その12 国共合作とその悔悟

北伐と国共分離

民主的な近代国家では、主権の守護神として軍隊を常備することは普通の主権国家の在り方として普遍的な事である。
しかもそれは主権の延長としての整合性を持つわけで、主権国家と主権国家の紛争が話し合いでは解決できない時に、はじめて主権の延長として軍隊が動くわけで、軍隊というのはあくまでも主権者の政治の道具でなければならない。
それがシビリアン・コントロールといわれるもので、近代国家ではおおよそこの図式にのっとって政治というものが行われていたわけである。
しかし、そうは言うものの、この図式が成り立つ前提として、民主主義というものがある程度成熟しないことにはシビリアン・コントロールというのは成立しない。
第2次世界大戦の時のドイツ、イタリア及び日本というのは、民主主義というものが未成熟であったればこそ、軍国主義に蹂躙されたわけで、その意味からしても、共産主義社会というのは民主主義というものが存在していない以上、シビリアン・コントロールというものは最初から期待できないわけである。
そして北伐の途中で武装鎮圧した地方では、それぞれに地方政府を樹立している。
この頃のことを書いた参考書を紐解いて見ると
     1921年・  孫文、広東政府樹立
     1925年・  広州で中華民国国民政府樹立
     1926年・  武漢で国民政府樹立
     1927年・  蒋介石 南京に国民政府樹立
という記述が見れるが、これは一体何を指し示しているのであろう。
1912年に辛亥革命で孫文が起こした中華民国というのは一体なんであったのであろう。
孫文が諸般の事情で臨時大統領の座を袁世凱に清く渡した後の中華民国というのは、一体何であったのかと問い直したい。
1912年の中華民国と、1921年の広東政府というのは、どこがどう違のか我々にはさっぱりその相違が分からない。
おそらく政府樹立という意味は、行政のシステムが始動しかけたという意味ではないかと思う。
広東、広州、武漢、南京において行政サービスをする準備が出来た、という意味で政府樹立という表現がなされているのではないかと思うが、定かな事は分からない。
中国語の表現と我々の日本語のニュアンスの違いかもしれないが、いずれにしても統治機能が全く不完全で、これでは統一国家の体を示していない事は一目瞭然である。
それと清朝の従来の政府機構というのは、官僚の組織疲労によって行政システムが機能麻痺に陥っていたとしても、そこに住む人々というのは生き続けていたわけで、その人々というのはほぼ無政府状態のまま何ら管理される事無く生存しつづけたわけである。
ということは必然的に、そこには階級も復活し、貧富の差も存在し、労使の葛藤もあったわけである。
その上行政システムが機能していないので、教育とか福祉というものは全く存在せずに、人々は人間の持つ本能としての欲望のまま、自己の保存をしていたに違いない。
不思議な事に、こういう状況下に人が置かれると、人の本能というのは管理する側につくことよりも、野放図な管理の方向に傾くわけで、国民政府の軍隊に身を寄せるよりも、今で云うところのホームレスの方を好むわけである。
しかし、人が自己の本能のおもむくまま生きるということは、必然的に階級闘争を育む事にもなるわけで、貧富の差が自ずから生まれ、富める者は益々自己の保全に力を注ぐ、という欲求にかられるわけである。
そのためには日和見な発想に立って、自己の損にならない勢力に身を預け、保身を図らねばならないことになる。
国民党の蒋介石はそういう勢力を味方につける事に成功し、共産党の方はその対極の方向にある勢力を味方に引き入れようと画策したわけである。
この方針の違いがその後の国共分裂という事態を招き、それは同時に共産主義勢力が中国全土を席巻する事にもなるわけである。
蒋介石が共産党と袂を分かつ原因を作ったのはおそらく上海の労働争議の多発であったに違いない。
共産党にとってみれば労働争議というのは革命そのもののはずで、そういうものが全土で広がればそれこそ革命の時期が近づく事になるわけである。
国民党と共産党のこの相反する方針というのは何処まで行っても平行線を辿るのみで、決して交わる事はない。
