その14 中共の足跡

共産主義・その14

米ソのパワー・バランス

1949年10月1日、北京において中華人民共和国はめでたく誕生した。
ここにソビエット連邦につぐ第2の共産主義国が誕生したわけであるが、人々が共産主義というものを選択する過程には共通の要因があるように思われる。
その事は旧ロシアと中国というのは同じアジア大陸という土地に共通した歴史的背景があるように思われる。
その共通した要因の一つに、そこに住む人々が非常に遅れた意識の人々であった、という事である。
そこに住む人々が無知蒙昧な人々であった、という言い方とをすると、さも差別意識を助長するかのような印象を受けがちであるが、歴史というものは現実を直視しなければならないと思う。
犬でも猫でも、それぞれの固体には個性というものがあり、人間の側の欲求に答える事の上手な個体もあれば、下手な個体もあるわけで、それを人間の側では利口なものとそうでないものという認識になるわけで、どうせペットとして飼うならば、利口な固体の方を選択しがちである。
人間の個体の集団としての民族においても、それと同じ事があるわけで、その個体が集合して作る社会においても、世渡り上手な集団と、そうでない集団というのが存在するという現実は直視しなければならない。
戦後の民主教育においては、人間を差別して見る、という見方を極力避けるように指導されているが、人間というものが理性ある生き物だとすれば、それも整合性を持つが、人間というものは、それほど理性に根拠を置いて生きる生き物ではない、というのが現実の人間の姿ではないかと思う。
差別という言い方をすると、世の顰蹙を買うので最近では「個性の尊重」という言い方に変わってしまったが、「個性の尊重」ということは、利口でないものも「そのままの姿で認めよう」ということである。
換言すれが現実を直視せよということに他ならない。
だから「差別」をそのままにしておけという意味ではなく、「現実に即した考え方をしなさい」という意味で、人は理想に向かって進んでこそ理性というものの存在が生きてくるわけである。
しかし、差別撤廃を美化してはならない。
人の集団を民族という塊で捉えた場合、文化的な生活に憧れる人々がいる反面、伝統的な生活を維持しようとする生き方もあるわけで、それを我々の勝手な判断で価値観を押しつけてはならないこと言うまでもない。
その事は旧ロシアでも中国でも、民衆というものが無知蒙昧な大衆であったと言う事を如実に物語っているわけである。
先日(平成12年3月)、アメリカ西海岸をほんの少し旅行する機会があったが、こういう大陸というものを考えて見ると、実にその国土というものは広い。
おそらく中国でもロシアでもそうであろうと思うが、人間の生存というのは、この大地のほんの皺のような地表でもって農耕を営んでいるわけで、そのオアシスのような集落と、その隣のオアシスの集落では、人と人つながりが非常に希薄であったと思われる。
こういう環境では必然的に社会の成熟度というのは未熟で、人々は自然の摂理にしたがって生きているわけである。
日本やイギリスのように、狭い領域に人が密集して生きている場合は、人と人との密度は非常に高いわけで、社会というのは極めて緊密な連携と連合の中で生きていたわけである。
高度に発達した社会においては、当然国民一人一人の意識が高く、そうでない社会においては、より自然の摂理に近い生活が営まれていたわけである。
自然の節理の近い生活というのは、地方の有力者による支配が罷り通った社会という事である。
つまり自治ということの欠落した社会ということに他ならない。
ところが共産主義者の統治という事は、こういう自然の摂理にしたがって生きている人々を、共産主義というローラーで押しつぶしてしまうわけで、いわば管理の押しつけなわけである。
大きな大陸の内陸部で、自然の摂理に順応し、自然界の環境に支配されながら生きている人々に対して、高密度の社会の中で醸成された思考を押し付けて見たところで、それがうまく行くとは思われない。
共産主義というものは、高密度社会の中で人々を如何に管理するか、という大命題を内包しているわけで、大自然を相手に生きている人々に対してそれを押しつけても、思惑通りにいくとは限らない。
