K Episode 1 : Run Away

第一話 Run Away

ここ数日の曇天が嘘のようにその日は朝日が輝いていた。
繁華街の片隅にあるごく普通のごみ捨て場にも日光が差して来ていた。
そのごみ捨て場の遠くの方でトラックがアスファルトを走っている音が聞こえた。
本格的に一日が始まる。
その時、ごみ捨て場の青いポリバケツのそばにあった黒いものがぴくり、と微動した。
朝日がビルとビルの合間を縫って、その黒いものを細く線状に照らしていた。
突然、線状に照らされた光の一部が一瞬だけ鈍く反射した。
あまりの空腹と朝日の眩しさで目覚めた黒いそれは、自らの手で目を擦り、背伸びをし、歩き出した。
数歩歩いた後、ビルが作り出す影を抜けた。
全身を日光に余すところなく曝け出した黒いそれは、猫だった。
12月も終盤に差し掛かった今日も、昨日までと変わり映えのしない日常だった。
この黒い猫が絵描きの青年と出会うまでは――

- 1 -

それはごく普通の、何処にでも在る様な都会の片隅から物語は始まる。
その都会は「大都会」と呼ぶには物足り無さを感じ、むしろ「商店街」と呼ぶに相応しい姿をしていた。
その「商店街」は近年の不況の煽りをもろに受けていたが、どうしたことか、通行客だけは以前より減るどころか増えてさえいた。
大通りは、歩行者天国で、しかも駅からオフィス街へとほぼ直線で結んでいるため、遠回りするバスの運賃を少しでも浮かせようとして、歩いて通勤する人がおそらく増えたのだろう。
そんな不況の出口がおぼろげにも見えない年の瀬のことである。
年の瀬、クリスマス前、週末という三つの条件が見事に重なり合い、大通りは何時にも増して人の波でごった返していた。
大通り沿いの殆どの店では赤と緑の華々しい飾り付けがしてあった。
不況下でのクリスマス商戦に勝つことは難しいが、せめて雰囲気だけでも、と便乗している店が殆どである。
ただ「クリスマス特価!」とだけ書いておいてお値段据え置き、なんてことをやってる店は決して珍しくなかった。
そんな、形だけのクリスマスセールを実施している宝石店のショウウィンドウの前で若いカップルが立ち止まって何やら話をしている。
「わぁ・・・これ、キレイだね」
「あぁ、そうだな。 でも、お前の方がもっと・・・」
「え? 何て言ったの? 聞こえないよ」
「・・・いや、何でもねーよ」
・・・などという実に羨ましい会話を繰り広げていた。
その二人は実にその場に馴染んでいた。

その時、二人の足元をするする、と何かが通り過ぎて行った。
それは一匹の黒猫だった。
この二人の存在など全く眼中に無いといった顔の、見事なまでの堂々とした歩みだった。
実際、黒猫はこの二人のことなどどうでも良かった。
もしかしたら、黒猫の頭の中は今晩の食事のことでいっぱいで、この二人のことなど気にかける余裕が無かったのかもしれない。
鍵尻尾がぴん、と真っ直ぐ水平に伸びているのは彼が餌を探して歩いている時の癖だ。
既に日は入り、外は闇に包まれていたが、宝石店の照明で照らし出された黒猫のその姿は不気味な雰囲気を醸し出していた。
「ねぇ、ちょっと見てよ、あれ」
「ん? あぁ、黒猫か・・・。 クリスマス前なのに縁起悪いな」
「嫌よねぇ、折角のクリスマスムードが盛り下がっちゃうじゃない!」
黒猫はその場に不相応な存在だった。
彼の癖である鍵尻尾を伸ばしていることも二人にとっては相当不愉快だったらしく、二人に笑顔が戻るのは随分後になってからことだった。
この二人ではなくとも、大通りを行き交う人々は皆、この黒猫の威風堂々とした姿を好んではいなかった。
黒猫は人々から忌み嫌われていた。
しかし、そんなことは黒猫にはお構い無しだった。
今晩をどう食い繋ぐか・・・彼は、切羽詰っていた。

