共産主義・その16
2000年、平成12年5月14日の中日新聞朝刊20ページの県内版に「大逆事件と愛知の社会主義に光」というタイトルで、小牧の伊藤栄一氏の研究論文が紹介されていた。
この記事の解説に大逆事件の事が記されていたが、これによると大逆事件というのは1910年、明治43年の事で、これが日本における初の社会主義の弾圧事件であった事がうかがえる。
大逆事件が社会主義者達を弾圧した大事件であった、ということは前々から知ってはいたが、それが何時の時代に起きたのか、という詳しいと日時には無関心であった。
これまで旧ソビエットや中国における共産主義の実態について私なりの感想を書き記してきたが、ここまでやってきて日本について述べなくては竜頭蛇尾に終わってしまうような気がしてならない。
しかし、ここまで私が縷々述べてきた事は、研究論文ではなく、あくまでも私の感想であって、これから述べる事も私の主観であって、事実を克明に調べたものではない。
そういう学究的研究というのはそれぞれの専門家に任せて、私は一市民として頭に思い浮かび、去来した思考を書き記すに留める。
学究的研究に関しては定年後の暇の出来た折りにそれなりの研究をして見たいと願望しているが、おそらくそれは実現できないであろう。
この大逆事件についても、社会主義者の弾圧ということが言われている。
こういう場合、戦前・戦後を通じて、我々の間では社会主義という言葉が使われているが、これは我々の言葉、言語の持つ言葉のアヤではないかと思う。
この大逆事件でも、被害者というか犯人の側は、社会主義者という表現で一括されているが、当事者が天皇とか内閣首脳部の暗殺を狙っていたとすれば、これは明らかに社会主義の枠をはみ出した共産主義と言うべきではないかと思う。
戦前の日本では強力な治安維持法によって共産主義という言葉は実質使えない言葉であったので、それを言い表す為には社会主義とか無政府主義という言葉に言い換えて表現しなければならなかったに違いない。
共産主義、共産党、共産と言う言葉そのものが禁句であったわけで、その言葉が使えない以上どうしてもそれに近似した言葉をあてがわなければならない。
その為に大逆事件の犠牲者となった大杉栄・幸徳秋水などは、社会主義者とか無政府主義者と言う表現であらわされているが、実質は共産主義者ではなかったかと思う。
我々の言語に関して言えば、我々は多種多様な言いまわしをする国民で、不戦条約に調印している手前、実質の戦争であってもそれを「事変」という言い方で世間で通用すると思ってみたり、実質、軍隊でありながら「自衛隊」と呼んで軍隊ではないと解釈して見たり、そういう自己矛盾を平気で言い繕う国民である。
冒頭に述べた伊藤栄一氏の記事を読んでも、それから受けるニュアンスとしては、この大逆事件というのは社会主義者達が冤罪で当時の当局側から不当な弾圧を受けた犠牲者である、という印象で綴られている。
大逆事件そのものが、この戦後の50年間の評価として、弾圧の犠牲者という見方が人々の間に定着してしまっている。
罪もない社会主義者達を、冤罪で、しかも過度な拷問によって死に至らしめた当局側の責任を糾弾する、というポーズで述べられる事が多い。
私が日本の革新及び左翼勢力に対して反撃したいと思うことの根拠は、こういうポーズを取ることによって、日本の進歩的知識人が民族の誇りというものに如何に混迷を与えてきたか、という事を述べて見たいと思うからである。
言うまでもなく、戦前の日本というのは、例の治安維持法によって、共産主義という言葉さえご法度の時代で、日本共産党の幹部はことごとく牢屋に入れられてしまっていた。
しかし、これも結果論からすれば、戦中を牢屋の中で過せれた共産党幹部というのは、当時の日本人の中では最も恵まれた環境の中に置かれていた、と云う事が言える。