しかし、都市に住む人々にとっても、食べる事の問題は避けて通れないわけで、その為の都合として農村の管理ということが付随的に付きまとうわけである。
毛沢東が農地解放を実施して農民を味方に引き入れた、ということは共産主義社会の成就の為に農村を利用した、という部分が大きいように思う。
この手法はソビエットも同じ手法を使っているわけで、人は学問がなくても生きて行けるが、食べ物がなければ生きていけないわけで、その事の裏を返せば、農民の管理を如何にするかという事に他ならない。
つまり農民側からすれば、地主が変わっただけで、土地が自分のものになったとはいえ、それを自由に売り買い出来るわけでもなく、作物の上納を免れるわけのものでもない。
大陸の奥地の、地球の皺のような所で、自然環境に支配されながら、営々と農業や牧畜で生きてきた人々にとっては、主義主張というのは何ら生きる糧にはならないわけで、そいう人々が中国大陸の奥地、ロシア平原の奥地には掃いて捨てるほどいたに違いない。
ところが、そういう人々というのは、歴史の表面には決して現れてこないわけで、統治者のみが歴史の舞台を飾っているわけである。
世の中の歴史書というものが、統治者の足跡をトレースすることもある面では致し方ない事で、無名の大衆の記録というのは、管理する側にしか残らないからである。
共産主義というものが階級闘争で、階級というものを否定する方向に向かう事がその命題だとすると、それは自家薬篭に陥ってしまっているわけである。
つまり、その命題そのものに矛盾を内在しているわけで、共産党というものが拡大すればするほど、その内部では階級制度というものが強固になってきているわけである。
中国共産党が過去の中国が持っていた社会制度上の階級を全否定したということは、ただたんに中国人の同朋を殺し、共産党のためのユートピアを作る基盤整備をしたに過ぎない。
毛沢東が政権を取ったということは、中国共産党の武闘が勝利をおさめた、という事であるが、世の中の歴史書というのは、こういう露骨な表現はしない。
いかにも平和裏に政権が移譲したかのように記しているが、その内容というのは、中国人による中国人の殺戮以外の何物でもないわけで、それも「革命のため」の一言でどんな虐殺も片付けられてしまっているわけである。
彼等が自分の同胞を殺したときには「革命のため」と言い逃れておきながら、同じ事を他の主権国家がすれば、それは「大虐殺」と言葉の表現が大きく飛躍するわけである。
それでも中国各地には、それに従う事を由としない不満分子は散在しており、そのままでは社会主義王国の建設が遅々として進まないので、1953年、第1次5ヵ年計画を見切り発車させてしまった。
この手法もソビエットの手法を真似したものであるが、ソビエットと中国というのは、その国情というものがよくにているので、その両国が同じ軌跡を歩むのはある面では致し方ないと思う。
ところが毛沢東というのは生理的にソビエットというものを信用しておらず、共産主義国の先輩とは言っても、所詮西洋先進国面する先方を疑心暗鬼の目で見ていたに違いない。
中ソ両方に不信感があったわけである。
それというのも中国共産党の結成以来、その内部ではソビエットからの留学組みの党員と、そうでない党員との間の確執が壮絶を極めていた、という背景があったからである。
その事は彼ら共産党員が目指す階級闘争そのものが党の内部で行われていたわけで、彼らのしていることといえば、党の内と外で四六時中、階級闘争に明け暮れていた事になる。
中華人民共和国の誕生は1949年10月であるが、この年の1月からソビエットの共産党幹部のコワリョフが中国の共産党のもとに送り込まれていた。
彼の使命は、スターリンの命を受けて、中国をソビエットの側につかせることであったが、第2次世界大戦の終了の時点では、ソビエットのスターリンは明らかに中国共産党に敵対する国民政府を擁護していた。
しかし、アジア大陸の大部分を占める中国が、いよいよ共産党政権を打ち建てる機運が見えてくると、国民政府を裏切って共産党の側に乗り換えたわけである。