- 2 -

黒猫は大通りを曲がり、喧騒とは少し縁の薄い小道へと入って行った。
身体を照らす光が歩く距離と比例して弱くなっていく。
どんどん黒猫の姿が闇と同化していく。
この小道へと歩いてきたのはちゃんとした理由があった。
小道の奥にはごみ捨て場があり、近くの居酒屋の生ごみが毎日決まった時刻にそこへ放置されることを黒猫は知っていた。
そこは彼の最後の望みだった。
あと数十歩でごみ捨て場だ。
無意識のうちに歩みが早くなる。
今晩も何とか死なずに済んだ――

がんっ

彼は無意識に後ろへ走った・・・いや、逃げたと言った方がいいのだろうか。
一人の人間が黒猫の身体を目掛けて石を投げつけて来たのだ。
電柱に命中した石は道路を転がりながら側溝に落ちて行った。
「こらぁ! いつもここを荒らしてたのはお前か! 今度来たら承知しねェぞ!」
黒猫は無我夢中で逃げていたのでその声が黒猫の耳に届くことは無かった。
大通りの入り口まで戻ってきたところで黒猫は走るのをやめ、居酒屋の方を振り返った。
もう、危険は去ったようだ。
黒猫はふぅ、と一息ついて大通りの方へと戻って行った。

「もう、あのバショはアブないな・・・」
黒猫は本能的にそう察知した。
「でも、もうめぼしいところはないしな・・・」
孤独にはとっくに慣れていた。
むしろ望んでいたと言っても過言ではなかった。
「コンバンもメシヌきか・・・」
物心付いた時には既に一人身だったのだ。
親も、兄弟も、友達、仲間さえもいない・・・。
「やばいなぁ・・・オレ、このままシんじゃうのかな・・・」
だから、誰かを思いやるとかそんな感情は持てなかった。
煩わしかったのか、それとも、その感情自体知らなかったのか・・・。
そんなことを考えることも彼にとっては非常に面倒臭かった。
「・・・ベツにイきててもいいことなんてこれっぽっちもないしな・・・」
彼は生きていくことに疲れきっていた。
生きるのも、死ぬのも、本当にどうでも良くなってきていた。
・・・今晩の食事でさえも・・・。
「・・・ハラヘったな・・・」
段々と眠くなってきた。
眠気を我慢する力も残ってはいない。
このままここで眠ったらどうなるのかと考えることも面倒臭かった。
・・・眠ろう。

ふわっ

不意に身体が軽くなった。
黒猫は「これが『テンにメす』ってことなのか?」と、感じると同時に、前足の脇辺りに温もりを感じた。
黒猫は驚いて後ろを振り返ろうとしたが、踏ん張りが利かずに足をばたばたとさせるだけだった。
「ナンだ!? ナニがオこってるんだ!?」
黒猫がパニックに陥っていると、後ろから無精髭を生やした青年が「今晩は」と挨拶をした。
黒猫はもっとわけが解らなくなった。
青年は更に続けた。
「素敵なおチビさんだなぁ。 野良猫かい?」
黒猫はここで初めて悟った。
自分は人間に抱き上げられている、と。
青年はふふん、と笑ったが、黒猫を卑下して笑ったのではなかった。
その証拠に、青年の顔は本当に楽しそうに笑っている時の顔をしていたからだ。
「そうかぁ、野良なのかぁ。 僕らよく似てるなぁ。 ははは!」
彼は今度は物凄くおかしそうに腰を曲げて笑った。
しかし、何故か、その笑顔の欠片には寂しさが滲んでいた。

大通りを行き交う人々は青年と黒猫の微妙にマッチしているコンビを白い目で見ていた。
人々は皆、このコンビを避けて通るため、そこだけぽっかりと空間が出来ていた。
そこの空間だけ、世界とは違う時間が流れているようだった。

