その13 日本の崩壊と中共の誕生

「夢を食う獏」としての中国の人々

5・15事件、2・26事件を引き起こした軍人・兵士たちというのは、いわゆる日本の当時の標準からいってもあまり豊かでない環境で育った若者であり、その心的環境には共産主義に通じるものがあったわけで、「問答無用」といって政治の首脳部を抹殺する思考というのは、革命の発想と本質的に同じなわけである。
あの時の青年将校の頭の中には、共産主義の対極にあるはずの天皇制を信奉しているつもりで、彼らの行った行為というのは、共産主義革命であったわけである。
その革命が全国規模にならなかったのは、日本の国民が冷静に対処し、軍の指導者達が革命と保身を秤に架け、保身の方に動いたからに他ならない。
この政治家達の弱音と、軍首脳の保身が功を奏して、実行者に対する処罰が毅然たるものでなかったので、その後の軍の独断専横が普遍化してしまったわけである。
昭和天皇はこれらのクーデターに対し、毅然たる態度で望もうとされたが、やはり天皇を取り巻く官僚というか、取り巻き連中というのが、天皇の意思をスポイルしてしまったわけである。
その意味において、昭和天皇というのは、戦争の責任を逃れらないように私は思う。
昭和天皇は自ら統帥権を持っていながら、その権利を決して使おうとはなさらなかったが、部下、臣民の監督という面では大いに甘い所があったわけで、部下の監督という面では、立憲君主に順ずるよりも専制君主として強権を発動された方が、その後の日本にとって幸せだったのかもしれない。
20世紀の初頭から、特に昭和の初期の日本の中国進出というのは、大日本帝國陸軍の独断専行以外の何物でもなかったわけで、天皇陛下というのは常にそれを牽制していたにもかかわらず、統帥権を盾に軍部が推し進めてしまったわけである。
政治家がこの軍部を押さえきれなかった、というのはやはり明治憲法の不備としか説明がつかないし、明治憲法の不備をわれわれ日本の国民、臣民の側から改正・改革できなかったという意味では、歴史の流れとしか説明がつかない。
明治憲法を金科玉条とした為、それを見なおし、不備を是正する事はたちまち天皇制に手を加える事になってしまい、我々は身動きできなくなってしまったわけである。
これと同じ状況が今日でも生きているわけで、戦後の日本国憲法を少しでも見なおそうとすると、たちまち反平和主義のレッテルが貼られ、軍国主義とされ、平和を乱す思考と烙印を押されてしまうわけである。
日本国憲法を金科玉条として、それに手を触れることは一切まかりならぬ、という発想は戦前の明治憲法を金科玉条とした経緯と全く同じである。
こういう状況は、その後の中国共産党の中にも同じような現象として表れてくることになるが、それまでの間に中華人民共和国の誕生の物語を述べなければならない。
日本の軍部の極めて独善的な侵略に対して、中国共産党と蒋介石の国民党が手に手を携えて抵抗する事は致し方ないことであり、中国の人々に、愛国心とか祖国という概念が少しでもある以上、当然の事である。
私の主観では中国人に愛国心や祖国愛があるとは思わないが、ただただ「日本憎し」という感情は根絶しがたく内在していたと思う。
そしてそれだけの事は我々はしてきた。
が、しかし、この大戦の終了の仕方という点では、実に不可思議な戦争の終結だと思う。
日本はポツダム宣言を受諾して、連合国側と戦争終結の条約を取り交わしたわけであるが、中国戦線において日本軍というのは、点と線だけを維持していたとはいうものの、日本の軍隊が中国の軍隊から海、東シナ海に突き落とされたわけではない。
1945年、昭和20年の8月の時点で、中国戦線においては日本の軍隊というのは交戦能力はまだまだ維持していたわけで、いずれソビエット軍が中国東北部、いわゆる満州方面からに進駐してくるとしても、この時点ではまだまだ交戦能力はもっていたわけである。
にもかかわらず、天皇陛下の詔勅が発せられるやいなや、日本軍が戦う事をやめてしまったわけで、戦う事をやめた人間に対しては、いくら旧式といえども武器を持っている方が強くなるわけである。
1973年のアメリカのベトナム撤退というのは明らかにアメリカ軍が共産主義勢力によって海に突き落とされた状況であり、1945年の日本の状況とは異なっている。