国共合作というのは最初からこの矛盾を内包していたわけで、双方はお互いにこの矛盾を故意に避け、目先の利益のみ、目先の方便のみで、仮面を被っていたわけである。
その間、若き毛沢東は農村における研修機関において、若き共産党員を養成していた事になる。
ここで教育と研修を受けた共産党員は農村の各地に散って、共産主義を全国に広める役目を背負わされてことは論を待たないが、それはすなわち旧秩序の破壊に他ならない。
それと同時に、西洋のマルクス主義というものを書物によって会得した知識人というのは、先達としてのソビエットに留学したわけで、こちらはこちらで本場の共産主義というものを会得して帰ってきたわけである。
どちらにしても共産主義というのは中国の人々からすれば外来思想であり、元来中国の人々というのは外来のものには拒否反応を示すのが普遍的な事であるが、こればかりはどういうわけか素直に受け入れたところが不思議である。
中華思想というものが、この共産主義には反応せず、拒否行為に出なかったのが不思議でならない。
これにはやはり中国人の西洋コンプレックスが作用していたのではないかと思う。
18世紀から19世紀にかけて、西洋の先進国による植民地獲得競争に成す術もなく屈服した彼らの姿というのは西洋コンプレックスに他ならない。
ならばキリスト教も柔軟に受け入れても良さそうに思われるが、この時には未だ清朝政府というものが有効に機能していたわけで、その統治の方針として弾圧されたわけであり、統一国家の力というものは、こういう時に大きな力となるわけである。
日本で共産主義が政権を取れずに終わったのは、日本の統治する側がきちんとした施政方針をもち、共産主義社会を造ることに拒否の態度を示したからに他ならない。
それと日本人が元々持っている民主的な思考が重なり合って、日本では共産主義社会というものは建設出来なかったわけである。
ところが中国では、その地に住む大部分の人々が無知蒙昧な、無学文盲の大衆、民衆、庶民であったが故に、共産主義者が従来の社会の秩序を引っ繰り返す事に成功したわけである。
国共合作による北伐と、その後の国共分裂による共産党弾圧というのは、共産主義者が政権を取るまでの過渡期の出来事であったわけである。
上海の労働争議の多発に業を煮やした蒋介石は、その騒動の根源にある共産主義を弾圧する事を思い至ったわけであるが、そうなれば必然的に国共合作という仮面を被った協調関係は崩壊せざるを得なかった。
で、そういう経緯のもと、中国の共産主義者達は上海からかなり南に下った湖南の井岡山に逃れたわけである。
日本の場合はこういう時、「地下に潜る」とか、「潜行する」という表現を使うが、彼らにとってはそういう悲哀感はさらさらなく、アッケラカンと「逃れた」という表現が生きている。
「逃れた」場所が解っていれば、追い掛けて行って捕まえればよさそうに思うが、そういう風にならないところが中国の大人たる所以かもしれない。
毛沢東をはじめとする中国の共産主義者達が井岡山に逃れた、ということが知れ渡ると、ぞくぞくとそこに中国の共産主義者達が集まってきた、ということになっているが、これも実に不思議な事である。
彼らは蒋介石の弾圧を逃れて身を隠していたわけで、当然その所在は不明でなければならなかったにもかかわらず、共産主義者だけはそこに辿りつけ、蒋介石の討伐軍はそこに辿りつけない、ということも不思議なことである。
やはりそこには政治の本音と建前の使い分けがあったに違いない。
ある意味からすれば、蒋介石のもっている軍隊に共産主義者を討伐する気が最初から無かったのかもしれない。
こういう状況をアメリカのジャーナリストであるエドガー・スノウーという人物が取材して「中国の赤い星」という本をものにした事は周知の事実であるが、彼はこの時代の中国の共産主義の格好の宣伝者であったわけである。
本人が共産主義者かどうかは定かではないが、彼の本が出版されるや否や、それは世界中にセンセイショナルを巻き起こした事は事実である。
そもそも共産主義というものは一つの哲学である。