これは既に冷戦の前哨戦でもあったわけで、ソビエットのスターリンというのは、常に国際関係におけるパワー・バランスを秤に架けながら、自国、自陣営に有利な方を選択していたわけである。
それに反し、アメリカというのは馬鹿正直に民主主義の旗を掲げて、国民政府の蒋介石を援助していたが、蒋介石の政府というのは、所詮清王朝の残滓を引きずっている旧体制から脱却できないままの反民主的な政府であった。
スターリンから送り込まれたコワリョフというのは、当然の事、スターリンの意向を汲んだ施策を押し付けてくるわけで、それはソビエットの経験から照らして、都市型の革命を目指すもので、都市の工業労働者を革命の主体とする発想で満ちていたわけである。
ところが中国では近代工業社会というものが未発達で、都市型の労働者というものの存在がうすく、毛沢東としては農民を主体とする革命にしなければならなかったわけである。
スターリンの目論みというのは、当然自陣営の強化にほかならず、史上最初の共産主義国の周囲はことごとく帝國主義の諸国なり、資本主義の諸国であるので、少しでも自分の国の主張に近い仲間がほしかったわけである。
それと同時に、共産主義というものは常に革命を生産しつづけなければならないわけで、その意味からしても、中国の革命には参画したかったわけである。
毛沢東の側も、蒋介石を東シナ海に突き落とす勢いがあったとはいうものの、まだまだ国力の点では周囲から脅威を感じていたわけで、その為にはアメリカとも手を組む心つもりでいたところに、ソビエットのアドバイスがあったものだから一気にアメリカの援助を袖にしたという経緯がある。
この時点では毛沢東もアメリカに甘える気持ちがあり、アメリカも冷戦の何たるかを真に理解しえず共産主義の行為というものを半信半疑で見ていた節がある。
しかし、このソビエットの援助というのは、スターリンの撒いたエサに中国側が飛びついたというような形のもので、明らかにスターリンに利用されたに過ぎない。
スターリンというのは、共産主義の拡張のために最初は連合国の一員として国民政府を支持しながら、中国の共産主義者達が力を持つようになると、今度はあっさりと裏切って、新しい方に鞍替えしたわけである。
一国の指導者は常に国益ということを考えるべきである、という事からすればこれは非難されるべき筋合いものではないわけで、これが現実の国際政治の中のパワー・バランスというものである。

製鉄と人民公社

それにしても中国の毛沢東といえども、ソビエットのスターリンにはいいように振り回されたわけで、ここでも西洋人のアジア人蔑視というものを垣間見る事が出来る。
新生・中華人民共和国の顧問のような形で入り込んだコワリョフは、当然ソビエットの経験から、計画経済を施策の中に取りいれようとしたわけである。
毛沢東にとっては、中華人民共和国を誕生させた次のステップは、ソビエットとの友好善隣外交を取りつけることにあったので、翌年彼はモスクワに飛んで、スターリンの70歳の誕生日を祝福するというゴマすり外交に荷担したわけであるが、スターリンの方は最初から毛沢東を蔑視していたものだから歯車が噛み合わず、切歯扼腕していた。
ところがイギリスの報道機関が「モスクワを訪問した毛沢東が拉致された」という誤報を世界中にばら撒いたものだから、ソビエット側も毛沢東の扱いを無視できなくなり、会議のテーブルにつくようになったわけである。
それで出来たのが中ソ友好相互援助条約であったが、この条約も表面は中ソが対等の立場のようにカモフラージュされてはいるが、実情は旧ロシア時代の植民地支配をそのまま残した内容のものであった。
というのも、この条約には2つの密約があり、その内容が暴露されたのはソビエットが崩壊した後で、ソ連の外務省にあたる部署の内部文書が公開されて始めてわかったわけである。
それまでは秘密のベールに包まれていたわけである。
その2つの秘密条約は、ひとつは東北いわゆる旧満州の利権と薪彊ウイグル地区の利権であり、ひとつは有事の際にはソビエットの軍事物資を鉄道を使って移動させるというものであった。
これは完全に主権国家の主権を侵すことであったが、目の前にぶら下がっている援助金に目がくらみ、中国側としては呑まざるを得なかったわけである。