しかし、アメリカもベトナムで戦争に負けたわけではないと思う。
アメリカはベトナムに対して、日本に対して過去に行ったように原爆を使ったわけでもなく、地上兵力を引揚げただけの事で、南ベトナムという何ともかんとも管理のしようのない人々を援助する事を止めただけのことで、アメリカ本土にはベトナム人の作った爆弾一つ届いていないわけである。
日本のマスコミはこの時、アメリカは「ベトナム戦争で負けた」という表現を使っていたが、これは論理的な矛盾であって、この時代のマスコミ関係者というのは世界的な規模で左翼政権に好意的であったからである。
日本が日中戦争で負けたというのもこれと同じ論理で、日本は天皇陛下の詔勅で自主的に戦う事をやめてしまったわけで、中国の軍隊に殲滅させられたわけではない。
しかし、こういう状況になってみると、つまり日本という敵国の存在が消滅してしまう状況が起きると、逆に彼ら中国の側もいささか困った状況が起きていたに違いない。
共産党と国民党の共同の敵というものが戦う事止めてしまった以上、彼らは共闘する目標が亡くなってしまうわけで、又お互い同志で戦わなければならなくなってしまう。
事実、その後、歴史はその通りの軌跡を歩んだわけで、その過程において旧日本軍の処遇に頭を悩ましたに違いない。
彼らにして見れば過去の恨みを晴らしたい、という極めて人間的な感情も当然あるわけで、その反面日本軍の能力を少しでも自分の陣営に有利に利用したいという願望も捨てがたかったわけである。
過去の恨みを晴らす、という行為は極めて人間的な普遍性を持った行為だと思うし、事実、その場で報復を受けた日本人も数あるわけである。
戦後の極東軍事裁判、いわゆる東京裁判という、連合国合同の報復行為とは別に、日本軍の戦闘行為の行われた地域で、勝った側と称する人々が、勝手に日本軍を裁いた報復行為というのも数多あるわけであるが、勝った側とすれば、そういうものは総て戦闘中の行為にしてしまえばそれで済んでしまうわけである。
日本軍が勝手に作った満州国にはソビエト軍が進駐し、旧日本軍の軍人は、民間人を放り出して自らさっさと逃亡してしまい、後に残された民間人は塗炭の苦しみ、筆舌に尽くしがたい辛苦をなめさせられたわけであるが、そこに持ってきて中国人の報復行為が日本の同朋に待ちうけていたわけである。
こういう状況下において、毛沢東率いる中国共産党というのは勢力の拡大に血道を上げていたのである。
満州からの引揚げという点に関しては、日本政府もその後の調査で幾ばくかの弔慰金を出し、保護し、フォローしているが、問題は、日本の旧軍人達が民間人を置き去りにして、自らが真っ先に逃亡した事による日本人の側からの告発がないことである。
近年日本の政治家の間で、日本の戦後処理、戦後補償が不充分であったと言う事が話題になっているが、日本人が日本人になした仕打ちに対して、我々の同朋の中から一向に告発の運動が起きてこないのはどういうわけであろう。
それでいて旧軍人というのは軍人恩給というのを末永く受給されていたわけで、その点の矛盾を追求する人が一向に現れてこないというのも不思議な事である。
中国の側が日本との戦争に勝った、という言い方はどうにも納得しかねるが、世の中の評価というのは、既にそういう言い方に固まってしまった。
日本軍は天皇陛下の詔勅で一斉に武器を置いてしまったが、その武器が今度は中国人同志の殺戮に使われたわけである。
毛沢東の中国共産党というのは、この時点でもまったく評価されておらず、アメリカもソビエットも、中国の正統政府というのは国民党政権と認識していたのである。
この時点で、ソビエットのスターリンがまったく中国共産党というものを信頼していなかったいうのは実に不思議な事であるが、それは共産主義者に共通する疑心暗鬼がそうなさしめているように思う。
こういう共産主義者というのは、人間の理性とか、信頼関係とか、信義とか、倫理というものにまったく価値観を置かないわけで、有るのはただただ党の栄達のみで、党だけが生き延びれれば、後は野となれ山となれで、それに付随する国民、人民、大衆というのはまったく眼中にないわけである。
