その15 文化大革命

共産主義の限界

そもそも革命の成就のためには暴力もいとわない、という発想に諸悪の根源があるわけである。
人が生きる為の思考に、暴力を前提とした発想そのものが人間の倫理から外れているわけで、人の集団というのは元来無用な殺生というのは避けて通るのがある種の倫理であったわけである。
太古からの人間の歴史の中で、異民族との接触において、無用と思われそうな殺傷はついてまわってきたが、その背景には自らが生きる為に隣の民族の譲歩を願いつつも、相手がその譲歩に応じなかったからこそ殺戮が起きたわけで、その殺戮は必要最小限の手段であったわけである。
アメリカの先住民であるネイテブ・アメリカンは、ヨーロッパからの移民を最初から排除しようとはしなかったわけで、ヨーロッパからの移民が多くなると、その移民してきた側が自分の都合で先住民の側を圧迫するようになったからこそ、インデイアンと白人の抗争というものが起きたわけである。
人間というものは、もともと他人を殺すという事には一種の畏怖の念を持っているわけで、それはどの民族においても、基本的に無意味な殺生はしない、というモラルとして、倫理として、潜在的に持っていたわけである。
その部分では性善説であったが、自分の仲間に対して一段と高い地位を得たいとか、人を管理したいという欲望、つまり権勢欲というのは、それとは次元の違う意識であるが為、従来の旧体制というものがなくなり、昔威張っていた金持ちも、昔人を顎で使っていた長者ドンも、総て只の人、つまり自分と同じ身分になったとしたら、今度は自分がそれと同じ事をして見たい、という欲望が台頭してきたわけである。
それが人間の持つ卑しい感受性であり、その部分に性悪説が内在していたわけである。
そこに持ってきて、そのためには暴力も許される、という事になれば、社会は大混乱に陥るのもむべなるかなである。
そして人間が集団で生きているとなれば、そこには当然組織というものが形成され、その組織は大なり小なり官僚主義というものから免れないわけで、これは人間というものが性善説で生きていようと、性悪説で生きていようと、何ら変わるものではなく、人間のもつ「業」としか言いようがない。
人の集団が組織に依存して生きている、ということは同時に秩序というものを必要とするわけで、この文化大革命というものは、その秩序というものを否定しているから、下克上が起きるわけである。
ある意味で、それは無法状態をさすことになるわけで、それを国家の首脳が推し進めるという事は、普通の人間では考えられない事柄である。
普通の主権国家が、その国民を統治するのに、無秩序の状態を推し進めるという事は、統治を放り出していると言う事に他ならない。
毛沢東が文化大革命を推し進め、その妻としての紅青が、亭主の威を借りる狐のように、夫の庇護のもとにほしいままに政治をコントロールしておいて、毛沢東が死んでしまうと、その妻を捉えて裁判にかけ、死に至らしめるということは、それこそ秦の始皇帝の行った事と何ら変わるものではない。
考えてみれば、中国の歴史というのはこういった事の繰り返しで、共産主義といえども、その人民統治の手段に過ぎなく、中国人の政治意識の中には、統治される側の事は何ら考慮される事なく、ただ統治するものが自分の都合でどういう風にでも歴史的解釈をするという事である。
共産主義というものは、中国の過去の政治家が儒教を政治的支配の根拠にしたり、時には道教がそれに変わったり、場所によっては仏教がそれに変わったりした事と同じで、人民統治の手法に過ぎないわけである。
人を統治するためには、ある種の理念が必要なわけで、共産主義というのは、その理念の一つにすぎず、その理念の下には潜在意識が隠れていたわけである。
中華人民共和国の一党独裁体制というのは、その理念を信奉した人達による政治であったわけである。
しかし、その理念の下には、人間の持つ本質的な潜在意識は残っているわけで.革命後10年もしてくると、世の中の緊張感が緩んできて、人間の持つ潜在意識としての権勢欲が露に出てきたわけである。