同じ世代の同胞は、極寒の満州で、はたまた灼熱の熱帯地方のジャングルで、それぞれに食うものもない状況下で戦闘に明け暮れていたのに、彼ら日本共産党、及びそれに類する政治犯というのは、平穏な牢獄の中で三食昼寝付きで極めて平穏な日常生活をしていたわけである。
見方を変えれば、これほど恵まれた環境に置かれた人は、この時代には他にありえない。
そして日本が戦争に負ければ、彼らは英雄として日本の戦後社会に復帰できたわけである。
日中戦争、大東亜戦争、第2次世界大戦において、日本では英雄というものは生まれなかった。
生まれたとすれば、それは日本に進駐してきた占領軍による政治犯の釈放によって獄中から生還した共産党員ぐらいのものである。
1945年・昭和20年8月15日という日は、日本にとって忘れる事の出来ない一日である。
この日を境として日本ではあらゆる価値観が逆転してしまって、冒頭に述べた大逆事件でさえも、同情の眼で見る事が進歩的なポーズになってしまったわけである。
人が生きていく上で体制に迎合しなければならないことは、ある程度は致し方ない面がある、ということは否定できない。
主権国家というのは「烏合の衆」の集まりではないわけで、どんな主権国家においても、国家の理念というのは持っているはずで、戦前の日本においては、それは富国強兵によってアジアの盟主に成るという事であった。
その手法と手段において日本は間違った選択してしまった事は今更悔いても始まらないが、地球上のあらゆる主権国家において、国家の理念が間違ったり、時代遅れになったり、変更があるのは当然の事で、それを国民の側、又は個人の側から見れば、軋轢が生まれるのも必然的なことである。
民主主義の理念というのは、その軋轢を如何に少なくするか、ということに尽きるが、その手法として、「人民の人民による人民のための政治」ということが民主主義の理念として尊重されるようになったわけである。
不思議な事に、共産主義でもこれと同じ事が言われているわけで、その人民の中に、党員とそうでないものの峻別が歴然としてあり、「党員の党員による党員の為に政治」をすることで、他の人民を統治するシステムを作ることが彼らの理念なわけである。
普通の人民を、共産党というより優れたエリートが上から統治しなければならない、その統治するべき階層を作らねばならない、と思う気持ちがその深層心理の中に含んでいる点が我々の側の民主主義と違うところである。
我々、日本人という立場からこの思想を眺めてみれば、共産主義といえども外来思想で、我々の内なる民族の精神の発露として生まれてきたものではない。
日本人の思想というものは、仏教をはじめとして、あらゆる思想が元は外来思想であった事から考えると何ら不思議な事ではないが、この思想が天皇制を否定しているという点で、日本の統治者にとっては容易ならざる恐怖感を植え付けたことは想像にあまりある。
我々の戦前、特に昭和初期以前・大正時代においては、その思考の中に、天皇制と言うものは、そう大きなインパクトを持ってはいなかったと思うが、それをそういう方向に導いたのは、やはり政治家の政治手法の一環として、それを政治的に利用したからではないかと思う。
明治憲法では天皇制が確立されてはいるが、この憲法そのものはプロシャの絶対君主制を参考に作られているのに対し、日本の天皇、特に昭和天皇というのは、イギリス流の立憲君主制を目指されたわけで、極力政治には関与しないように努められていた。
ところがその下の臣下は、天皇が政治に関与しないことを幸いに、それを100%利用する事を思いついたわけである。
まさしく「トラの威を借りる狐」のようなもので、ある意味で「裸の王様」を騙しつづけて政治をほしいままにしたわけである。
戦前において、天皇を騙し続けた政治家が、軍人とオーバー・ラップしていたところに我々の悲劇があったわけである。
太平洋戦争を開始した東条英機というのは、政治家なのか?軍人なのか?