ソビエットのスターリンが毛沢東の中国共産党にまったく冷淡であったのは、ヤルタにおける密約で、これを守る事がソビエットの国益に益するからであったわけである。
蒋介石の国民党政府、中華民国というのは、国際的にはかなりの信用度があったわけで、連合国の一員として、日本との終戦条約に調印したのも蒋介石の中華民国であったわけである。
極東軍事裁判、東京裁判の判事にも中華民国からは代表が出ているわけで、その経緯から見ても、中国共産党というのはいかにも信用がなかったわけである。
1945年、8月、日本が戦う武器を置いた時、満州にはソビエット軍が進駐してきたわけであるが、この時点でソビエト軍というのは日本の権益をそのまま継続してしまったわけである。
満州、中国東北部の人々にとってみれば、支配者が日本人からソビエット人に変わっただけで、社会のシステムが大掛かりに変化したわけではない。
そういう状況を虎視眈々と狙っていたのが毛沢東の中国共産党で、日本がいなくなってしまった空白の地に、どんどんと共産主義者を送り込んで、国民政府軍が進出してくる事を拒んだわけである。
その意味からすれば、毛沢東の戦略というのは非常に巧妙で、国共合作を上手に利用して、共産主義者を上手に展開せしめたわけである。
よって、ソビエット兵が引揚げた後の満州、中国東北部というのは、まっかっかに染まってしまっていたわけである。
そもそも国民政府の軍といい、中国共産党の軍といったところで、これらはあくまでも近代的な主権国家の軍隊ではないわけで、いわば軍閥の私兵の域を出るものではない。
中華民国誕生の頃、中国全土に広がっていた軍閥というものが、この二つに集約されたようなもので、近代主権国家の近代化された軍隊とはその内容を異にする。
中国ではその全土を統括する主権というものが今日に至るまで存在するかどうかさえ大きな疑問であり、今日でも台湾の問題が解決されない限り、中国の主権ということは成り立たないように思う。
そういう経緯から、第2次世界大戦が終了した翌年には、中国共産党というのは中国東北部で絶大なる勢力を持つに至ったのである。
だが不幸な事に、これらの内紛、内戦というのは同胞同志が相争ったわけで、外国の軍隊を放逐するという民族解放戦線とはその性質を異にしていたわけである。
抗日戦というのは、全中国の人々にとって立派な大儀名分が成り立つが、国共の内戦にはその大儀がないわけである。
中国の本土において、毛沢東がその勢力を拡大せしめたということは、彼の戦略が優れていたということになっているが、毛沢東にして見れば何も失うものがないわけである。
彼の率いる軍隊というのは全くの無手勝流で、兵器を買う金も必要なければ、食料を購入する金も必要なく、兵士達に支払うべき金も必要なかったわけで、ただただ彼らを戦争に駆り立てる心の拠り所には、革命の成就があるのみで、革命の後には誰でもが幸せになれるユートピアがある、という夢だけでよかったわけである。
無知蒙昧な中国の大衆に、「夢を食う獏」の役割を演出せしめた、という点では彼の功績というのは絶大なるものがある。
中国の旧体制においては、中国の民衆は全く夢が持てなかったわけで、その意味では彼の行為というのは賞賛に値する。
ところが共産主義というのは常に革命をしつづけなければ成り立たないわけで、人々はある程度の生活水準に達すると、もう革命の終焉を欲するようになるわけであるが、それは同時に社会主義乃至は共産主義の終焉でもあるわけである。
日本が満州の地から去り、ソビエット軍が去ると、後に残ったのは中国共産党の地盤としての中国東北部があるだけで、この状況というのは蒋介石にとってははなはだ面白くなかったわけである。
ここに再び国共内戦が復活してきたわけである。
国民党と共産党というのは何度も手を結び、そしてその回数だけ分離したわけである。
そしてその度毎に大勢の人々が犠牲になったわけであるが、今日、その犠牲について批判の声もなければ反省の色もない。
今現在、中国の政権を担っているのは明らかに中国共産党の方であるが、彼らも過去に侵した自分達の業績に関し、都合の悪い事は綺麗さっぱり忘れてしまって、自分達に取ってあたりさわりのない、そして相手国から何がしかの利得を得られそうな事項についてのみ声高に叫んでいる。
