- 1 -
黒猫は夢を見ていた。
居酒屋のごみとして出される魚ではなく、獲れたてぴちぴちの生きた魚の山が目の前に広がっていた。
黒猫はあとから湧き出すよだれを唇で必死に堰き止めながら夢中になって齧り付く。
それを全てたいらげると、今度はミルクの湖が視界に飛び込んできた。
水辺まで全力疾走で走って行き、息継ぎもろくにせずにごくごくと飲んだ。
それを全て飲み干し、後ろを振り返るとそこにはマタタビの木が見渡す限り生い茂っていた。
黒猫はそれを見るや否やそこに突っ込み、狂喜乱舞した。
シアワせだ・・・。
そう思い始めた頃、口の中に生温いものが流れ込んで来たような気がした。
・・・いや、「気がした」のではない、実際に流れ込んで来ている!
ここで黒猫は意識を取り戻した。
ミルクを湿らせている絵筆が目前にあった。
黒猫は匂いでそれがミルクだと気付き、もうそれ以外のものは目に入らなかった。
「おぉ、生きてたか! いやぁ、良かったぁ・・・。 てっきり死んだんじゃないかと思ったよ」
無精髭面の青年は大袈裟にへとへと、と床にへたり込んだ。
黒猫は絵筆のミルクを舐めるのに必死で自分のそばに青年がいることに気付かなかった。
青年は筆の先のミルクが無くなると、パレットに溜めてあるミルクに筆を浸し、再び黒猫の口のそばまで持っていく。
それを数回繰り返すと、黒猫はタオルケットの中からよろよろと立ち上がり、自分でミルクを溜めてあるパレットのところまで歩いて行き、それからは一人(匹)の力だけでぺろぺろと舐め出した。
完全に息を吹き返したようだった。
「元気になったみたいだな?」
青年はそう言うと、ふぅー、と大きくため息を一つつき、更に続けた。
「本当に安心したよ。 君が倒れた時にはもう・・・」
と言って涙で潤ませている目を色んな箇所がほつれたシャツの袖でそれを拭った。
「はぁ・・・はぁ・・・ナンなんだよこの生温いミルクは・・・。 ウマいじゃないかよ・・・」
ぼさぼさした毛の束に染み込んだミルクを目の色を変えて吸っていた黒猫はようやく「考えること」が出来るようになっていた。
「・・・オレ、イきてる? よな・・・?」
吸い干した毛の束を口から離す。
「あれ・・・? でもおかしいな・・・? オレはあのトキ・・・タシかタオれたハズなんだけどな・・・?」
再びミルクで湿らせた毛の束を口に入れる。
「ん・・・? ココはドコだ? ニンゲンのイエのナカっぽいな・・・」
物凄い勢いで毛の束のミルクを吸い干すと、初めて辺りを見回してみた。
「これは・・・アッタかいヌノ・・・?」
自分に包まれているタオルケットを見てそう思った。
すると、ミルクの湿った毛の束を持った人間の顔が見えた。
「げ! コイツあのトキ、オレをオっかけてたヤツじゃないか!」
そいつが今、黒猫にミルクを与えてやっている。
「え・・・? コイツ・・・オレにミルクを・・・?」
何故だろう、と考えたが、口が毛の束に食い付いて吸う作業に入ったので、考えることをやめにした。
「コイツ・・・どういうつもりなのかな・・・? オレをタスけてくれたのかな?」
黒猫は湧き出す初めて体験する新しいタイプの感情に戸惑っていた。
「シンヨウ・・・していいのか・・・? オレはヒトりぼっち・・・じゃナいのか?」
この青年の行動は全然分からなかった。
考え出すときりが無い。
黒猫の知る限り、この青年は全く新しい人種だった。
- 2 -
それから数日後のことである。
黒猫はすっかり元気を取り戻していた。
未だに青年のことを警戒しているが、一日三回の食事の時はその警戒はほんの少しだけ薄くなった。
「おいクロネコ、喜べ! 今日の昼御飯は魚の頭入りだぞぉ! さっきそこのごみ捨て場に落ちてたのを拾って来たんだ」
黒猫はそんなの自分でいくらでも獲れるよ、と思いつつも、よだれが口から溢れ出るのを必死で吸い込んだ。
「しかし・・・『クロネコ』って呼ぶのも変だよなぁ。 そうだ、名前を考えてあげよう!」
黒猫は食事を食べることで精一杯で、青年の独り言なんて聞いてはいなかった。
「う〜ん・・・そうだなぁ・・・。 『クロ』なんてどうだろう? ・・・単純過ぎるかぁ」
黒猫は無視して食事を貪り続ける。
「じゃあ『タマ』・・・月並み過ぎるかぁ」
黒猫はメインディッシュの魚の頭に取り掛かる。
