。 てっきりシんだんじゃないかとオモったじゃないか」
「・・・ごめん・・・な、心配・・・掛けてしまって」
「メシクってないのか? オレのメシのノコりがあるから、それクいなよ」
ホーリーナイトは、何故自分に嘘を吐いたのか、ということに対して一言も触れなかった。
「・・・そんなことより・・・君に頼みたいことがあるんだ・・・」
「・・・? おう、ナンだよ? ナンでもイってみろよ」
「・・・ちょっと待っててくれな・・・」
そういうと青年はアトリエ・・・と呼ぶには粗末な、四畳半の部屋によろよろしながら移動した。
その四畳半の部屋の書机に座り込み、何やら文章を書き始めた。
普段、絵ばかり描く青年の字はお世辞にも上手いとは言えず、必死に乱れた文字を連ねていった。
(・・・? ナニカいてんだ、コイツ?)
何時もとは別のものを「書く」青年をホーリーナイトはモデルをやらされている時みたいにじっと座って待っていた。
数分後、それを書き上げた青年は、その紙を三つ折りにし、白い封筒に丁寧に入れた。
そして、糊で封をすると、ホーリーナイトの方を向いて、こう言った。
「ホーリーナイト、君に最後の頼みがある。 走って・・・走ってこいつ、この手紙を届けてくれ。 宛て先は・・・画家という夢を見て故郷を飛び出した僕の・・・帰りを待っている恋人へ・・・」
「・・・え?」
「・・・頼めるかい?」
「・・・」
ホーリーナイトは何も言えず、ただ黙っているだけだった。
「君と一緒にいた一年間、とても楽しかったよ・・・。 君と一緒に遊んだことも・・・、君をモデルにして絵を描いたことも・・・」
「・・・やめろよ・・・。」
「・・・君と一緒に街へ出かけて絵を売ったことも・・・、絵が売れて大はしゃぎしたことも・・・」
「やめろって・・・!」
「・・・一緒に食事をしたことも・・・、一緒に寝たことも・・・」
「やめてくれよ!!」
「初めて逢ったあの夜のことも・・・さ。 もちろん・・・」
「・・・オレは・・・オレは、まだアンタとイッショにいたい。 だから! ・・・だから・・・まだ・・・シなないでくれよ! おネガいだよ!」
ホーリーナイトは青年と二人(一人と一匹)で過ごす、この生活が気に入っていた。
だから、この生活をずっとずっと続けたかった。
「ホーリーナイト・・・、『出逢い』というものがこの世に存在するならば、必然的に『別れ』というものも存在してね・・・いつの日にか必ずその別れの日がやって来るものなんだよ。 僕達はただ、その日が来るのが少しだけ早まっただけなんだよ・・・」
「イヤだ! オレはまだアンタとワカれたくない!」
「・・・ホーリーナイトは『天国』・・・って知ってるかい?」
知らないはずが無かった。
「『テンゴク』・・・? シんでからイくトコロのことだろ?」
「・・・そう。 君と僕、天国でまた逢えるよ。 きっとね。」
「・・・きっと?」
「うん・・・きっと」
「・・・ワかった。 ヤクソクだよ?」
「ああ、約束だ・・・。 僕も・・・その約束を守るから・・・君も・・・その手紙を・・・」
青年は力を既に出し切っていた。
みるみるうちに声が小さく、聞き取り難いものになっていった。
「ワかった・・・トドけるよ! ゼッタイにゼッタイにトドけるからさ、また、テンゴクでアおうね!」
青年は答えなかった。
しかし、その代わりに安らかな笑顔で応えた。
- 4 -
青年は最近ずっとホーリーナイトの絵ばかりを描いていた。
それを完成させると、何時ものように街へ出かけてそれを通行人に売っていた。
しかし通行人は、黒猫の絵など不吉がって敬遠した。
結局、黒猫の絵は眼を覆いたくなるほどの売れ行きだった。
それでも青年はホーリーナイトだけを描いた。
何故青年はそれほどまで黒猫の絵にこだわったのか・・・その張本人がいなくなった以上、誰もそのことを知る術は無かった。
ホーリーナイト自身も感付いていた。
不吉な黒猫である俺の絵など売れない、と。
ホーリーナイトは自分自身に責任を感じていた。
それでもアンタは俺だけ描いた、それ故アンタは冷たくなったのではないか、と。
だから、その責任感が手紙を届けることにしたのではないだろうか。
物言わぬ屍と化した青年を目前にして、黒猫は誓った。
「テガミはタシかにウけトったぜ・・・。 オレがゼッタイにコイビトのトコロまでトドけてやるから、アンタはここでアンシンしてネムってな」
こうしてホーリーナイトの長い旅が始まった。
To be continued...
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