そして、自分達が犯した殺戮に関しては、「革命のため」という一言で全部清算してしまっている。
けれどもいくら革命に大儀があるとしても、人を殺しておいて、しかもそれは敵対する人々ではなく同胞を殺すという事は、人の倫理に反するが、革命のためには人の倫理も吹き飛んでしまっていたわけである。
中国共産党の軍隊というのはいわゆる正規軍ではないわけで、皆が皆軍服を着用しているわけではなく、市井の市民と同じ服装をしているので、どれが共産党軍の兵士で、どれがそうでない一般市民か、と云うことの峻別が全くできなかったわけである。
そういう状況においては、それに対抗する勢力の側は村ごと皆殺しするほかないわけである。
そういう状況を踏まえた上で、中国共産党というのは、これらの軍隊を人民解放軍と呼称を変えた。
これはもう一方の国民政府軍に対抗し「人民を開放するものだ」という印象を植え付ける為の措置であろうが、共産主義の成立過程においては、その為の暴力は総て人民解放という大儀名分に集約される。
社会的な成熟度の低い所では、この「人民解放」という字句は非常な説得力を持ちえる。
社会的な成熟の度合いが高いところでは、解放の後に何が出来るか、と言う事が主題になるはずであるが、成熟の度合いが低い所では、とにかく現状を壊す事にのみ情熱が傾注されてしまい、その後のことは考慮されずに済んでしまう。

国共の内戦

中国共産党の赤軍が、人民解放軍と呼称を変えると同時に、毛沢東は土地法大綱を交付して、人民に土地を分け与えた。
これも大いなる改革であると同時に、一種の人気取りでもあったわけで、その上共産党というのは何も失うものがなかったから、土地をいくら解放しようとも、得られるほうの見返りのほうが大きかったわけである。
日本でも戦後、GHQが農地解放を実施したが、その時も地主の反乱などは起きなかった。
中国においても、共産党が武力を背景とした脅しの中で農地解放を実施したとしても、その事による地主の反乱ということはありえなかった。
これが軍閥の跋扈していた時代ならば、当然軍閥の反乱という事はありえたであろうが、世の中というのは既にかなりの広範囲に共産主義というものに侵食されていたわけである。
共産主義が国民を懐柔する手段として、農地解放を使うことは、彼ら共産主義者の常套手段なわけで、地球上のあらゆる共産主義国家が総て同じ手法を行っている。
共産主義というものが農地解放によって農民の支持を取り付けなければならなかったということは、近代における市民社会のシステムの発達が遅く、封建制度から重商主義を経て、初期の商業主義へと到達する過程が抜け落ちていたという事である。
近代化した西洋というのは、封建制度からとうの昔に脱却し、重商主義としての植民地支配を経て、近代化した市民としての意識が醸成されていたわけで、産業別の近代化が既に達成されていたわけである。
日本も第2次世界大戦の終了によってはじめて農地解放というものが実施され、それゆえ農民は封建制度から解放されたわけであるが、我々の日本の場合は、戦争に負けたが故に勝者によってそれが成された。
中国の状況も、共産党と国民党の覇権争いの結果、共産党の方が勝利を納めた結果ということが言えない事もないが、その意味からすれば、整合性のある措置ではある。
この農地解放ということは、農民にとっては非常に有り難いことで、農民の側からすれば、労することなく土地が手に入ったわけで、これほど有り難い措置も又とないわけである。
けれども、この措置もその後の歴史の変遷を見ると、ただただ農民を喜ばしただけではなく、新たな農民の悩みを内在させていたわけである。
この過程もソビエットの場合と酷似している。
しかし、一時的にも、農地解放をした事によって、農民の支持を得た事は事実である。
そういう状況に対して、国民党の蒋介石というのは、何も成す術を持たず、ただただアメリカの軍事援助に頼るのみで、その思考に何ら新しいものがなかったのである。
よって中国大陸の大半が共産主義に帰依してしまったわけである。
一方、共産主義を信奉する人民解放軍というのは、農民という大衆を味方につけ、あらゆる場面で国民政府軍よりも有利な立場に立った。