その哲学で以って国家を統一する事は、統治者の政治手法の一つであるわけで、世の中にはいろいろな哲学が無数に存在している中から、共産主義という哲学を採択するということは、一般民衆の総意というわけにはいかない。
民衆の総意で政治手法を選択するということになれば、それこそ民主主義の根本を実践する事になるわけであるが、そんな事は何処の主権国家でもありえない事である。
エドガー・スノウは毛沢東の実践する共産主義という政治手法を、さも未来を開くばら色の政治手法の如く世界に広めたが、それは政治的覇権争いの片方の旗を振ったのみで、もう一方の評価というものを無視した行為である。
ただし、ドキュメンタリーとしては優れた書物であったと思う。
共産主義という哲学は、マルクスとエンゲルスが、彼らの持つ英知と知性を結集して、頭脳の中で考えた理想社会を具現化しようというものである。
その前提条件として、ヨーロッパにおける封建制度を否定し、貴族の自由気ままな治世を否定し、新しい産業革命によって誕生してくる労働者階級というものを弁護する、という理想の具現化に他ならない。
優れた思考を持った人が、沈思黙考の末考え出した究極の思想、哲学なるが故に、これに正面から反発する事は安易な事ではない。
しかし、こういう優れた思考の持ち主が、考えに考えた思考なるが故に、一般の民衆・大衆・庶民が潜在的に持つ欲求というものを無視したところがある。
民衆・大衆・庶民が潜在的に持つ人間の本能に根ざす基本的な欲求というのは、少々金持ちになり、少々ゆとりを持った生活をし、少々立身出世がしたい、というささやかな願望であるが、マルクスとエンゲルスが「共産党宣言」を書いていた時代には、一般の人々にとってはこういうことは望むべきもなかった事は論を待たない。
毛沢東はそういう下々の人々の声を代弁していたわけで、その実現のためには既存の政府、さしあたり蒋介石の国民党というものを打倒し、自らが皇帝として君臨しない事には、その実現がおぼつかないという思考に陥っていたわけである。
共産主義というものは、日本も中国も同じ時期に、それぞれの領域に入ってきたが、日本では徹底的に弾圧されて共産主義国家というものは実現できなかったにもかかわらず、中国ではそれが実現し得た。
その事の背景の相違は、いわゆる行政システムが如何に緻密に全土に普及していたか否かの違いだと思う。
その事はロシアについても言えていると思う。
20世紀の初頭において、ロシアの全土に普及していた行政システムの不完全さが共産主義革命というものを成功させた要因だと思う。
行政システムの不完全という点ではロシアも中国も同じようなもので、そういう下地の上に共産主義というものが全土の民衆を席巻したわけで、民衆が無知なるが故に、共産主義という政権が成立し得たわけである。
知識人というのは相手を露骨に侮蔑する事をモラル違反と思い、そういう発言を極力しないように努力いしている。
だから持って回った遠まわしの表現をしているので要領を得ないが、端的に言えば、中国にしろロシアにしろ民衆がバカであったから共産主義というものが天下を取ってしまったわけである。
共産主義者の政治というものは、何時も「民衆を教育しなければならない」という言葉がついて回っている事から見ても明らかなように、それは民衆がバカだということを前提にして成り立っている。
そこには「基本的人権を尊重しなければならない」という発想は微塵も見られない。
私の考え方によれば「基本的人権を尊重する」ということは、人間を野放図にすると言う事と同義語であるので、本来ならば自由主義者が言うべき事のように思われるが、左翼系の人々がこの言葉をいうと如何にも反体制の雰囲気がかもし出されてくるから不思議である。
片一方の蒋介石の考え方というのも、古来の中国の潜在的な発想から一歩も出るものではなく、民衆というものをゴミのような扱いをしている。
彼らがそう思い込むのも、ある面では現実の彼らの生活がそうさせているわけで、人の形をしていれば、それの全てに基本的人権があると思い込んでいる戦後の日本の知識人の発想とは大きな乖離があるわけである。
