その13 日本の崩壊と中共の誕生

共産主義・その13

貧困からの脱出願望

先に満州国建国の事を述べたが、この件に関しては主題より少々外れるが、私の所信を述べなければと思う。
昭和初期の段階で、日本の国内の事情と中国の事情では、それほど大きな違いはなかったように思う。
特に農村の貧困さというものに関して言えばほとんど同じレベルではなかったかと思う。
ただ貧困さにおいて同じレベルであったとしても、人々の意識の差というものは存在していたように思われてならない。
貧困の度合い、過酷な地主の収奪、貧困なるが故に娘の遊里への身売り、貧乏人の子沢山等々、貧乏という点では日本も中国も何ら変わるものはなかったに違いないと推測する。
ところが地勢的な条件で、日本の狭い地域社会というものと、中国における大平原の中の集落の在り方という点では大いに異なっていたわけで、日本の農村というのは今も昔も運命共同体的な結束があったが、中国においては隣村の集落というのはそのまま敵の存在に等しく、敵対関係にあったと想像される。
作物が豊潤に取れるときは何もトラブルは起きないが、これが一旦飢饉になると、隣村を襲って自らの命を食いつながねばならなかったわけである。
そういう事を考え合わせると、同じ貧乏でも意識の面では大きな違いがあったと想像しなければならない。
で、日本の方が先に近代化に成功してみても、日本の農村というのも一向に豊かになれなかったわけで、その事実を我々の側で自問自答してみると、日本は国土が狭い、という結論に達したわけである。
これは少し物事を理解し得るほどに成長した人ならば、誰でも納得し得る事実であった。
そして世界地図というものを見てみると、日本というのはチッポケな国であるが、中国・支邦というのは広大な領地を有しており、そこの住民というのはチャンコロで、自分たちよりも劣る人間が無為な生活をしているように見えたわけである。
この意識こそ我々の側の傲慢であり、慢心であり、不遜な奢りであった。
中国の広大な領地を我々の側で利用すればに、日中両国とも豊かになれるのではないか?、という思い込みこそ大いなる矛盾で、この目の前の現実を我々、日本人が行って改めなければならない、と我々の側の大部分の人は思っていたに違いない。
こういう認識が20世紀の初頭、明治から大正・昭和の初期の我々の側には潜在的に刷り込まれていたものと想像する。
これは天皇が言ったとか、政府が言ったとか、誰それが言った、という問題ではなく、意識として刷り込まれていたわけで、意識として満州は日本の生命線である、という認識に到っていたのではないかと思う。
問題は、天皇の軍隊であるところの旧帝國陸軍、大日本帝國陸軍、中でも関東軍の一部の軍人が、天皇の思惑を全く解することなく越権行為として、大日本帝國即ち天皇陛下、及び世界中の良識ある人々を欺いたというところにある。
20世紀の初頭、昭和の初頭において、我が日本の民主主義というものが未熟であったということは否めないが、それにしても天皇制をそれこそ実直に遂行すべき日本陸軍の内部から、それを否定するような行為者が出た、ということは我々は歴史上の事実として金輪際忘れてはならないと思う。
主権国家の軍隊が、外国に行って独立国を作ってしまう、という発想はあまりにも独創的でありすぎる。
植民地というのならば、西洋先進国の例もあるので、まだ納得出来るが、植民地的な傀儡国家といえども、独立国を作るというのはあまりにも奇想天外な事である。
植民地支配にしろ、傀儡国家の建設にしろ、内容的には変わらないわけで、植民地なら良くて傀儡国家はいけないという論理は今ならば通用しないと思うが、その当時の世界的な規範・倫理観ではこの時点でまだ整合性が存在していた。
しかも念入りに、旧清王朝の末裔を主権者として連れてきて、如何にもそれが今までの王朝を復活させたかのような体裁を整えるというのは手が混み過ぎている。
それと、ここに担ぎ出された宣統帝溥儀というのも信念がない。
彼は中国共産党の世になって再び失墜し、殺されはしなかったが監視付きで、飼い殺しの状態で生涯を全うしたようであるが、思えば気の毒な生涯であったに違いない。
これに関与したのは紛れもなく日本の帝國軍人、大日本帝國陸軍の軍人であったが、日本の政府と天皇はこれら軍人の行為を追認してしまったわけで、我々の側、政治をする側というべきか、国民の側というべきか、そういうものからの反論乃至は責任追及というものは一切無しで済ましてしまったわけである。
この状況を敷衍するに、やはりその背景には日本の人々の貧乏からの脱出、植民地獲得の為の整合性というものが暗黙の了解となっていた、ということがあったのではないかと思う。