毛沢東の戦略というのは、相手が強ければ撤退し、弱ければ押しまくる、というもので、これは明らかに無手勝流で、何も失うものがないから出来る手法である。
相手が強ければさっさと撤退する、ということは戦略としては当然な事であろうが、そこにいる市民、国民、大衆、老若男女の存在をどういうふうに考えているのか、という事を問いたい。
毛沢東のしている戦争・内戦というのは、正規軍同志の日本海海戦とか、ミッドウエイの海戦とは違って、一般市民の混在している領域内で行われている革命闘争なわけで、一般市民の存在という事を毛頭、念頭においていない手法である。
自分達は一般市民と同じ格好で国民政府軍に夜撃ち朝駆けのゲリラ戦をしておいて、相手が反抗してくれば、一般市民を放り出して逃げるという事が、倫理的に許される事であろうか。
主権の延長としての戦闘では、お互いに軍服を来た者同志が、一般市民を遠ざけた戦場で雌雄を決したわけである。
第2次世界大戦というのは、こういう古い武士道的な戦争というものを否定してしまって、戦闘員と非戦闘員というものの峻別がなくなってしまった。
つまりこれは戦争の合理化であり、古典的な戦争の消滅でもあったわけである。
ゲリラ戦というのも、その意味では新しい戦争ということが可能である。
戦争である以上どんな手法を使おうが勝った方が有利であり、その為の施策が政治でもあり、そうでなければならない。
それを考えれば、毛沢東の戦法もある意味では有効であるが、ただ彼の発想の中には、「共産党員でない国民はただの虫けら」であるという思考は抜けきっていない。
階級闘争と名うっている共産主義も、一皮むけば、自分達もその階級に胡座をかいているわけである。
農地解放で中国の人々は皆平等になったとは言うものの、これで中国の農民が心身ともに解放されたわけではなく、土地は自分名義になったかもしれないが、作物は自分勝手に売買したりできないわけで、その頚木から脱していない以上、地主が変わっただけの事である。
「農地をお前にやったから、作物は何を作ってもいいし、それを自分たちで勝手に売買しても良いよ」と言うわけではない。
しかし、土地の名義が自分のものになる、という事で農民達には大受けする事は確かであった。
こういう農民の支持のもと、中国共産党は国民政府軍をだんだんと窮地に追い込んでいったわけである。
世の中の歴史書というのは、その大方が治世者の歴史であり、誰が何を言って、どういうふうに行動したから、こういう結果になった、と云うことの羅列であるが、共産主義が勢力を伸ばした過程というのは、そう云う物の見方では成り立たないように思う。
中国という広大な土地に畑を耕している人々がおり、遠くで旗はなびかせて戦争をしている。
戦いに敗れたものが逃げ込んでくると、ある時はそれを殺し、ある時は夜陰にまぎれて戦場に行って自分に役立ちそうなものを拾ってくる。
形勢の強そうな方にまぎれ込んで、自分もその一員になってしまう。
その一員にまぎれ込んでしまえば、形勢が有利なうちは食うに困らないわけで、その反対に形勢が不利になれば、あっさり離脱してしまう。
ところが、そこにあるのが外国の軍隊だと、その一員に紛れ込むということができないわけで、どこまで行っても敵対関係のままな筈である。
それが国共内戦の現状ではなかったかと思う。
こういう状況下で、国民党の蒋介石は台湾に逃げてしまうわけであるが、ここにも大きな矛盾が存在しているはずである。

米ソの代理戦争

第2次世界大戦の終結で、台湾は日本の植民地支配という頚木から脱したはずのところに、何故に中華民国の亡命政府が逃げ込む事が出来たのか、という点である。
その事は、同時に、台湾にいた人々の自治というものが、その当時どうなっていたのかという点である。
台湾は有史以来、中国大陸と深い係わりを持ちながら生存してきた事は周知の事実であるが、それは日本といえども同じであって、近代に至って、日本とアジア周辺の地域の相違というのは、民族自決の意識の存在であるように思う。
同じ事は朝鮮半島に対しても云えるが、アジア大陸の周辺地域というのは、有史以来というもの中国大陸の影響下で19世紀までは生きてきたわけである。