人は文化的な知識を得ればその知識が大きく、又広くなればなるほど、「人は皆平等である」という真理に立ち帰ろうとするが、現実の人間の生活というものは、そうそう人の理性でコントロールし得るものではない。
「中国やロシアの民衆はバカだ」と言う事は、普通に教養のある人間には言いづらい事かもしれないが、現実にはそれが真実であるからこそ、国民党も共産党も、共にその民衆を味方に引き入れ、自分の地盤強化につなげようとしたわけである。
国民党に追われた中国共産党というというのは、拠点を次から次へと変えながら、無知な大衆を共産主義者に引きずり込んでいったわけである。
中国にしろロシアにしろ、共産主義者というのは今までの従来の価値基準というものを頭から否定しているわけで、いわゆる人にはそれぞれに欲望というものがあり、その具現化として自分の財産を維持し、出来うればそれを少しでも大きくしたいという願望がある。
ところが、こういう人間の基本的願望というものを全否定しているわけで、彼らにあるのは党内の立身出世乃至は党内の覇権争いしかないわけである。
いわゆる、自分の体以外に失うものが無いわけである。
こういう状況に置かれた人間というのは、実にさばさばした、すがすがしい気分に浸れるに違いない。
そういう人達といえども、他の人間を一まとめにして、ある一定の方向に方向つけようとすれば、そこにはある程度の「規律と秩序」というものは必然的に入用になってくるわけであるが、それも時がたてば「既存の規律と秩序」となってしまうわけで、そういうものを常に壊す事が革命であるとすれば、常に党の内部において新陳代謝が起きているという事になる。
事実、その後の中国の革命というのは、そういう軌跡を歩み、その中で毛沢東信仰のみが太陽系の太陽のように、不変の存在であり続けたわけである。
で、毛沢東が井岡山にこもると、そこに朱徳の引き入る軍隊が合流して、それが中国赤軍として認知される事になるわけであるが、これも私が常々言ってきた軍隊にして軍隊ではないただの武力集団に他ならない。
軍閥と同じレベルの集団でしかないはずである。
国民党の政府軍といえども、蒋介石が私物化してしまっているわけで、これも厳密には正規軍には程遠い代物のはずである。
しかし、今日の中国の現代史の中では、その辺りの定義をせずに、国民政府軍と共産党の赤軍という表現が罷り通っているような気がしてならない。
要するに、歴史というものが、物の本質を見ることなく、時の為政者の都合によって、どういう風にでも拡大解釈されてしまっているという事である。
毛沢東の根拠地である井岡山に朱徳が軍隊を引き連れて合流したということは、革命には軍隊という暴力集団が必然的に不可欠であるという事でもある。
人が人を黙らせるには暴力しかないわけである。
人は暴力が怖くて相手の言う事を聞くだけである。
この現実はまさしく人間の本来持つ自然な有様で、原始的な人間集団に他ならない。
主義主張というのは、その為だけの方便で、端的に言えば、頭の良い人間が他の人を服従させる為だけの口先の偽善でしかない。
しかし、そういうことを一般大衆に向かって赤裸々に表現すれば誰もついてきてくれないので、それでは困るわけで、共産主義者というのは全ての人民に幸福をもたらすから、今の金持ちを全部殺してしまえと吹聴して歩くわけである。
この発想は、共産主義の基本的な原理であるので、共産主義社会では金持ちというのは全否定されているわけで、人々の欲望というのは、ことごとく踏みにじられていたわけである。

外国の影響下にある中国

その前に、中国乃至はロシアの大衆・民衆というものには、人間としての人権も欲望も我欲も一切なかったからこそ、そういうものを押さえつけても不満というか、軋轢というものが生じなかったわけである。
元々財産というものを一切持たない人達にとって、既存の金持ちを殺す事に依存があるはずがない。
失う物の無い者ほど強いものはない。
しかし、この時期、日本は着々と中国への足がかりを作り、日本の生命線としての足場を築きつつあったわけで、日本が何故に中国に進出・進攻・侵略したのか、当時の日本の政治家及び軍人の思考というのは不思議でならない。
中国を日本の生命線と考えるその根底には、やはり当時の日本人が中国の人々というものを侮っていた事だけは確かだと思う。