ここでも貧乏なるが故に屈辱さえも跳ね返せない、という人間の生き様の縮図があったわけである。
いくらお山の大将でも、目の前に金を見せ付けられれば屈服するほかなかったわけである。
共産主義者といえども、金なしでは党を結束させる事が不可能である、と云うことの証左でもある。
もっとも、この場合は、党の利害というよりも、党を超えた中国全人民の、という大儀というものは成り立っているわけである。
中国側としては、目の前の金も欲しかったが、その前に共産主義の先輩としての政治の、つまり人民統治のノウハウも欲しかったに違いない。
しかし、毛沢東が新生中国というものを誕生させるまでの間には、同じ中国共産党内でソビエットからの留学生出身の党員とのすさまじい権力抗争を経てきているわけで、今更ソビエットに政治のノウハウを聞くというのもおかしな事である。
第1ソビエットの方は、中国人というものを頭から馬鹿にしていたわけで、どんな馬鹿にでも、共産党員であって革命を欲するものならば金をバラ撒くというのが、国際共産主義の基本的なスタンスであったわけである。
ソビエットの共産党というのは、基本的に都市労働者を前提としており、それに反し、中国共産党というのは先の長征でもわかるように、農村を主体とした共産党である。
党の基盤の相違を考えれば、その後の結果も当然推測されてしかるべきであった。
それでも毛沢東ら中国共産党の首脳部の選択した道は、ソ連型の都市労働者を基盤とした社会主義計画経済の道であったわけである。
第1次5ヵ年計画というような大プロジェクトというのは、工業化を前提とした発想で、そのための基盤がないところでは画餅にすぎない。
そしてこれも、人間が人間の英知で練り上げた思考の上に書かれたユートピアの一種なわけで、そこには人間の本来持っている欲求というものを全く考慮にいれていない、という矛盾がある。
その後の中国において、その共産主義の実践の場でしばしば散見されるように、同一労働、同一賃金であれば、人は皆一生懸命働くと思うと、結果はその反対で、誰も働かなくなってしまうわけである。
農村で、共同で収穫したものを皆に平等に分配するとなると、誰も一生懸命働かなくなってしまうわけである。
これが人間の持って生まれた欲求の具現化であって、共産主義というものは、この人間の持つ醜さというものを考慮に入れず、綺麗ごとばかりを羅列しているものだから、計画倒れに至るわけである。
第1次5ヵ年計画というようなものは、ソビエットや中国という近代化の遅れた地域では必然的に湧き上がる傾向があるが、これはいわゆる近代化を一刻も早く達成したい、という一種の焦りなわけで、それは統治者が自分達は西洋先進国から一歩も二歩も遅れているので、一刻も早くそういう国に追い付かねばならない、という焦燥感がなさしめたわけである。
近代化した先進国というのは、一気に近代化をなさしめたわけではなく、人々の意識が徐々に精神の近代化を達成し、それに付随して物質文明というものが成長した結果として現代というものがあるわけで、それを国家の首脳が手取り足取り、上から指令を出して管理・監督して達成出来る筋合いものではない。
近代化を受け入れるには、それにふさわしい大衆の存在というものがなければそれはありえないのである。
国家の首脳のみが意識改革したところで、大衆の方がその意識改革を受け入れる条件を備えていなければ、それは空回りになってしまうわけである。
そしてその事は、近代化ということが国家の方針となれば、当然工業化を目指す路線を踏襲するということになる。
今までの歴史を見てみれば、旧ロシアや、旧体制の中国で、工業化というのは望み得るものではなかった。
あの広大な土地に散在して、自然とともに起居している人々を、近代化した工業地に連れてきて、工場従業員として使うことは考えただけでも不可能である。
工業の発展というのは、無知蒙昧な大衆にとっては不可能なことで、工場で働く人というのは、最低限、読み書きソロバンということが出来ない以上、工場従業員としてはなり立たないわけである。
農業とか漁業というのは読み書きソロバンという事を知らなくても成り立つ業界であるが、近代化した工業というのは、それでは不可能なわけで、人々の教育のレベルがある程度要求されるわけである。