こういう情況を呈する根本のところには、明らかに明治憲法の不備というものがあったことは確かであるが、憲法の不備ということは、歴史の渦中ではなんとも致し方ない。
しかし、政治が軍人に取って代わられてしまった、という過程には政治家の不甲斐なさというものもあるような気がしてならない。
そしてそれをもう一歩掘り下げて見れば、富国強兵という国是の前には、我々の先輩諸氏の民族的願望としての「貧乏からの脱出」という願望があったと思って間違いない。
日本の民衆の潜在意識としての民族的願望の中に「富国強兵を実施すれば、貧乏からの脱出が可能である」というかすかな希望があったればこそ、政治家は軍人に政治の引導を渡してしまったに違いない。
戦前においても2・26事件とか、5・15事件というように、若手将校による軍事クーデターというのはしばしば起きているが、これら若手将校の発想の中身はまさしく共産主義と相通ずるものがあるわけで、軍国主義のさなかにおいて、若手将校の中に共産主義と類似の発想があり、当人達はそれと気付かず処分を甘受するというのはなんとも不思議な事である。
若手将校が軍事クーデターに走った背景には、やはり日本の大衆が貧乏であったと言う事があり、それはそのまま共産主義の温床でもあったわけである。
こういう武力を背景としたクーデターが頻発する事によって、政治家たちが尻込みをするようになったので、軍人の政治家が幅を利かすようになってきたわけである。
それもひとえに貧乏からの脱出の為には富国強兵しか道がないと思い込んだ所以かと思う。
その意味において、戦前の日本では、明治憲法の不備と軍人による政治的主導という意味で、貧乏からの脱出が国家の理念として「アジアの盟主になる」という事がそのまま日本が豊かになるという事として捉えられていたわけである。
国家の理念がそうであれば、相当な皮肉屋以外のものは、素直に国家の理念に追従する事が普通の国民としての在り方であったわけである。
そして、その理念の実現に向けて、日本のあらゆる階層が一致協力したわけであるが、そこでその為の道具として使われたのが、天皇制の強調であり、天皇の権威であり、天皇の神格化であり、忠君愛国の精神であったわけである。
それをより良く効果あらしめるためには、社会のあらゆる機構が総動員されて、その宣伝に努めたわけである。
国家に忠実であろうとすればするほど、その宣伝が極大化したわけで、戦後反体制の牙城として揺るぎない地位を占めている朝日新聞などはその最も典型的な例である。
私がこの項で糾弾したいと思っていることは、こういう朝日新聞のような転向(極右から極左への転向)が、戦後においてどうして価値を持ち続け、オピニオン・リーダーとして君臨し続けれたのかという点である。
戦前、無知な国民に戦争賛歌をもっとも広範に宣伝して止まなかった朝日新聞が、戦後は共産党の機関紙・「赤旗」と見まごうばかりの反体制を社の方針として憚ることなく打ち出して、それが企業として成り立っている事が不思議でならない。
朝日新聞というのが、戦前・戦後を通じて日本のオピニオン・リーダーであり続けた、ということがどうしても納得できない。
戦後に生きた我々、日本人は、「戦争の反省が足りない」と内外からよく言われているが、確かに我々、日本人の側から戦争の反省をした記憶がない。
朝日新聞などは戦前・戦中を通じて体制べったりで、軍国主義を吹聴して止まなかったが、それに対する反省か又は贖罪の意識からかどうかしらないが、戦後は一貫して反体制を売り物にして隆盛を極めている。
昨今、日本の内外で盛んに言われている「日本は戦争の反省が足りない」という文言を真摯に我々が受け止めるとすれば、朝日新聞のように戦中、戦争を賛美した実績のあるマス・メデイアはつぶしておかなければならないことになる。
確かに戦前・戦中を通じて、治安維持法という枠に縛られて自由な発言ができなかったという面はあるにしても、その前に朝日新聞社の体質そのものが軍国主義に同調していたわけで、その意味からすれば、それは声なき国民の声を代弁していたとも取れる。
もしそうであるとすれば、朝日新聞というのは、開戦の責任を負わされて巣鴨の露と消えた旧軍人達と同じ処遇を受けても致し方ない。
軍国主義者として同じ制裁を科せられたとしても弁解の余地はない。
朝日新聞のみを槍玉に挙げたのは、この会社の変節が最も目に付くだけで、他のマスコミもほとんど朝日新聞と同じ過ちを踏襲している事は論を待たない。
すなわち、日本の如何なる大企業も、時の政府に迎合しなければ、企業の存立そのものが危うかったわけで、その意味からすればこうしたオピニオン・リーダーといえども難を免れなかったわけである。