毛沢東も、大躍進運動が挫折した時点で引退すれば、その功績は後々まで賞賛されたに違いないが、自分が神格化される事を望んだがため、その軋轢としてその後10年にわたる理不尽な第2革命が進行したわけである。
権勢欲というものに関して我々は非常に淡白な民族のように見える。
我々の政治の場面で、権力に限りなく固執した政治家というものはほとんどといっていいほどない。
太平洋戦争において東条英機が総理大臣で戦争をはじめたものだから我々は彼を極悪非道な政治家という印象を持っているが、彼とてもあっさり総理の座を退いているし、戦後の首相で岸信介は安保条約が批准された後あっさり政権の座を後任に譲っているわけで、何が何でも権力を放さない、という政治家は皆無である。
まして権力の座についている間に私利私欲を肥やす、という発想は最初から存在していない。
このことは我々は権力というものに対して非常に淡白であるということである。
今、毛沢東の考えていた事を敷衍して見ると、彼はやはりロシア人、つまり共産主義国家の先輩としてのソビエット連邦というものにコンプレックスを抱いていたのではないかと思う。
19世紀において、中国の人民が西洋先進国に植民地化された経緯というのは、これら中国の人々の西洋コンプレックスがその根底にあったように思う。
自分達は皮膚の色が黄色で髪は黒いが、西洋人は紅毛碧眼で、まるで天子か天女のように見えていたに違いない。
だから中国人の大人でさえも、西洋人の子供に対して卑屈になっていたわけで、その卑屈さが力で戦う事を最初から諦めさせていたに違いない。
それは明らかに西洋コンプレックス以外の何物でもなく、彼らは西洋人を見ただけで雷に打たれたように体が硬直してしまっていたに違いない。
毛沢東が中国12億の頂点に立った時点で、なお彼がソビエットのスターリンのように神格化した地位というものを願っていた、ということはこの西洋コンプレックスの具現化であったように思う。
中国共産党が建国するまでの過程において、ソビエット共産党の憧憬を加味した党員との確執を越え、中国独自の路線を踏査して、建国にまで至ったわけであるが、その過程においても毛沢東はソビエット連邦のスターリンのような独裁政治に憧憬を深めていたわけである。
スターリンの功績というのは、確かに、遅れた旧ロシアというものを近代化した事は否定できないが、その裏には同朋の数限りない殺戮ということが隠されていたわけで、それを暴露したフルシチョフが憎くてならなかったわけである。
それと、共産主義というものが中ソだけで結束して、アメリカに対抗しようという発想は、既に時代遅れであったにもかかわらず、毛沢東にはそれが見えていなかったわけである。
その事は、彼が外国というものを全く知らなかったからで、建国の時期にソビエットとの交渉でモスクワまで出たとはいうものの、その時は全く冷淡に扱われたわけであり、世の中の発展という事には全く無頓着であったからである。
その事はある意味で中華思想から脱却できていないという事でもある。
共産主義者が中華思想から脱却できないという事は、これまた時代遅れな事で、ある意味で信じがたい事である。
その事は、先ほど述べたように、共産主義というものが、その時々の都合で如何様にも拡大解釈できて、その時、その場で、状況に合わせて使い分けられているという事に他ならない。
つまり、共産主義の唱える人間の理想郷と、現実の人間の営みとしての思考との融和を促す事になったわけで、共産主義というものを徐々に弛める方向に向かわざるを得なくなったわけである。
それが改革解放経済と言う事になるわけであるが、一種の資本主義体制へのゆり戻しである事に相違ない。
文化大革命の最中には「農村に下放された」という表現がしばしば登場するが、これは人民公社を指しているものと解釈しなければならない。
旧来の農村のあり方では、都会からある種の犯罪者を受け入れる施設はありえないわけで、そういう人々を受け入れる施設となれば、やはり公共性の強い施設でなければならず、そういう施設内で人々は共同生活を強いられていたに違いない。