日本がアジアの中で近代工業に突出できたのは、こういう国民の教育の普及というものが一般化していたからで、それが大きな要因になっていたという事を知らなければならない。
毛沢東が新生中国において、「5ヵ年計画が必要で、それを遂行しなければならない」と思った事は、自らの国が遅れている事の確認でもあり、一刻も早く近代化した諸国に追い付かねばならない、という意識の覚醒でもあったわけである。
この時点、つまり第1次5ヵ年計画を実施する時点で、世界の情勢というのは既にアメリカもソビエトも原子爆弾を持ち、冷戦は激化しており、日本は敗戦後の復興に向かいつつあったわけで、昔の西洋列強というのは、戦後の疲弊でアジアでの力を喪失していたわけである。
第2次世界大戦というものは、19世紀以降の世界の色分けというものをご破算にしてしまって、新しい色分けが出来つつあったわけである。
その中で、中国が一気に近代化に向かおうとして、5ヵ年計画というものを実施し、近代化を達成しようと思うのも無理ないことではある。
しかし、これを統治者が上からの圧力で推し進めようとしたところに無理があったわけで、それを達成する為には、一定の条件が必要であったにもかかわらず、それに気付かなかったのである。
それというのも共産主義というものが基本的に内在している党の独裁という点にその原因がある。
こういう体制では他の党、つまり野党の存在という事を認めないので、その思考が唯我独尊的な発想に陥ってしまうわけである。
計画に対して批判するという行為が禁止されてしまっているので、計画にいくら危惧があっても、それを指摘し、改善する事が出来ない。
弓から放たれた矢のように、一度独裁者がゴーサインを出したことは誰も止める事が出来ないわけで、とことん最悪の結果が出るまで行き着いてしまうわけである。
工業化の基本は鉄の生産に始まるわけで、鉄というものは人間が有史以来かかわりあってきた素材であるが、これも近代工業が欲している品質のものを作ろうとすれば、石器時代の人間が行っているような手法ではダメなわけで、その作るべき品質に応じた製造方法というものを取り入れない事には、近代的な製鉄とはいえないわけである。
このことはあらゆる産業にそのまま通じる事で、20世紀に至るまで、中国の人々というのは、その事に気が付いていなかったわけである。
その為には、国民の多くの人々が、異文化に接するという機会がなければ、その為の覚醒というものが起きないのではないかと思う。
日本に鉄砲が伝来したのは1543年の事で、ペリーが黒船で浦賀に来たのが1853年の事である。
日本は鎖国をしていた時期があるとはいえ基本的に海洋国家なるがゆえに、異文化に接する機会は多かったので、それを体験した人々も多かったわけである。
異文化に接すると、自分たち以外にもいろいろな発想があり、生き方があるということを体験し、模倣し、意識の覚醒がおきるわけであるが、それは中国でも同じであろうと思う。
しかし、中国というのは奥行きが深いわけで、奥地に住む人々にとっては、こういう体験が少なく、有史以来の生き方からの脱却の機会が少なかったというのも事実であったに違いない。
毛沢東によって第1次5ヵ年計画の基礎として鉄の生産が奨励されると、それが漁り火のように中国全土に広がったわけであるが、このように毛沢東という指導者の一声が中国全土に一斉に広がる状況というのは、今までの中国にはない現象ではなかったかと思う。
これには大衆の間にマス・コミにケーションがかなり広範に普及している、という事でもあり、共産主義革命そのものが、こういうマス・コミニケーショの所作であったに違いない。
日本は異文化に接する事によるカルチャー・ショックを経て、文明開化というものを達成したが、中国においても文明の浸透は海岸部から内陸部に徐々に染み渡っていったわけで、時代は既に20世紀に入っているのだから、それも当然といえば当然のことである。
しかし、マス・コミニケーションの発達で、指導者の号令が国土の隅々にまで到達する、ということは新しい政治状況を生み出したわけである。