戦後の民主主義では「人は皆平等」ということが声高に叫ばれており、差別は罪悪とされて久しい。
ここに一つの大きな落とし穴が潜んでいたわけである。
戦後の日本人にとっては、軍隊はその存在そのものが罪悪で、世界的には常識になっている軍隊は、政治の延長線上にある実力行使団体であるという論理を解そうとしない。
確かに旧日本軍隊というのは独断専行をして、よその国に自分達の傀儡国家を作ってしまったが、その日本の軍隊でも今日に立派に通用する点を併せ持っていた事も知るべきである。
それは「平等」というもので、赤紙一枚で召集された初年兵というのは、元大学教授であろうが、元浮浪者であろうが、元銀行員であろうが、見事に平等に扱われていたということである。
これは陸軍士官学校でも海軍兵学校でも全く同じで、そこには一切の社会的差別、経済的差別、氏素性による差別というのは存在していなかったわけである。
ここに大きな落とし穴があったわけで、差別がないという事は、本人の能力いかんで如何なる立身出世も可能なわけである。
「平等」で「差別」がなければなんでもかんでも良しとする今時の風潮からすると逆説的に聞こえるが、「平等」にも弊害がある。
全ての条件が平等であるとすれば、軍の機関としての学校という組織の中で人を評価する基準は学業成績しかなくなってしまったわけである。
人の能力には多種多様なものがあることは周知の事実であるが、学業成績というのはある意味で記憶力の競争なわけで、記憶力の良い人が有利になる。
すると人間性が豊かな人や、温かい心の持ち主や、他の経験が豊富な人というのは、点取り虫ではないという事で評価の際不利な立場に陥ってしまう。
記憶力のみ優れているが精神的には偏った人でも学業成績が良ければ優先的に評価されてしまうということになる。
それは学業成績のみで将来が大きく左右されるということであるが、平等ということを基調にすると学業成績という基準で人の評価をせざるを得ないわけで、それはある種の平等の弊害でもあったわけである。
。 今の受験戦争のプロット版とでも解釈したら良いと思うが、とにかく学業成績で立身出世が約束されるわけで、そこには本人の持つ品位とか、品格、愛情とか、暖かさとか、忠誠心というのは人事考課の対象にもならないわけである。
いくら心の卑しい人でも成績さえ良ければ要職につけるわけで、いくら部下思いで温かい心の持ち主でも、成績が悪ければ要職にはつけないわけである。
これが究極の差別のない世界なわけである。
ところで満州国を作り上げた日本の軍人達というのは、そういう段階を経て、それなりのポジションについていたからこそ、こういうことが可能であったわけであり、その潜在意識の中には、日本を貧困から脱出させたい、という遠大な希望があったに違いない。
ただたんに私利私欲でこういうことをしでかしたのではないと思うが、日本の窮状、貧乏からの脱出という事を願っていたとしても、それが世間から認知されなければ整合性が問われる事になる。
事実、国際連盟から派遣されたリットン調査団は、その整合性を認めなかったわけで、それは日本の独断専行であると認知していったわけである。
この時の日本の政府というのも、それが日本にとっての新たな植民地の獲得という欲に目がくらんでしまい、それを追認してしまった所に日本の禍根が残ったわけである。
関東軍の軍人が武力を背景として、力でこういう整合性のない行為をしたということの裏には、彼らの出身母体としての貧困の問題が潜んでいたように思う。
あの当時の日本の社会というものを見てみると、貧乏人は貧乏なるが故に上級の学校には進めず、貧乏人にただ一つ開かれた道は、全く差別のない平等に開かれた軍の機関の学校に入るしか教育を受ける機会が無かったわけである。
その事は、日本の数多ある小学校、中学校の中でも、一番優秀な生徒のみがそういう機関に入れたわけで、そういう人々が軍の中で立身出世をし、独断専行をする立場に置かれたわけである。
日本の貧乏人の優秀な子供が、軍の機関を優秀な成績で卒業し、軍隊内で立身出世をし、大勢の部下を引き連れて中国の地に降り立って見ると、その地はまるで無法状態で、その状況を目の当たりにすれば、この地を自分達の思いのままに管理すればきっと極楽浄土が出来るに違いない、と思い込むのもむべなるかなである。
その事は日本に取っても有益であるし、中国にとっても益するに違いないと思ったに違いない。

統治の為の象徴

ここで問題となってくるのが当時の日本の政治家の存在である。