そういう環境の中に、今度は資本主義的なシステムを導入しようとすれば、人々は自分の利益を最優先にする事は火を見るよりあきらかである。
公共の施設で、働いても働かなくても食うに困らないとなれば、人々は働かない方を選択するわけで、そういう状況の中で、個人の尽力で自分の収入がふやせるということになれば、人々はそちらの方に熱を上げるというのは自然の摂理である。
大きな公共施設に寝泊りできて、自分の子供は集団で子守りをしてもらえ、食事は食堂で何時でも食べられるとなれば、人は真剣に働かないのは自然の流れである。
ところが共産主義というのは、そういう環境を整えれば、人は祖先して働くと思ったところに最大の過誤があったわけである。
旧ソビエットのソルホーズ、コルホーズ、そして中華人民共和国の人民公社、これらはいづれも農業を対象とした共同体組織であったわけで、農業というものをこういう形態で運用出来ると考えたことは、農業の本質を全く知らなかったということに他ならない。
自然の力が大きく左右する農業という生産形態に、机上の計画で効率を上げようと思っても、思うように行かないのは理の当然である。
農業というものは自然の摂理に左右される上に、それをする側の人間の気持ちも大きく影響を与える業界なわけである。
都会のインテリが机上で計画を立てたところでうまく運用されるとは限らない。
それが旧ソビエットでも中国でも成されたということは、その両方において農業の本質も、人間の自然の摂理も、全く理解していなかったということの証左である。
その共同体の中の集団生活で、一生懸命人のために尽くしたとしても、それを妬む者から「あれは修正主義である」と一言いわれれば、そのまま人民裁判で吊るし上げられてしまうわけである。
そんな体制がそう長く続くはずもなく、夢が覚めてしまえば、むなしさのみが残るわけである。
何時までもそのむなしさに打ちひしがれているわけにも行かず、今度は資本主義の要素を少し入れてみると、人々は急に元気になり、個人の利益獲得に奔走するようになったのである。
1976年、昭和51年、周恩来が死に、続いて毛沢東が死んしまったら、これで中国の建国に貢献した大革命の盟友がいなくなってしまったので、その後は新しい指導者にバトンが渡ったわけである。
それでもまだまだ革命の生き残りというのは健在なわけであるが、社会を動かす中堅どころというのは、既に革命の機運からかなり遠のいた世代が握っていたわけである。
既に旧体制の中国の社会という、昔の実態を知らない世代が台頭してきているわけで、それに加え、第2次世界大戦後の世界の技術革新というものが地球規模で広がっていたものだから、中国においてもあらたな意識改革に迫られていたにちがいない。
人の意識を覚醒するには、どうしてもマス・コミニケーションの存在を抜きはありえないが、それを戦後の技術革新は大幅に改善してしまったわけで、社会的インフラストラクチャーなしでもコミニケーションが出来てしまうようになったわけである。
例えば、ラジオ、テレビ、携帯電話というのは、社会的インフラをほとんど必要としないコミニケーション手段である。
こういうものが発達してくると、文化の地域格差というものはなくなってしまい、どんな田舎でも最新の情報に接する事が可能なわけで、その情報を得た人々は、情報の発信源としての都会に集まってくるわけである。
その前に、こういうマスコミの発達で、どんな田舎の人でも、都会の文化と自分達の置かれた環境における文化の違い、格差というものを認識してしまい、それに追いつき追い越そうと躍起になるわけである。
そこで田舎から盲流となって都会に流れてくるという現象が起きるわけである。
その遠因には、共産主義という思想武装をゆるめ、「個人の利益を追っても良いですよ」という改革解放経済の援護があったわけである。
20世紀という時代は、地球規模で物質文明が飛躍的に進歩した時代であり、物質文明が進歩すると、それにともない精神文化も時代の状況にマッチするものが要求されるわけである。
その段階で人類は資本主義と共産主義という二者択一を迫られたのである。