「『ミケ』なんてどうかな? ・・・その前に三毛猫じゃないか。 あはは、何言ってるんだろうね、僕!」
さっきから独り言ばかり言っている青年を横目に、黒猫はメインディッシュをたいらげようとしていた。
「なかなかいい名前が思い浮かばないなぁ。 ・・・ん?」
青年は壁にピンで留めてある薄汚れたカレンダーに目をやった。
「そうだ! 今日はちょうどクリスマスじゃないか! じゃあ・・・君は黒猫だから『ホーリーナイト』っていうのはどうかな!? 『ナイト』っていうのは『夜』という意味なんだよ。 君は黒いから夜というイメージだしね。 そしてホーリーは『聖なる』という意味さ。 『黒き幸・ホーリーナイト』。 どうだい? 格好良いだろ?」
黒猫は満腹になって、背伸びをした。
その時に微かに「にゃあ」という鳴き声が漏れた。
「おぉ、気に入ってくれたんだね!? じゃあ今日から君は『ホーリーナイト』だ! よろしくな、ホーリーナイト!」
黒猫は満腹になって眠くなってきたのか、今度はあくびをした。
また「にゃあ」という鳴き声が、今度ははっきりと聞こえた。
- 3 -
この青年は絵描きだった。
似顔絵や風景画を書いては路上にシートを敷いて売って、それで稼いだお金で生活していた。
彼の絵は上手かった・・・が、人々を魅了する「何か」が欠けているのか、絵はなかなか売れなかった。
それでも彼は腐ること無く、絵を描き続けた。
そして季節は流れ、再び冬がやってきた。
黒猫、ホーリーナイトにとっては、この青年と一緒に暮らし始めて二度目の冬だ。
ホーリーナイトはこの1年という月日の間にすっかりこの青年に懐いていた。
青年に対する警戒はとっくの昔に忘れ、今では進んで青年のもとに歩み寄りたがってさえいた。
青年もそれを察してか、ホーリーナイトが自分の足に身体を擦り付けて来たら食事を与えたり、遊んであげるようにしていた。
ここに猫と人間の信頼関係が成り立っていた。
青年はホーリーナイトと一緒に暮らすことが何より楽しかった。
青年の描く絵は、自然とホーリーナイトが登場することが増えていた。
青年自身もそのことには気付いていた。
ホーリーナイトを描いてる時、青年は何故か「自分はすごく幸せだな」、と感じることが出来た。
「動くなよ・・・」
と言ってホーリーナイトを台座の上に座らせ、鉛筆で下書きをする。
形が出来上がると、
「お疲れ様。 もう動いていいよ」
と言って、自らはその下書きした紙に色を付ける。
前足で顔を拭いている絵。
背伸びをしている絵。
猫じゃらしと戯れている絵。
気持ち良さそうに眠っている絵。
何時の間にか、彼のスケッチブックはほとんど黒尽くめになっていた。
- 4 -
「コイツ・・・ジツはいいヤツなのかな?」
ホーリーナイトがそう思い始めたのは正月が過ぎて少し経った頃だった。
生まれてから今までずっと野良猫だったため、なかなか人間に心を開く勇気が無かったのだろう。
「コイツ、ナニやってんだろ?」
ホーリーナイトが青年が絵を描いていることに興味を持ち始めたのは桜が咲き始める頃だった。
人間に興味を持つなんてことはもちろん、ホーリーナイトにとっては初めてのことだった。
「キョウのショクジはウマかったぜ! ありがとよ!」
ホーリーナイトが食事を与えてくれる青年に感謝し始めたのは雨の止まない日が続いていた頃だった。
人間に感謝するということも、もちろん初めてのことだった。
「なぁなぁ、オレにカマってくれよ。 オレとイッショにアソぼうぜ!」
ホーリーナイトが青年に甘え出したのはヒグラシが鳴き始めた頃だった。
人間に甘えるということも、もちろん・・・。
「おカエりっ! ・・・ナンだよ、そんなにウレしそうなカオしてさ。 え? キョウはエが3マイもウれたって? へぇ、ヨかったじゃないか!」
ホーリーナイトが人間の言葉を解るようになってきたのは紅葉が綺麗な頃だった。
・・・と、同時に、青年の感情を共有出来るようになってきたのもそれと同じ頃だった。
自ら喋ることは出来ないが、青年が何を言っているかは大体解るようになっていた。
ホーリーナイトにとってこの青年は紛れも無く、生まれて初めての友達だった。
――しかし、青年とホーリーナイトの決して裕福と呼ぶことは出来ないけど幸せな日々もそう長くは続かなかった。
そしてホーリーナイト自身も、この青年が最初で最後の友達だった――
To be continued...
|