しかし、そのもう一つ裏側の思考をめくって見ると、新聞とか、放送という業界はオピニオン・リーダーという表現をすると如何にも権威があり、国民を善導するかに見えるが、その実、浮き草のように、その場、その時の状況に合わせて、付和雷同、日和見主義で、時の当局者の顔色をうかがいながら、御釈迦様の掌の孫悟空の如く、ごく限られた世界で大言壮語をしているに過ぎない。
1945年、昭和20年8月15日において、日本に大変革をもたらし、価値観の大転換を迫ったのはいうまでもなくアメリカ占領軍である。
共産主義者を牢獄から解放したのは紛れもなくアメリカ占領軍であり、極東連合軍最高司令官としてのダグラス・マッカアサーである。
牢獄から解放された戦前の日本共産党の面々は、日本で一番安全な籠から解放されて、早速「人民に告ぐ!」などと大言壮語を繰り返しては見たものの、何一つ出来なかったわけで、マッカアサーが日本の旧制度を次から次へと改革していくのを横目で見ている他なかったわけである。
戦後50年以上を経過した時点の今日この頃では、日本の進歩的知識人の中にはマッカアサーの行った農地改革の功績というものを全く知らぬが如き無関心さである。
戦後の日本の大発展は実にこの農地解放にあると私は思うが、今の日本人では農地解放という事など綺麗さっぱりと忘れてしまっている。
50数年前には日本では不在地主が百姓達を搾取していた、という事実を忘れ、日本の農家は前から自作農で、田や畑はそれぞれの農家のものであり、それはおのおの農家が先祖代々受け継いできたもの、と思い込んでいるがそれはとんでもない誤解である。
公共事業を施行しようとすると、例えば成田空港の建設のような場合、国は農民が先祖代々守ってきた先祖の土地を無慈悲に取り上げる、というポーズが罷り通っているが、それはとんでもない誤解である事に皆が皆知らん顔をしている。
当事者も支援者も、農民は農地解放によって始めて自分の土地を得た、という歴史的事実を不問に府したまま闘争を繰り返していた。
今の農家の土地は一反筵一枚で不在地主から取り上げたものである。
百姓は一夜にして土地持ちになったわけである。
これが農地改革であった。
農地解放というのは本来は共産党の最大闘争目標でなければならないことで、旧ソビエットでも中華人民共和国でも、これを行った事で新生社会主義国として成り立ったわけで、日本でそれを行ったのはどういう因縁か知らないが、最も資本主義の顕著なアメリカであった、というのは実に摩訶不思議な巡り合わせである。
日本の共産主義者達はもっとも資本主義の顕著なアメリカ軍から解放されて、自分達はさも英雄になった如く凱旋したつもりでいても、共産党らしい改革は何一つ実績として残す事が出来なかった。
政権が取れなかったから出来なかったと言うのは詭弁で、政権が取れないということ自体が、日本の国民の信頼がなかった、ということにほかならず、信頼を得るための研究が足らなかったということである。
それというのも、日本の共産主義者達というのは「夢を食う獏」のようなもので、現実の日本の実態ということに全く無知であったという事に他ならない。
それに反し、朝日新聞という企業は、無知とは対極の位置にいたわけで、日本の行く末を十分の知っていながら、時の体制、軍国主義に同調し、協力し、吹聴し、鼓舞宣伝にあい努めていたわけである。
ここでその罪深さという観点を考察すると「夢を食う獏」の存在と、日本の破滅を知りながら、それに頬被りをして、嘘の報道をしたオピニオン・リーダーとを比べれば、どちらがより罪が重いか歴然と解るはずである。
しかし、戦後の日本は、そういう意味での戦争の総括を一切してこなかった。
戦争犯罪として、当時の政府責任者を裁いたのは、勝った側が行う制裁の色濃い極東国際軍事裁判、別名・東京裁判であるが、我々、日本人の側から戦争指導者を裁く、という発想はついに出てこなかった。
これはある意味で致し方ない事かもしれない。
我々、当時の日本人というのは、誰でも彼でもが軍国主義に被れていたわけで、「俺はあの当時、軍国主義に同調していなかった」と言い切れる日本人は一人もいないに違いない。
政治の場面でこういう現象が一番恐ろしいわけである。
戦前のヒットラーのドイツでも全く同じ事であったに違いない。
その根底には、お互いに何処の国民も貧乏であったわけで、その貧乏から脱出する一番の方法は、富国強兵しかないという思い込みがあったことは否めない。