それよりも、その前に、我々日本人というのは、ビッグ・プロジェクトというものを仕上げ、完成させ、民族の発展を末永く先の事まで見越して考えるという能力に欠けていた、ということを自覚しなければならないのではなかろうか。
そういうものを欠いたまま、目の前の中国人の姿だけを見て、これならばすぐにでも成敗出来る、と安易に思ったのかもしれない。
こういう日本に対して、中国国民党と中国共産党では日本に対する対処の仕方に相反する発想で以ってあたったわけである。
国民党の蒋介石は、中国内部を先に安定させてから日本に対処しようと考え、共産党はただちに抗日戦を構え、国内統一は後回しにしよう、というもので、日本に対する対処の仕方がまっこうから対立してしまったわけである。
こういう状況下であって見れば、中国の地に足を踏み入れた日本側としては、どれが自分達の敵か全く分からなかったに違いない。
中国共産党はゲリラ戦をし掛けてくるし、国民党はいるのかいないのかわからない上に、軍閥がいたり、馬賊・匪賊がいたり、どれが正規軍でどれが民間人かも定かでなかったに違いない。
1937年、昭和12年12月に起きた南京大虐殺というのも、こういう状況下で起きたに違いないが、この時の状況というのは、戦後50年以上も経過した今日でもその真偽の程が定まっていない。
日本軍が意味のない、無意味な殺傷をした事は間違いなかろうが、その数に関しては大きな疑問がある。
今まで縷縷述べてきたように、この時代の中国の状況というのは、国民党と共産党でさえ同じ民族でありながら血で血を洗う抗争を繰り返していたわけであるし、その上に中国各地には軍閥と称する武装集団は群雄割拠しており、共産党はゲリラ戦術で民間人の中にまぎれて抗日戦をしていたわけで、日本側としては真の敵が皆目わからなかったわけである。
その状況からして不必要な殺傷が多々起きたことは否めない事実であろうが、その前に、中国人が同じ中国人を殺しておいて、それを日本軍の仕業に見せかけたケースも多々あると思わなければならない。
恐らく南京大虐殺の犠牲者というのは、そういうものを全部内包した数字ではないかと思う。
その数字の中には、国民政府軍が共産党員を殺した数字も、共産党員が政府軍を殺した数字も、ゲリラがテロで殺した数字も、夜盗・強盗が民間人を殺した数字も全部いっしょくたにされた数字に違いない。
けれども現中国政府がそういうことを認めるはずがない。
外交の場で、自分の国に不利になるような発言が出来るわけがない。
よって今日まで彼らは被害者意識で以って、日本との外交にあたっている次第である。
日本と中国との関係は文字通り一衣帯水の間柄で、太古より関係しあってきたわけである。
我々の先祖というのは何時も中国の影響下で文化を発展させてきた事から考えると、我々は彼らを文化の師と仰がなければならない。
ところが明治維新の文明開花というのは、この立場を逆転させてしまったわけで、それはとりもなおさず中国側には日本の明治維新にあたる文明開化というものが存在していなかったためであるが、その事が彼らの自尊心に大いなる不快感を与える事になったわけである。
そこにもってきて、中国が共産主義で統一されて見ると、彼らにも民族意識というものが芽生え、主権の何たるかが少しずつ理解されてくると、その屈辱感を外交手段として利用するという、政治的に非常に狡猾な手法を講じてくるわけである。
この時代、第2次世界大戦の前の時代、中国国内が内戦に明け暮れていた時期においても、日本と中国の経済的な発展の相違というのは歴然としていたわけで、この差というのは日本が戦争に負けてからというのも何ら変わる事がなかったわけである。
中国と日本の外交問題として、日本というのは中国に対して取られてはならないものが多々あったにもかかわらず、中国の側というのは何一つ日本に対して譲歩を引き出すカードを持ち合わせていなかったわけである。
その為に、日本が中国で侵した南京大虐殺というのは格好の中国側のカードになっているわけである。