資本主義というのは、人間の欲求を自然のままの形で温存する思考であるが、共産主義というのは、人間の持つ性善説に依拠しているがため、非常に人々の共感を得る事が出来たが、人々の共感を得る事と、現実の政治・統治とは次元が違っていたわけである。
人というのものは基本的に性善説では生きておれないわけで、政治とか統治に携わるということは「人間の業」が露になってしまうものである。
性善説に依拠しているが故に、従来の制度の中で、貧困とか古いしきたりや慣習に束縛されていた人々を解放するという意味では大いに貢献したわけであるが、人間のもつ「業」というものを払拭する事は出来なかったわけである。
その過程において、従来の古いしきたりや慣習又は階級制度というもの打ち破った事によって人々が解放された事は認めざるを得ないが、人々が意識改革をすれば、それは再び統治する側への批判という行為になって跳ね返ってくるわけである。
その解放の手段として、共産主義の場合は共産党というのが上からの押し付けで、無理やりこじ開けたという感じであるが、資本主義の場合は、人々が徐々に豊かになることによって、人々の向上心を覚醒させたという感がする。
人類の生存の究極の目的というのは、幸せな生涯を送る、という事であろうと思うが、幸せな生涯という事には、人それぞれに様々な価値観が存在するわけで、一括りに論ずる事は出来ない。
しかし大雑把に言えば、豊かな生活という事に尽きると思うが、この豊かな生活という概念も、人それぞれに違っているわけで、前の生活に比べて豊かになればという捉え方をすれば、共産主義革命の果した効果は大きなものがあるように思う。
旧ロシアのソビエット連邦や中華人民共和国の誕生というのは、明らかに旧制度の貧富の差というものを著しく減らした事は事実であろう。
しかし共産主義というものが階級闘争として、人の集団の中に階級というものを作らないという意味からすれば、それには失敗しているわけで、そこに民主化の要求が出てくる要因が潜んでいたわけである。
共産主義革命で従来の制度を否定しているものだから、古い価値観が通用しなくなってしまったにもかかわらず、その中で階級制度というものは残ってしまい、その残った部分を再度否定しようと思うものだから、無秩序という状況が現出してしまったわけである。
この無秩序な社会の中に、発達した物質文明はどんどん入り込んでいったわけで、人々はこの物質文明の恩恵によりよく浴そうという願望が強くなり、その為にめいめいがその手段を模索しようと思うようになったわけである。
社会そのものが無秩序な状態だから、人々は勝手に行動し、組織の規範や、集団の規律を維持する気は毛頭無いわけで、自分の思った通りの行動を、勝って気ままに取るようになってしまったのである。
それが改革解放経済という状況下で起きた現象であり、その事は統制経済というものが破綻した事である。
この地球上には豊かな国とそうでない国が混在しているわけで、人々が豊かな国を目指して移動するということは、ある面では致し方ない事である。
しかし、今日の世界の近代国家というのは、それぞれに主権というもので垣根が張り巡らされているわけで、その垣根というのは個人の家に例えれる。
金持ちの豊かな家に、無秩序に、招かれもしない人が入って来れば、いくら金持ちで鷹揚な気持ちの人も最後は怒り出すことは論を待たない。
現時点で金持ちな国というのは、もともとの天然資源に恵まれているという幸運があったかもしれないが、金持ちであるという現実の前には、それなりの努力があったわけである。
その努力の結果として裕福な経済が成り立っているわけである。
そこに近隣から無秩序に貧乏人が押し寄せてくれば、当然そこには摩擦が生ずるわけで、その事は現代の戦争の原因にもなりかねない要因である。
第2次世界大戦で日本がアメリカとの戦争に踏み切ったのは明らかにそうした問題が根底にあったわけである。
今日、中国人と称する人々は世界各地に散在しているが、中国人というのは自分の祖国というものに価値観を置いていない節がある。