強力な軍隊で以って領土を拡張し、そこから富を収奪すれば国民は豊かになるに違いない、という発想は100%帝國主義そのものであるが、その実現に軍備を使うという点では、軍国主義と軌を一にしているわけである。
共産主義というのはヨーロッパ人の発想であるが、この当時のヨーロッパの実情というのは、主権国家に主権があるとは言っても、王様や皇室のつながりというのは主権を超えて連携してしまっていたわけである。
あるのは王様とその臣下としての階級制度のみであった。
だからマルクスもエンゲルスも、その階級というものを打ち破って、王侯貴族でない人間の国家を作らねばならない、という発想に至ったわけである。
だからレーニンはロマノフ王朝というものを撲滅してしまったが、中国ではこの王朝というものが常に入れ替わっていたので、階級というものがただの金持ちと、そうでないものの闘争という事になってしまったわけである。
ところが日本の天皇制というのはヨーロッパの王侯貴族とも一味違っており、皇紀2500年にわたって日本民族の象徴であったわけである。
その民族の象徴を政治的に利用したのが昭和の時代に入ってからの軍国主義者達であったわけである。
そういう背景があるものだから、日本の共産党員といえども、天皇を殺すということにはなんとなく畏怖の念を抱いていたにもかかわらず、その片一方では天皇制の反対を掲げているわけで、それが日本の国民からの賛同を得られない原因である、ということにも気が付いていなかったわけである。
だから「人民に告ぐ!」とか、「天皇はたらふく食っている」というスローガンは掲げるにしても、それ以上には踏み込めないわけである。
天皇を殺せば日本民族は自暴自棄に陥って、それを沈めるにはマッカアサーといえども、あと百万の連合軍が必要である、と信じたのはまんざら根拠のない話ではないと思う。
日本共産党の野坂参三もスターリンの質問に答えて同じような返答をしている。
日本の敗戦によって我々の従来の価値観というのはここで180度の大転換を迫られたが、人間の価値観の中には時代の状況で変わるものと変わらないものが混在していたはずである。
ところがあの混乱の中で、我々はその峻別を一切することなく、何でもかんでも「古いものは駄目だ!」という観念を植え付けられてしまった。
これはある面では致し方ない事と思う。
とにかく戦争で負けて、何もない時である。
家もなければ食うものもなく、着るものもなければ働く場所もなかったわけだから、とにかく無一文の状況に置かれた事を思えば、今までの価値観が覆されるのも致し方ない。
しかし、どんな状況に置かれても、変えてはならない倫理というものは残っていなければならないわけで、その中には「人を殺してはいけない」とか、「人のものを盗んではならない」とか、人の生存に不可欠な必要最小限の倫理というものは必然的に残るのが当然の成り行きである。
マッカアサーは農地解放という改革で、日本の従来の封建制度を根底から覆すような大改革を推し進めたが、この変革があったればこそ、其の後50年にして日本は再び経済大国として世界に君臨する事が可能であったと思う。
中国の毛沢東の言っていた「食う問題の解決」という意味では、これに勝る大英断は他にありえない。
これによって、それまでの水飲み百姓は自営農家となり、生産する米は政府が高い価格で買い上げる、というシステムが確立し、日本の農家はだんだんと貧困から脱出できたわけである。
一方農地を取り上げられた地主の方は、だんだんと没落して、富の平衡化が起きたわけである。
従来の地主というのは、水飲み百姓からの年貢の搾取により、ある程度裕福な階層を作り、その豊かさ故に、これら地主の子弟は教育に金をかけてもらえて、ある意味で知識階級を形成し得る状況であった。
がしかし、裕福な階層の子弟が教育を受けると、それが新しい思想の方に興味が行き、共産主義に被れるという現象が起きてきたわけである。
裕福な地主の子弟が共産主義に被れているので、その地主の土地が筵一枚の値段で小作人の手に渡ったとしても、彼らはそれに抵抗する気力や反抗する気概を持っていなかったわけである。
よって地主が代々土地を維持しながら、その付帯行為として小作人を管理するという従来の日本農業の形態がご破算になってしまったわけである。
これは言わずもがな共産主義革命そのものである。
それをアメリカ占領軍の監視下において、日本の行政府、占領下の行政府が行ったわけである。
そしてそれには何の反抗も抵抗もなく、日本全国津々浦々に至るまでそれが浸透したわけである。
この状況を今日如何なる気持ちで我々は考察すべきであろうか?