中国の側としては、このカードさえ出せば、日本の譲歩を引き出せるわけで、だからその為には、あの南京の大虐殺の犠牲者の数というのは誇大に宣伝し、自分達が同朋を殺しておいて、それを全部日本軍の犠牲者として十束一絡げにして、日本の負の遺産として外交のカードとして利用するわけである。
戦後の日本と共産中国の外交問題で、彼ら中国側の望むものといえば、金しかないわけで、その金を引き出す為には、日本が南京で中国人を何人も殺したというカードを利用せざるを得なかったわけである。
この日中国交の中で、彼らが望む金という問題においても、本来ならば戦争に勝った中国の側が豊かで、戦争に負けて、中国の利権を全て失ったはずの日本のほうが貧乏でなければならないはずである。
ところがそれも50年という年月の間に、戦争に負けた側の日本が金持ちになっており、勝ったはずの中国の側が貧乏になってしまったわけで、それについても彼ら中国の側は不快感を払拭しきれないでいるわけである。
第2次世界大戦の前にしろ後にしろ、中国の存在にはアメリカの影響を抜きには考えられないのも不思議な因縁である。
日中関係というのは日本と中国の関係だけに限られそうなものであるが、それがそうではなく、アメリカの存在を抜きに考えられないところが実に不思議な点である。
太平洋戦争というのは、日本の生命線としての中国の利権をアメリカが面白く思わず、それに関与せんとした点にその遠因があるわけで、中国独自の力では国民党と共産党が組んだとしても、日本の勢力を東シナ海に突き落とす事は出来なかったに違いない。
こういう歴史的背景を我々、戦後の日本人はよく記憶しておくべきで、日本では戦争の歴史が後世に語り伝えられていないといわれているが、中国側のお気に入りの歴史のみ後世に伝え、真実の歴史は忘れても良いということにはならない。
近世以降の中国というのは実に不思議な在り方をしていたわけで、あれだけの大きな国土を持ちながら、自分の国の存在感というものが常に外圧の影響下にさらされていたわけである。
中国に比べ日本は小さな国であるにもかかわらず、自主独立ということを身をもって体験しているのに反し、中国というのは常にその存在感が外国の圧力のもとに均衡を保つというか、不均衡の真っ只中に放り込まれているというか、外国の影響下にしか存在感がなかったわけである。
その原因の根本のところには、国土が統一されていなかったという点が大いに影響しているわけで、この不統一というのは第2次世界大戦後の中華人民共和国という共産主義国家を成立させた時点まで続いていたわけである。
日本が中国に進攻しだした時点では、中国の統一政府というのは名目上、中華民国であったはずである。
この中華民国というのは国際連盟でも認められ、連合国側の一員と認められていたにもかかわらず、毛沢東の共産主義者達は、その自国の存在感を自ら否認し、内戦に内戦を重ねていたわけである。
大戦も末期の頃になると、蒋介石の国民党の中でさえも内紛が勃興し、汪兆銘という分派が又新たな会派をつのり、これが日本と連携してアジアの平和ということを掲げてくるようになってきた。
この頃の日本というのは、中国への侵略の為の大儀名分を世界に向けてを掲げなければならない状況に陥っていたので、その為には日本の国益を表面に出す事よりも、アジアの自主独立を表面に掲げ、日本はアジアを開放する為に連合国と戦わねばならない、というスローガンを打ち上げるようになったわけである。
第2次世界大戦後の歴史というのは、計らずも大日本帝國が意図していたアジアの開放ということを現実のものとしてしまったが、これは我々の意図とは別に、世界情勢の推移で、あたかも日本がスローガンに掲げた世界が現出したかに見えるのも不思議な事である。
この第2次世界大戦後の世界情勢の推移の遠因には、日本があの戦争で西洋列強のアジアの支配力というものを添いだ、ということは忘れてならない。
これこそ我々の意図としたものとは違うわけで、我々の意図はアジアの盟主としてアジアを開放する、というものであった事も忘れてはならない。
それともう一つ不思議な事は、日本の満州国の建国という行為である。
これも実に不可解な事件である。
日本の軍隊が中国の地に新たな独立国を作ってしまう、ということは実に不思議な行為である。