中国という国家が単一民族で出来ていないので、国民としての結束がイマイチ弱いというのはその答えになっていない。
単一民族で国が構成されているから国民の結束が固い、というのはただの盲信に過ぎない。
彼らの結束の基準は血縁にあるといわれている。
現代の中国人も自らのアイデンティティを血縁に求めているとすれば、彼らの共産主義革命というのは一体何であったのか、と問い直さなければならない。
逆の視点に立てば、自らのアイデンティティを血縁に求めざるを得ない人々が、共産中国から脱出せざるを得ない、という状況になっているのかもしれない。
国を捨てるということは、個人の問題であるが、それを受け入れる側とすれば、それは国家の問題となるわけで、自分達の努力の結果として今日の繁栄があるところに、自分の祖国を勝手に捨てて入って来られても、困惑するのは当然の事である。
1960年代のベトナム戦争の際には、共産政権になるとことを嫌うあまり、ボート・ピュープルとしての難民問題が噴出したが、世の風潮というのは、難民を受け入れる側が問題視され、それを出す側は何ら問題とされなかった。
考えてみるとこんなバカな話もないわけで、中国の支援を受けた北ベトナムが南ベトナムの人々を追い出しておいて、その責任を何故アメリカや日本が負わなければならないのであろうか? 不可解千万である。
ところがその当時の日本の知識人、左翼系のインテリゲンチャというのは、この不合理な論理を声高に叫んでいたわけである。
19世紀における西洋先進国というのは豊かさを競ったが、20世紀においてはほとんどアメリカ一国が豊かな国という事になってしまった。
しかし20世紀も後半になると、戦後の復興を成した日本及びドイツ等の国が豊かな国の仲間入りをするようになった。
第2次世界大戦の終了の時点では、日本もドイツも敗戦国として塗炭の苦しみを舐め続けていたわけで、その間に共産中国は人民公社を作り大躍進運動を展開し、あろう事に原子爆弾まで開発していたわけである。
旧ソビエット連邦にしろ中華人民共和国にしろ、共産主義国というのは常に拡張し続けなければ体制が維持できない、という思い込みに陥り、相手もそうであるに違いない、という錯覚に陥っていたわけである。
それに反し、民主化を成した先進国は、覇権を拡張する事で富みを得るのではなく、覇権意識を縮小する事で富みを温存する事が出来ると気がついたわけである。
そのことは戦後の資本主義的自由主義経済体制を取っている西側陣営においては、既に特定の国だけが突出する経済というものは存在しておらず、自由貿易を発達させる事による経済の自由化で以って富を構築していたわけである。
個々の垣根があるとはいえ、その垣根を非常に低くして、その垣根越しに物と金、そして人の交流を促進する事によって、お互いのレベルを徐々に上げてきたわけである。
ところが鉄のカーテンの向こう側と対処する時、すなわち旧ソビエットや共産中国と接する時には、その垣根を厳重に管理し、主義主張の押し売りを注意深く管理しなければならなかったわけである。
なんとなれば旧来の思考を全否定するようなことを宣伝されれば、自由主義というものが破壊されてしまうからである。
旧ソビエットと共産中国というのは、その領土の広さからいっても自給自足が可能は国家で、その意味では自由主義経済システムに依存しなくてもすむ国である。
ところが西側陣営というのはそういうわけには行かず、自由貿易ということが必要不可欠な要因であったわけである。
そういう努力の結果として人々の暮らしが豊かになってわけで、そこに貧しい中国から人々が富を求めて流入してくるとなれば、何らかの対策をしなければならないのは当然である。
それを防ぐ最良の方法は難民を出す国の経済を底上げすれば事は収まるわけであるが、その意味で援助をすれば、その援助を有り難いという感謝の念で捉えず、さも当然とばかりに高飛車に出るわけで、これでは援助をする側に立つ瀬が無いわけである。

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