20世紀の現代に至る過程において、それぞれに民族意識に覚醒し、民族自決の選択をし、その選択に成功した国と、成功出来なかった国が存在していたわけである。
第2次世界大戦の終焉ということは、そういうアジア周辺の諸国において、民族自決の最大のチャンスであったわけである。
国民党の蒋介石が台湾に逃げ込んむと言う事は、我々部外者にとっては、それほど関心の高いことではない。
しかし、台湾に元々住んでおり、日本に植民地的な支配をされていたと思っている人々にとっては、蒋介石が来るということは、再び植民地支配が再来するということではなかったのか。
台湾も中国の一部だから、そういう意識は毛頭ない、と言ってしまえば事は簡単である。
台湾が蒋介石を受け入れた、ということはそういうことであったに違いない。
そして、蒋介石をそこまで追い詰めた毛沢東の共産主義者達も、この台湾海峡を制する事ができなかったわけである。
このことは共産中国が如何に近代の戦争には弱いかということの証明である。
蒋介石というのはアメリカの援助でアメリカの近代化した武器を持っていたが、中国共産党の方では、台湾を征圧出来る武器、台湾海峡を渡る船、そのものを作ることができなかったわけである。
だから中国共産党の軍隊、中国赤軍、中国人民解放軍というのは、地続きの領域ならば人海戦術で、人の屍を乗り越えてどこまでも進軍出来るが、海という自然の要塞にぶつかると、もう先には進めないわけである。
そうは云う物の、中国大陸の大部分の地域では、中国共産党の天下になったわけで、そこでもって農地解放を行ったものだから、共産党と言うのは絶大なる信頼を得たわけである。
その意味では上手に民衆・大衆を手懐けたわけであるが、民衆の方では新たな統治者が交代しただけ、ということに気が付いていなかったのである。
それで1949年10月1日をもって、中国大陸というのは北京において中華人民共和国というものを誕生させた。
毛沢東率いる中国共産主義者達の大勝利であったわけであるが、その背後には共産主義の先輩としてのソビエット連邦の存在を無視するわけには行かない。
第2次世界大戦の終わりの時点ではソビエットはスターリンの世であったが、スターリンは蒋介石を贔屓にしていたにもかかわらず、それが台湾に追いやられてしまえば、必然的に毛沢東の方に宗旨変えをしなければならなかった事は論を待たない。
中国の人々というのは、民族の固有の潜在意識として、どうしても中華思想というものを払拭し得ないわけで、中国の共産主義者達も、ソビエットを参考にしつつもそのコピーになる事を極力避け、独自の方針を模索しつつあったわけである。
このソビエットを参考のした部分は、要するにスターリンの神格化の部分で、毛沢東自身、自分自身を中国におけるスターリンのような神格化した象徴としての存在になりたかったのではないかと思う。
その事は、共産主義といえども、人民・国民の統治に関して何か国体を象徴するイメージが必要であったわけである。
共産主義というものは、人間の英知がその全知全能を傾注して人間の頭脳で考え出した究極の哲学であったわけで、その中には何一つ不備な・不足な事柄というものは存在しない、という信念に基づいているが、権力の頂点に達してみると、自分自身の精神の拠り所として、神か仏のようなものが欲しくなったに違いない。
つまりシャーマニズムへの回帰である。
中華人民共和国というものが誕生したのは、日本が戦争を終えてからわずか4年後の事である。
この4年間という時間は、はなはだ評価のわかれる時空だと思う。
4年もかかったという評価もあるし、わずか4年で達成された、という評価もあると思う。
私の価値観から行けば4年という歳月は長すぎると思う。
日本が中国の地から撤退した時点で、中国は一つの主権国家として再生してしかるべきであったが、それが国共分離して、二つの国として今日に至ると言う事は、その国の国民にとってもはなはだ不幸な事だと思う。
ところが、この地に住む人々は、恐らくそんな事は考えていないに違いない。
そこが民族意識の希薄なところだろうと思う。