不幸な事に、この時点では我々の側には民主主義というものが未発達で、シビリアン・コントロールという概念すら存在していなかった事である。
1930年・昭和5年、ロンドンにおける海軍軍縮会議で、若槻礼次郎全権大使がその軍縮案を承認してきた事に対して、政友会の犬飼毅が「統帥権干犯」として攻撃した事は、その後の政治状況を極めて不幸な方向に向かわせた。
この軍縮会議の結果を糾弾したのは政治家ばかりではなく、日本の大衆、一般国民、当時の有識者であった。
そのことは政治上の駆け引きであったわけであるが、駆け引き以上に深刻な状況をその後の日本にもたらしてしまったわけである。
つまり、天皇を政治に場に引き出して、覇権を競った、と言ったほうが良いのかもしれない。
統帥権というものの本質を犬飼毅は知らなかったのかもしれない。
統帥権というのは天皇が戦争するための権利で、主権者である所の天皇が、主権の行使として戦争をする為の権利であったわけで、政府つまり行政とは一応隔離されたものであったわけである。
天皇が「アメリカと戦争する!」と言った時、政府、つまり陸軍省と海軍省が天皇の意を汲んで戦争を遂行するという性質のものであったわけである。
軍備を増やしたり減らしたりする事は、予算を掌握している内閣の責任であるが、それは統帥権とは別の次元の問題なはずである。
昭和天皇は立憲君主たるべく努力されていたので、自ら「戦争する」などということは一切なかったが、統帥権というのは専制君主の為の権利であって、日本ではその時点でも既に死文化していたわけである。
犬飼毅は、その死文化していたものを引きずり出して、政府攻撃の材料とし、政争の具としたが為、それをその後軍人達が普遍的に使うようになってしまったわけである。
そのことは政党間の政権抗争に天皇を引きずり込んだという事に他ならない。
それは明治憲法というものがドイツの憲法を参考して作られたので、ドイツ流の絶対君主向けの統帥権というものが残ってしまった為であり、イギリス流の憲法を参考にすれば、もっともっとシビリアン・コントロールの発想に近づいていたように思われる。
天皇が戦争をするかしないかを決める権利と、軍備に関する国際条約では、まったく問題の次元が違うわけで、当時の政治家の中ではこの違いがどれだけ認識されていたのか大いに疑問がある。
こういう憲法上の文言を政争の具に引きずり出して、政敵をこき下ろすという政治手法は非常に政治家としてモラルの低い行為だと思う。
戦後の日本の政治の在り方を見ても、日本社会党及び日本共産党というのは、憲法9条を金科玉条として、日本の政治の外交という面を緊縛してきた。
憲法上の文言を水戸黄門の印籠のように表面に出されると、それはもう完全なる免罪符となってしまうわけで、人々はそれに対抗する力を失ってしまうわけである。
しかし、政治というのは生き物で、相手があるわけで、その相手というのは国内向きのものもあれば、国外に向いたものもある。
その双方の相手に対し、先方の出方に対応して臨機応変に対処しなければならないのに、その手を封じ込むのに、こともあろうに憲法上の文言を出されると、政治としての外交というものが死に体になってしまう。
その場では政敵を失墜させたかもしれないが、その後の影響という事を考えると、それが国を滅ぼす嚆矢となっていたわけである。
統帥権というものは、天皇が戦争をする権利であったわけで、軍人・軍部の側が自らの主張を通すべき筋合いのものではなかったわけである。
昭和天皇がいくら統帥権を持っていようとも、自分勝手に趣味で戦争をしたわけではない。
むしろ昭和天皇は平和主義者であったが故に、あらゆる戦争を回避する事を念頭に置かれていたにもかかわらず、20世紀の歴史が示す結果を招いたのは、軍人・軍部がこの天皇の統帥権というものを自家薬籠にしてしまって、自分の都合により、都合の良いように勝手に解釈し、その独断専横は留まる所をしらず、日本軍部のアメーバー的拡張主義に有ったわけである。
この軍人・軍部の拡張主義を阻止し得なかった当時の日本の政治というのは、やはり民主主義・デモクラシーの未発達という表現でなければ説明がつかないのではないかと思う。
その意味からすれば、今でも政治の場では民主主義・デモクラシーというものが未発達の状況であるが、第2次世界大戦の前の日本の状況と比べれば、国民・大衆の教育レベルが向上しているので、政治家に対する監視というものが厳しくなっている。
一部の官僚の独断専横というのは、国民全部の監視の目が光っているので、如何にも民主主義が普遍化しているように錯覚しがちであるが、我々、日本人の本質としては戦前と大して変わってはいない。