それは指導者の政治的誤りも、フィルターを通る事なく浸透してしまうので、その誤りがモロに国民なり、住民なり、大衆の犠牲となって現れてしまうという事である。
それがこの製鉄の奨励にみる全国的な製鉄ブームというものである。
共産主義国家の建設に酔いしれて、農地解放で地主から土地を取り上げた農民は、毛沢東を神様のように慕い、その神様の奨励する製鉄に血道を上げたわけである。
ところが、この製鉄というものが、近代的な製鉄所を作って時代の要請に応えうる品質のものではなく、鉄であればなんでも良いという発想でもって、原始時代の製造法で、各村村で勝手に作ることを奨励したものだから、出来上がったものは使い物にならなかったわけである。
「鉄を作れ」という命令に従って作るはいいが、「鉄であればなんでも良いだろう」という発想は無責任極まりない事で、これが一般大衆というものが無理やり強いられた行動に対する本音であると思う。いわば開き直りである。
それはただただ資源の浪費と、労力の浪費と、環境の破壊だけが残っただけであった。
これは20世紀において、無知蒙昧な大衆がマス・コミニケーションに踊らされて、特定の指導者に盲信盲従した結果である。
ところが、この事実は戦後の日本では話題になることはなかった。
日本でその当時話題になったことといえば、人民公社の成功の話であって、中国全土で鉄の生産が奨励され、それが失敗に終わった、という話はほとんど聞くことがなかった。
この時代、戦後の日本のマスコミというのは共産主義者乃至は社会主義者であらずば人であらずという風潮が蔓延していたわけで、そういう環境下で共産主義国の失政については何一つ伝達しなかった。
人民公社の成功というのは、共産主義のユートピアの実現という側面を内在しているので、この話は日本でもしばしば聞かされていたが、これも後から検証すれば、その大部分が眉唾物で、そのほとんどが誇大報告の結果であったということが判明した。
人民公社というのは、ソビエットのソホーズやコルホーズに匹敵するもので、いわば運命共同体として村毎、共同生産をし、共同消費をするというものであるが、その中でも各自で食事をする事を否定して、共同食堂で一斉に食事をするというシステムがその成否を分ける境目であったようだ。
人間というものは、人類の誕生以来、家族を社会生活の必要最小限の単位としているわけで、その単位を村毎、町毎という大きな単位にすれば、その中の人々にはプライバシーの維持が出来ず、フラストレーションが起きる事は必然である。
よって、それを人間の幸せの具現化であると思い込んでいた共産主義というものは、その後そういう夢を捨てざるを得なくなったわけである。
人民公社を作って、その中で人々は共同で植付けをし、共同で収穫をし、皆で均等にそれを分配すれば、まさしく人の世のユートピアが出来あがって、人々の不満は解消するはずであった。
ところが人間というのは、そういう現実を受け入れようとはしなかったわけで、これらの人民公社というのは、あくまでも一種の実験で終わってしまった。
そもそも共産主義社会というもの、社会主義国家というもの、そのもの自体が壮大な実験であったわけで、その実験台にされた人々はたまったものではない。
共同で植付けをし、共同で収穫をし、それを均等に分ければ、人々に不満はないはずである。
ところがこれは人間の善意を前提とした完全なる思い込みに過ぎなかったわけである。
この世に生息している人間という種には、善意の人ばかりではなく、狡猾で、悪意に満ちた人もおり、利己的で自分さえ良ければ他人の事などあずかり知らぬ、という輩も掃いて捨てるほどいるわけである。
そういう人々をひっくるめて、十束一括りにしてユートピアを作ったとしてもうまく行かないのは理の当然である。
そして、その人民公社の生産活動を競争させたものだから、競争の結果として、誇大報告がまかり通るようになってしまったわけである。
誇大報告という事は一言で言えば嘘の報告で、出来てもいない事をさも成績達成したかのように報告したわけで、それの裏づけも取らずに発表する方もどうかしているが、現実にはこの嘘の報告が罷り通ってしまったわけである。

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