中国は広大な土地であるから、我々のような狭い土地に住む人間と違って、民族意識など毛頭ないのかもしれないが、それならば近代化した民主主義というものの芽、そのものが最初から存在しないという事に他ならない。
中華人民共和国が誕生して既に50年・半世紀が経過したわけで、その間の時空の中で、共産主義による民主主義というものが普遍化しているものとすれば、その国民は知的なレベルが向上し、知的レベルが向上すれば、現行体制と云うものの批判が当然沸騰してくる事は間違いない。
共産主義というものは、人民が無知蒙昧な地域では非常に効果を発揮し得るが、人民が知的に進化すると、人々は当然自分の願望とか欲望の実現を欲求するようになるわけで、そうするとその事が共産主義の脅威となるわけである。
わずか4年前の時点においては、ソ連のスターリンは連合国との頚木から国民政府の蒋介石を支持していたのに、その4年後に毛沢東の共産主義者達が天下を取ってしまうと、これを承認しないわけにはいかない。
それで中華人民共和国が誕生して1年後、毛沢東はソビエットを訪問して、スターリンから絶大なる賞賛を期待しつつモスクワの地を訪問したわけである。
毛沢東にして見れば、共産主義国の先輩であるソビエットは、中国の共産主義化を最大限に喜んで、絶賛してくれるという期待があった。
ところがスターリンの取った態度というのは案外冷めたいもので、毛沢東にとっては大いなる期待はずれであった。
これは明らかにスターリンの思い違いであり、判断ミスであったわけである。
スターリンという男も、その治世の間に大きな判断ミスを2つ犯している。
一つは例の独ソ戦を予測できずヒットラーを信用しすぎていた事と、もう一つはこの度の毛沢東を過小評価した事である。
この事はスターリンという男、すなわちソビエットの最高責任者といえども西洋人の一員という点から、西洋人に普遍的な傾向として、アジアを蔑視していたわけで、アジアが封建的な頚木きから脱することなどありえない、という思い込みから抜け出る事が出来なかったわけである。
それでも毛沢東はモスクワを訪問し、中ソ友好同盟相互援助条約を調印したわけであるが、これは今までの旧制ロシアが中国に持っていた利権の復活であったわけで、途中日本の進出で中断していたものの再構築であったわけである。
共産主義国の新生ソビエット連邦が、旧体制のロシア皇帝時代の利権をそのまま復活させる、というのもイデオロギー的に見れば大いなる矛盾なはずである。
ソビエットの共産主義者達は自分達が天下を取る過程においては旧ロシアが持っていた利権をあっさり放棄してロシアの国益を損ねておきながら、自分達が天下を取ったらそれを取り戻そうとしたわけである。
これが共産主義の本性であり、その後ソビエットではフルシチョフのスターリン批判が起こると、今度は中共の毛沢東が、このスターリンに固執するというのも実に不思議なめぐり合わせである。
中ソ友好同盟相互援助というのは、中国にとっては真に屈辱的なものであったに違いないが、生まれたばかりの共産政権では、それを受容するほかなかったわけである。
1945年の日本の敗戦・第2次世界大戦の終了ということは、地球規模で世界各地において大変革を誘引した。
中でもアジアにおいて共産主義国のソビエットに支配された地域と、アメリカに支配された地域では、その後の発展に大きな格差が残ったわけである。
中国はいわば自力で共産主義革命を達成したが、北朝鮮に至ってはソ連主導というほかない。
日本が撤退した空白の地に、共産主義が入り込んだ地域は真に不幸な道を歩む事になり、そうではない地域では発展的に経済が復興したわけである。
その結果が見えたのは、この時から50年という歳月を経た後であって、歴史の渦中においては、それが予見できなかったわけである。
新生、中華人民共和国というのは、新しいイデオロギーで武装はされたが、革命というのは常にスクラップ・アンド・ビルドを繰り返していなければならず、常に闘争という事を継続しなければ死滅してしまうわけである。
その為には常に戦争の火種を温存しておかなければならない。
それで始まったのが朝鮮戦争である。
中ソ友好同盟相互援助条約の締結が1950年の2月14日で、朝鮮戦争の始まったのが、その年の6月25日のことである。
