前田の算数
前 田 の 算 数 実 践 事 例 | ||||
アクティブラーニングの落とし穴 | ||||
本当の「主体的」「対話的」な学びとは? | ||||
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1、キーワードの落とし穴 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ★キーワードが見つめる先を捉える 学習指導要領が新しくなり、「主体的」「対話的」「深い学び」といったキーワードが巷を賑わしている。 「主体的とは・・」「対話的とは・・」といった議論が繰り広げられているが、そうした一連の騒ぎを見て思うのは、 「キーワードに踊らされてはいけない」 ということである。 今回に限ったことではないが、文科省は新たな学習指導要領を作る度に、何らかのキーワードを旗印として掲げる。 それ自体は、決して悪いことではない。 全国に大勢いる教員に、新しい学習指導要領の趣旨を、分かりやすく伝えるには、キーワードを旗印として掲げることは、効果的であることは間違いない。 ただし、キーワードを掲げることには、弊害もある。 キーワードだけが、本来の意図とは異なり、一人歩きしてしまうという落とし穴である。 我々教員は、文科省の掲げるキーワードだけを知るのではなく、 その背景を知り、見つめる先を捉えることが大切だと思うのである。 |
||||
★ マスコミは振り子の原理 キーワードに踊らされる要因に、マスコミの影響もあるように思う。 マスコミは、その性質上、振り子のように世論を煽って読者の注目を集める。 詰め込み教育が問題になれば、 「詰め込みは駄目だ」「やれ、ゆとりだ」と煽る。 そうして、振り子がゆとりに振り切ったら、今度は 「ゆとりは駄目だ」「やれ、学力だ」と煽る。 「見える学力(テストではかれる学力)」と「見えない学力(テストではかれない学力)」という表現で論じられたこともあった。 マスコミは、「見える学力だけでは駄目だ」と煽り、 振り子が振りきったら、 「やっぱり、見える学力も大切だ」と煽った。 今回の指導要領改訂で、文科省は「バランスが大切」と言っている。 それを聞いた時、正直、最初に感じたのは、 「そりゃ、そうだろう」 という思いだった。 何を今さら、当たり前のことである。 最近では、「コンピテンシー・ベース」という言葉がもてはやされている。 しかし、今は 「コンテンツ・ベースからコンピテンシー・ベースへ」 と煽っているマスコミも、振り子が振りきってしまえば、 「やっぱり、コンテンツも大切だ」 と言い始めるに違いない。 そして、最後には「バランスが大切」となるのは、目に見えていることである。 我々、現場の教員は、そうした振り子に惑わされず、しっかりと真理を見極めていきたいものである。 |
||||
★「主体的」「対話的」の一人歩き 話を、「主体的」「対話的」「深い学び」に戻す。 そもそも、「深い学び」という言葉が、何だか後出しジャンケンのように、付け加えられた感がある。 私の記憶では、元々は、マイケルAオズボーンの 「10年後、今ある職種の半分が消えてなくなる」 から、この話が始まったように思う。 そこから、 「AIではなく、人間にしかできないことは?」 という問いが生まれ、 「問題を発見する力(主体的)」と 「協力して解決する力(協働的)」が重要視され、 アクティブ・ラーニング(課題の発見と解決に向けて、主体的、協働的に学ぶ学習)が提唱された。 やがて、「主体的」「協働的」という言葉だけが一人歩きしてしまい、 「やれ、グループ学習だ」 「やれ、教師が教えず、子供同士で教え合おう」 といったように、型(学習形態)だけが論じられるようになった。 学習の形態だけが過度に論じられ、学習する内容が軽んじられたのである。 文科省が、「協働的」という言葉を「対話的」に変更し、「深い学び」という言葉を付け加えたのは、そうした暴走を食い止めるためだったのではないだろうか。 「主体的」「対話的」な学びは、そもそも「深い学び」につながるものでなくてはならないという当たり前のことを、新たなキーワードを掲げることで、今一度確認したわけである。 |
||||
★ アクティブ・ラーニングの落とし穴 石井英真先生は、著書「アクティブ・ラーニングを超える授業」(日本標準)の中で、「アクティブ・ラーニング(AL)の落とし穴」というコラムを書いておられる。 コラムの中で、「課題発見」「協働」といったキーワードに過度に 反応し、実践の形式化に陥ることを危惧され、
と述べている。 石井先生の著書を基にしながら、本当の意味での「主体的」「対話的」な学びについて考えていきたい。 |
||||
次のページへ →2 本当の「主体的な学び」とは? →3 本当の「対話的な学び」とは? |
||||
TOP | ||||