前田の算数

前 田 の 算 数  実 践 事 例
アクティブラーニングの落とし穴
本当の「主体的」「対話的」な学びとは?
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 2、本当の「主体的な学び」とは?
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★「課題発見」の一人歩き

 前のページで、キーワードだけが一人歩きすることへの危惧について、述べた。
 「課題発見」というキーワードも然りである。
 キーワードだけが、一人歩きした結果、「課題発見」の形だけをなぞる授業を見かけることがある。

 例えば、5年「四角形の面積」の学習の導入で、次のような光景を見かけた。
 教師が、これまでに学習してきた形(正方形、長方形、平行四辺形、台形など)を子供たちに提示し、
 「この中で、面積を求められる形は、どれですか」と尋ねた。
 子供は、「正方形と長方形です」と答える。
 そこへ教師が、
「それでは、これから何を学習していきたいですか」
と子供たちに尋ねた。
 数名の真面目そうな子が手を挙げ、
「平行四辺形や台形などの面積を求めていきたいです」
と答えた。

 「そりゃ、そうだ。」
 授業を見て、私はそう思った。
 だって、そうとしか答えようがないのである。

 確かに、子供の口から「平行四辺形の面積を求めたい」という言葉が聞かれた。
 それでは、これは、子供が課題発見をしたといえるのだろうか。
 いや、そうではあるまい。
 
 石井先生は、コラムの中で、
 むしろ,「課題発見」という言葉に込めら れているのは、主体的な学びを実現すべく, 教師から与えられた課題であっても、自分たちが追究したいものにしていくということである。
と、述べている。
 そして、
 それは「課題発見」という形 をなぞることよりも,子どもたちの追究心 に静かに火をつける導入の工夫という授業づくりの不易を追求することによってこそ、可能になるものだろう。
と述べている。
 
 議論すべきは、「教師主導」「子供主導」の2項対立ではない。
 きっかけは、教師から与えたってよいのである。
 要は、子供たちの「考えたい」という思いに火を付けることが大切なのでは、ないだろうか。

 










 ★ きっかけは、教師主導でも・・

 私が、5年「四角形の面積」の授業をした時には、下のような教材を扱った。
 
 名付けて、ぐにゃぐにゃ四角形。
 ボール紙で作った辺の4すみを鳩目で止めたものである。
 辺の長さはそのままに、長方形や平行四辺形に形を変えることができる。

 この教具で、長方形と平行四辺形をつくってみせ、
どちらが大きいと思うか
子供たちに問いかけた。

  

 多数の子供は「同じ」と答えたのだが、
 数名が「長方形の方が大きい」と答えた。
 「平行四辺形の方は、ぐにゃっとつぶれているから」
という理由である。
 同じという子供からは、
「縦につぶれているけど、その分、横にはみ出しているよ」
という反論が出た。
 そこで、二つの四角形を重ねてみせた。



 それを見た子供たちから、
「あれ・・・、ちょっと待った」
「先生、考えを変えてもいいですか」
といったつぶやきがあがった。
「やっぱり、平行四辺形の方が小さい」
というのである。
 平行四辺形のはみ出た部分を、動かしてくっつけると、長方形になるはず。
 それは、青い長方形よりも小さいというのである。

 そのうち、
「平行四辺形の面積は・・・」
といったつぶやきも聞こえてきた。
以前先輩から、次のように教わったことがある。
  同じようなつぶやきが、教室の3カ所くらいから聞こえてきたら、それは、学級全体の問いになっている。

 「面積は・・・」という声が高まったところで、
平行四辺形の面積の求め方を考えよう
という学習課題を提示した。

 子供たちは、やり取りの中で、既に「答えの見通し(30より小さい)」と「解決の見通し(長方形に形を変えれば求められる)」をもてている。
 意欲的に課題へ取り組んでいった。

 





 この授業において、「ぐにゃぶにゃ四角形」を提示したのも、学習課題を提示したのも、教師である。
 きっかけは教師主導であった。
 しかし、子供は、自ら「問い」を抱き、「見通し」をもって課題に取り組んでいった。
 こうした姿も、主体的といってよいと思うのである。

★「主体的」とは

 私が考える、「主体的に学ぶ子供の姿」とは、
  自ら「問い」を抱き、「見通し」をもって試行錯誤しながら、繰り返し教材(事象)と関わる姿
である。

 
 



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