その事を考えると、北朝鮮の南朝鮮への南下というのは、明らかにソビエット連邦の承認のもとで、暗黙の了解を取り付けた後の行為と思わざるを得ない。
この戦争は、第2次世界大戦後初の米ソ冷戦の代理戦争であったように思う。
少なくともソビエットというのは戦争の表面には出てきていないわけで、それに反し、アメリカは国連軍という錦の御旗のもとで表面に立って戦ったわけである。
後のベトナム戦争の嚆矢である。
この時の状況というのは、表向きは北朝鮮軍が38度線を越えて突如南に下ってきたというものであるが、その実体は、北朝鮮軍というのは名ばかりで、実質は中華人民共和国であったわけである。
そしてその背後にはソビエト軍がいたに違いないが、これが表面に出てこないところが非常に狡猾である。
一方アメリカの方は馬鹿正直に正面から韓国軍を支援しているものだから、目にもつき的にもされたわけである。
この中で北朝鮮軍と韓国軍というのは一体何をしていたのかといいたい。
同じ民族同志であるならば、同朋同志、戦わない方向に運動を展開しなければならなかったのではなかろうか。
それが米ソの御先棒を担いで、お互いに戦ったわけで、これが日本の統治を外れた朝鮮民族の実態だったわけである。
こういう民族に民族自決・ナショナリズムが有り得るであろうか。
1945年・昭和20年という年は、大日本帝国というものがこの地球上から消え去った年であるが、このアジアに君臨していた日本の影響というものが消滅して見ると、アジアには再び西洋の支配が復活してきたわけである。
確かに、旧帝國主義的な植民地主義というものは消滅したが、その代わり共産主義と資本主義というイデオロギーに武装された米ソ冷戦のどちらかに隷属する、という新しい形の西洋人の支配が勃興してきたわけである。
大日本帝国というのは、ある意味で、西洋列強の植民地の上に成り立っていた帝國主義というものを木っ端微塵に打ち砕いてしまった。
アジアの人々に真のナショナリズムというものがあったとすれば、この日本が打ち壊した西洋列強の帝國主義の後には、自らのナショナリズムによる、民族自決の道、民族の独立の機会というものを逃してはならなかったわけである。
ところが、日本というものが抜け落ちた地域に進入、進出してきたアメリカ及びソビエットというものが支配した地域は、この両者がそのまま新しい宗主国になってしまって、それがそのままその地域の民族支配の基底となってしまったわけである。
ソビエットに支配された地域はそのまま共産化してしまい、アメリカに支配された地域は、共産主義に揺さぶられながらも何とか自由主義陣営に踏みとどまりはしたが、それも時とともに共産化しつつあったわけである。
その状況を見るに付け、これらの地域では民族意識というものが全く皆無であったといわなければならない。
有史以来の人間の生存という事を考えれば、民族意識・ナショナリズムというのもごく些細な色分けに過ぎず、地続きの大陸に生きている人々にとっては、民族というものは融合を重ね、民族意識そのものが存在していないのかもしれない。
たまたま日本のように海に囲まれ、隔離された民族のみが、自意識に過剰に反応しているのかもしれないが、中国でも、朝鮮でも、旧の日本に対して敵愾心を持っていたことを考えれば、日本が戦争に負けた時点で、自らの民族統一をして然るべきである。
中国においても、中華人民共和国の誕生というのは、片一方に台湾の国民政府の存在がある以上、完全なる民族統一ではないわけで、ましてや朝鮮半島の現状というのも、民族統一とは程遠い有様である。
日本が戦争に負け、台湾と朝鮮から引揚げた後に、彼ら自身の統一国家が出来なかったということは、彼ら自身の問題であり、それは如何にナショナリズムが後退しているか、ということに他ならない。
新生中国が台湾を支配下に置けないということは、軍事的にも、思想的にも、如何に新生中国の力が弱いかという事である。
台湾海峡一つ渡る事が出来ないわけである。
それでいて台湾が独立する事を、言葉の上では牽制しつつあるが、現実には海一つ越せないでいるわけである。

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