帝國陸軍の一部の人間が満州・中国東北部の軍閥・張作霖の支配していた地域において、その軍閥の張本人を殺してしまい、そこに元清王朝の末裔であるところの溥儀を引きずり出し、皇帝に据え、如何にも独立国然とした国を作ってしまうという行為は、明らかにどこから見ても整合性は見当たらない。
張作霖を支援して彼の国を作るというのならばまだ整合性があるが、そうではなくて、彼の土地を奪っておいて、正調の清王国を再現するというのでは全く整合性を見出せない。
中国人が怒るのも無理のない話であり、国際連盟だとて、そんな事を認めるほど甘くはないわけである。
これを内地に居る日本人の側から見ると、やはり軍部のした行為というのは、快挙に写っていたに違いない。
この意識のギャップと言うものが、その後の日本を奈落の道に導いた最大の原因だと思う。
大日本帝國の軍人が中国東北部において満州国という国を建設した、という事はその当時日本の国民の大部分の人にとって壮大な快挙として写っていたに違いない。
その背景にある心理というのは、これで日本も豊かになれるという潜在意識ではなかったかと思う。
戦前の日本というのが豊かでなかった事は事実であったが、このことは何も日本だけのことではなく、朝鮮も、台湾も、中国も全部が貧しかったわけであるが、そんな事はその当時の日本の大衆が知る由もなく、日本は西洋列強より遅れているので貧しいのだ、という意識に苛まれていたに違いない。
その意識のまま中国の地を踏んで見ると、中国の方が我々よりももっともっと貧しかったわけで、そこで我々は優越意識を持ってしまったわけである。
だから「こういう中国人を指導監督して、彼らを豊かにしてやれば、我々ももっともっと豊かになれるに違いない」という思い込みに陥ってしまったわけである。
他民族を指導すれば自他ともに豊かになれる、という発想はまさしく大東亜共栄圏の発想そのもので、それは西洋のキリスト教文明に対する対比でもあったわけである。
世界の近代史において、西洋列強というのはアジアにおいて帝國主義的植民地支配をしたわけであるが、その目的というのは端的に言って、富の収奪以外の何物でもなかったわけである。
彼ら西洋人としては、アジアの民を向上させよう、ヨーロッパと同じレベルまで民主化をすすめよう、という意識は毛頭無かったわけで、彼らにとって見ればアジアというのは、ただただ富の狩場に過ぎなかったわけである。
立場を変えて眺めてみると、この西洋の帝國主義的植民地主義というものを引っさげてアジアに来た西洋人を見るアジアの人々の視線というのは、紅毛碧眼の異星人を眺めるが如きで、自分と同じ人間という意識が全く無かったわけである。
だから中国の植民地で展開された光景の中には、白人の幼児にさえ卑屈になっている中国人の大人がいたわけで、そういう状況を見た日本人というのは、西洋人とは全く違う対応をしたわけである。
西洋列強と同じように中国の沿岸に進出した日本人というのは、その地に生活している中国人というのが我々と同じ肌の色をした人々であったが故、近親感も作用したとは思うが、西洋人のような不遜な態度は示さなかったに違いない。
ところが、日本人というのは個の存在と集団の存在では意識が180度変わってしまうわけで、いわゆる大衆心理という物が作用すると、黒が白になってしまうところがある。
「虎の威を借りる狐」ということは、日本人ばかりではなく、どこの民族にも大なり小なり存在するであろうが、我々の場合、個人と集団では行為も発想も逆転してしまうところがある。
そこにもってきて、明治以降の民主主義と富国強兵による人材登用に関し、平等主義というものが善とされるように変わったわけで、教育関係から軍隊の人材登用に関するまで幅広い領域で平等主義が普及した。
この平等主義というのは、戦後の日本人の意識では良い事の最たるものであるが、ここに大きな落とし穴があったわけである。
平等主義で、味噌も糞もいっしょくたにした組織というのは、悪い方の影響がモロに出てしまうわけで、良い方の影響というのは評価される事なく終わってしまうわけである。
1銭5厘の赤紙で召集された下級兵士たちというのは、どうしてもその行動が野蛮になりがちで、そういう人達が集団を組んで敵地の中に置かれた時、無用な恐怖心と過剰な自信が重なり合って、意味のない行為、人間の本能の赴くままの行為というものに走りがちである。
そういう人といえども、一人ならば自分がおびえるのみで人に危害を加える所までは行かないが、それが集団となるともう統制も利かず、理性も働かず、まるで獣に成り代わってしまうわけである。