20世紀の初頭という時期において、民主主義というものが世界各地で未熟であったことは否めない事実であるが、この満州国の独立を国際連盟から派遣されたリットン調査団が認めなかった、と言う事は民主主義の明らかなる具現化であったように思う。
満州国の建国及びその独立を促した日本の軍部、特に関東軍の行為というのは、如何なる視点・視野・角度から見ても民主主義の観点から程遠い行為であった。
日本における明治以降の帝國軍人、特に陸軍軍人においては、天皇の統帥権という事は身にしみて理解されていたに違いないが、満州国に関する陸軍、関東軍の行為・行動というのは完全に天皇の統帥権を侵しているわけである。
統帥権というものは天皇陛下が戦争をする権利であっで、天皇陛下の臣下としての軍隊が勝手に戦争をしていいという権利ではなかったわけである。
厳密にいうと天皇陛下が立憲君主たることを放棄して専制君主として毅然とする事を前提にして考えられた天皇の権利のはずである。
もう少し砕いて言えば、天皇陛下が立憲君主であればこれはシビリアン・コントロールにつながってしまうが、そうなってはならないというので統帥権というもので専制君主に仕立てようというものであった。
だからそれは天皇の権利であって、臣下としての軍部の側のものではなかったはずである。
それを当時の帝國陸軍及び海軍というのは、それを軍部の権利であるかのように拡大解釈していたわけである。
その事は言葉を変えれば、帝國陸軍、海軍の軍部というのが天皇を騙して、天皇の権利を自分達が使っていたということに他ならない。
これは日本側の事情であるが、中国側の事情というのも実に不可解な動きをしている。
満州国のあった地域というのは、そもそも中国東北部の地で、ここは元々張作霖の地盤であった。
つまり、軍閥としての張作霖が、自分の地歩を固めていた地域であった事から考えて、張作霖と蒋介石が相たずさえて協力し合えば、こういう事態は起きなかったに違いない。
ところがそれがうまく出来なかったので、張作霖が列車で自分の地盤に帰る途中に日本軍の姦計によって列車ごと爆破され、それが満州国の建国にまでつながって行く事になったわけである。
こういう経緯を考えればリットン調査団が満州国というものを認めなかったのもうなずけるわけである。
日本軍が張作霖を列車ごと爆死させたことは、どんな理由があるにせよ日本側に弁解の余地はないが、当時の日本の軍人がそうでもしなければならなかった事情というのは、もう一つ別の視点で見てみる必要はある。
つまり、中国のこの地に降り立った日本人の目から見た中国というのは、統治という行政システムというものが完全に機能していなくて、あるのは無法の状態としての荒野であったわけで、匪賊、馬賊、赤匪、夜盗、強盗、山賊の闊歩する原始社会と写っていたに違いない。
張作霖といえども山賊の頭ぐらいの認識で、そんなものは殺しても何ら罪悪感を感じない、という認識であったろうと思う。
中国の地というのは、この時点でも全くその通りの状況であったからこそ、国民党と共産党が手に手を携えて北伐を行い、その両者が仲たがいをしてからというものは、国民党が共産党を追い込んだ結果として長征という行為があったに違いない。
中国の大衆、民衆というのは基本的にその全てが馬賊、夜盗、山賊、強盗団であったわけで、それがそういう人々の生きる術であったわけである。
農業というものが確立せず、統治というものが不完全である以上、そこに住む人々にとって生きる術というのは、人のものを掠め取って生きるしか道は無かったわけである。
毛沢東が長征の途中で掲げた「3大規律と6項注意」という項目は、まさしくそういう人々の集団としての共産党軍・赤軍の兵士に対し「指揮官の命令で動け」とか、「人の物を取るな」とか、「借りたものは返せ」とか人倫の最低限の事を記しているわけで、逆に言えばそういうことを教え込まなければならないほど低級な人物で毛沢東の軍隊が成り立っていたということを如実に物語っているわけである。
この現実を戦後の日本のインテリ達はもう一度深く考えてみる必要がある。

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