「な・・・ナンだよ、コイツ! ハナせよ!」
黒猫は青年の腕の中をもがいた。
もがいてももがいても青年は黒猫を離そうとはしなかった。
逆に、青年は黒猫を落とさないように更にしっかりと腕の奥に抱いた。
「!? ナニするんだ、ヤめろ! ちくしょう、ハナしてくれよ! オレをどうするキだ!?」
「そんなに怯えなくても大丈夫だって! 僕は何にもしないよ。 だから、大人しくしてくれよ、な?」
人間の言葉など黒猫には理解出来る筈が無かった。
「この・・・! ハナせってイってるだろ!」
黒猫は青年の腕の奥に抱かれたために自由になった前足で青年の頬を引っ掻いた。
驚いた青年は思わず黒猫を離してしまった。
その隙に黒猫は(さっきの小道とは違う)路地裏へと逃げて行った。
青年の頬からは一筋の鮮血がたらり、と垂れてきた。
青年は色んな箇所がほつれたシャツの袖でそれを拭うと、黒猫が入っていった路地裏へと足を運んだ。
自分と同じものを感じた黒猫を、放っては置けなかった。

- 3 -

黒猫は自身の空腹を忘れ、走っていた・・・つもりだったが、意識だけが前に進み、足が付いて来なかった。
耐え難い飢えに気付いた彼はようやく足を止めた。
あの青年に身を委ねると、もしかしたら、食事にありつけたかもしれない。
しかし、黒猫は『孤独』という名の逃げ道を選んだ。
若しくは、青年が自分に食事を与えてくれるなど、微塵も感じていなかったのかもしれない。
何故なら彼は、優しさというものを知らないから――
「・・・ったく、ナンなんだよ、アイツは。 ナれナれしくオレにサワるなよな・・・。」
黒猫はそう思いながら後ろを振り返った。
「!!」
黒猫は細い目を無理矢理丸くして驚いた。
さっきの青年が追いかけて来たのだ。
黒猫は走った。
足が付いて来ない、などと甘ったれたことは言ってられなかった。
「コイツ・・・! ナンでオレにカマうんだよ!? オレにツいてクるなよ!」
黒猫は意地になっていた。

青年は意地になっていた。
何としてでもあの黒猫を助けてやりたかった。
・・・青年は解っていた。
黒猫が飢餓に苦しんでいることを。
しかし何故それが解ったのか?
青年は動物の感情を理解する能力を携えていたのかもしれない。
彼自身、何故この黒猫が飢えていることを悟ることが出来たのか解らなかったろう。
いや、もしかしたら、生まれながらにこの能力を持っているのでこれが当たり前だと思っているのかもしれない・・・。
とにかく、彼の動物的勘でそう悟ったことは間違い無い。
だから、何としてでもあの黒猫を助けてやりたかった。
黒猫の今の苦しみは、自分も良く知っているから――

黒猫は走った。
生まれて初めての、優しさが、温もりが、まだ信じられなかった。
その想いを掻き消すようにむきになって走って走って走りまくった。
「・・・もういいだろ・・・。 ここまでクればアイツもツいてコられないハズ・・・」
しかし青年は執念深かった。
「うわ! まだツいてキてるよコイツ! しつこいヤツだな!」
黒猫は再び走り出そうとした。
・・・しかし、もう限界だった。
正確に言うならば、とっくに限界は過ぎていた。
その筈なのにそれを無視して体を酷使するとどうなるかは・・・目に見えていた。
目の前の景色がゆっくりと傾き始めた。
ただでさえ夜の路地裏で視界が暗いのに、更に暗くなっていった。
物と物の境界線が重なり始めた。
「お・・・おいっ! 大丈夫か!? なぁ!! どうしたんだよ!? 目を開け・・・」
・・・最後の方は聞き取れなかった。

To be continued...


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Episode 2 : Happy Days