戦前・戦中は、天皇陛下という言葉が水戸黄門の「この印籠が目にはいらんか!」という台詞と同じ効果を示したのと同様に、戦後の一時期にはGHQの指令がその役目を果たしたわけである。
事ほど左様に、我々、日本民族というのは時の為政者には反抗できないたちである。
ならば何故に今日の日本では人々が行政に歯向かって抵抗する気風が蔓延したのかと問い直すと、その遠因は、この戦後の価値観の崩壊に帰する事が可能だと思う。
戦前・戦中を通して、あれだけ体制に順応してきた日本のオピニオン・リーダーというものが、今度は体制に反抗する事に価値観を見出したからに他ならない。
戦前・戦中においては体制に歯向かえば、企業にしろ、個人にしろ、生きてはいられなかったが、戦後はいくら体制に抵抗しても、生きる事を止められると云う事はないわけで、だからこそ、御釈迦様の掌の上の孫悟空のような行為が許されるわけである。
特に日本の進歩的知識人の出生というのは、貧困層から出た人よりも、裕福な層から出た人が多いわけで、それは知識人というものの生い立ちからして、その精神が世の中というものに対して甘い観念に支配されているからである。
貧困層から出た人は、その生い立ちからして経済界に進出し、その貧乏から逃れようとするが、裕福な階層から出た人は、何処までも御坊ちゃんで、世情に疎いわけである。
戦後、日本経済というものが復興すると、日本中の人々が農地改革の事などすっかり忘れて、日本の農家は昔から自営農業で、中産階級を形成していたと思い至っているようだ。
これは大間違いで、アメリカ軍が農地解放を実施たからこそ、日本の農家は耕作の合理化に努力をし、農村の余剰人口は都市の工場労働者として輩出しながら経済成長に貢献し、その相乗効果として農民にも購買力がつき、それが再び経済成長を後押したわけである。
これはそれを遂行した主体が進駐軍であり、その時点では昔の天皇陛下よりも偉い人が行った事で、庶民は抵抗しようにもそのきっかけもつかめず、さりとて取られる側の地主にしたところで、財産を没収されるだけの事で命まで奪われるわけではないので、ある意味で鷹揚に構えていたわけである。
これが再認識されたのは、その後の日本の高度経済成長で、昔は筵一枚の値段で水飲み百姓に渡った土地が、その後の高騰によって何億という地価になってしまったので、この時になって初めて旧地主達が切歯扼腕するようになったのである。
こういう我々、日本人の戦後史の中で、常に反体制で、政府の切っ先の矢面に立ったのが日本の進歩的知識人と称する人々であった。
別の言い方をすれば革新と称せられる人人である。
こういう人々は、共産党員ではないが、共産党に近い信条を有している事は間違いない。
いわゆるマルクスの思想により一層の近親感を持ってはいるが、共産党に入党するほど直情的ではないわけで、何時でも身を引く用意をしながら、時と場所、そしてタイミングを見計らって一気に日の目を見る場所に立ちたいという心根の持ち主である。
共産党に入って革命を実行したい気持ちはあるが、その勇気が無くて、その淵で立ち止まっているという有様である。
だから常に政府には対抗し、抵抗し、反体制でありつづけるわけであるが、これはそういう事が許される状況下に自分が置かれているから出来ることであって、本当に共産主義の社会になればとてもそんな悠長な思考が許されるわけではない。
世界の戦後史の中で、旧ソビエットの状況、中国の文化大革命の状況を見てみれば、一目瞭然であるが、こういう人々は、他人の庭は綺麗に見えて、自分の庭はみすぼらしく見えて仕方がなかったわけである。