その上、日本軍というのは豊かな軍隊ではないわけで、兵站という面で十分ではなく、勢い現地調達という仕儀になるわけである。
敵地の中で紳士的な現地調達ということはありえないわけで、その言葉の意味する所は、現地民からの略奪以外に道はないわけである。
それをしたものだから現地民から歓迎される事は全くなかったわけで、中国の側からすれば、共産党と国民党が手に手を取って抗日戦に踏み切るという事になるのもむべなるかなである。
日本の軍隊が天皇陛下の統帥権というものを拡大解釈して、これは「自分達が政府から干渉されるものではない」という屁理屈の上に胡座をかいているのを座視し、それを統御する事を怠ったのは政治家の側の責任ではなかろかと思う。
日本の軍部が手綱を切った暴れ馬のように奔走し出したのは1932年、昭和7年の5・15事件、1936年、昭和11年の2・26事件において、一部軍人のクーデターに対して毅然とした処罰が成されなかったからである。
政党人であるはずの犬飼毅が、天皇陛下の権利であるはずの統帥権というものを政争の道具にしたものだから、それによって葬り去られたようなものである。
この時期の政治家というものが、一部の軍人のクーデターに対して、もっともっと毅然たる姿勢で、軍部の跳ね上がりに対し反発しなければならなかったわけである。
しかし、彼らとてもこの統帥権という言葉に対しては、水戸黄門の印籠のように、それを正面から掲示されると意識が萎縮してしまって、民主主義と天皇の存在というものの峻別が理解不能に陥ってしまったに違いない。
その事は、その時代において、如何に天皇制というものが日本の人々の潜在意識として深く刻み込まれていたか、ということでもある。
まさしく金科玉条という言葉にふさわしく、その当時の日本人というのは、天皇陛下という言葉そのものに恐れを成してしまっていたわけである。
そして政党人も軍部も、はたまた官僚も、目的遂行の為には天皇陛下という言葉を出しさえすれば、物事が前に推進できたわけである。
これはまさにシャーマニズムであり、一神教の世界であり、神懸り的な統治であったわけで、こういう状況下で軍国主義的な志向が是認されていたに違いない。
そういう社会的背景のもとに、台湾とか朝鮮のような植民地において、日本の神社礼拝が強要されたわけである。
日本が第2次世界大戦を終了する際の条件として「国体の護持」という事を連合国側が認めることにより、日本は降服を承認したわけであるが、この「国体の護持」という字句も極めて曖昧模糊とした言葉で、その実体は一体どう言う事か、ということがわからないまま使われている。
「国体の護持」という字句を見てみると、なんとなく意味する所が分かるような分からないような不思議な言葉である。
天皇陛下の命を助ける事なのか、日本国民の命を助ける事なのか、日本の臣民を奴隷にしない、という事なのか、分かるような気もするが全く要領をつかめない言葉である。
これが日本の政治の本質である、と言ってしまえば事は簡単であるが、こういう曖昧さが日本を奈落の道に引きずり込んだ、ということも歴史上の真実で有ったわけである。
天皇の権威というものを、日本国民のあらゆる階層、階級、団体、組織で、自分の都合により、都合の良いように使って臣民を統治した、ということは紛れもない事実であったわけである。
教育の現場で、軍隊の指揮系統において、作戦遂行において、植民地の統治において、ありとあらゆるところで天皇の権威が利用されていたわけである。
まさしく「虎の威を借りる狼」という表現がぴったりと当てはまるわけである。
これと同じことは共産主義国でも同じように起きているわけで、国民を統治するということには、象徴としての何かがいるわけである。
日本の過去においては、それがたまたま天皇陛下であったわけで、第2次世界大戦後、1949年に誕生した中華人民共和国においては、それが共産主義であり、毛沢東であったわけである。
軍人・軍部が立憲君主制のもとで、主権者・天皇の言う事を聞かなかった、ということは今の表現で言えば、まさしく政治の腐敗以外の何物でもなかったわけであるが、そういう状況を醸成した背景というのは、やはり日本の貧困にあったといわなければならないと思う。
東洋と西洋のカルチャー・ショックの格差があまりにも大きかったが故に、我々の東洋、特に我々の祖国、日本というのは富国強兵を急ぎすぎたわけである。
そして政治家たちが一部の軍人の独断専行を許容した背景にも、やはり我々の貧しさというものが潜んでいたに違いない。

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