その12 国共合作とその悔悟

共産主義・その12 2000・01・30

一般大衆の本質

この文章を記すにあたりいろいろな参考書を紐解いていることは前に記したが、それによると第1次国共合作というのは1924年となっている。
上海で中国共産党が誕生してから3年後の事である。
その3年間に国民党と肩を並べる程の大政党になるということは大変な事であったに違いない。
しかしそれには党員のみの努力でこういう状況を作り上げたわけではない、ということもあると思う。
例えば、新生ソビエッと連邦というものが率先して旧帝國主義的植民地支配というものを自ら放棄するという外部要因もあったに違いない。
そして徐々に顕著になってきた日本の中国進出ということも大いに中国の人々を共産主義に追いやった、ということが言えているように思う。
ところがもう一方の国民党というのは、革命を標榜しているとはいうものの、こちらの方は共産主義革命ではないわけで、その支持基盤というのは、いわば中産階級によって支持されていたわけである。
いわば現行政府、清王朝の残滓としての旧支配階級の不満分子の利益を代弁したグループであったわけである。
国共合作といえども、それは文字通り、腹を見せ合った忌憚のない提携ではないわけで、あくまでも一時的な政治的方便であったわけである。
日本という共通の敵を前にして、その対抗措置を先にするか、国内統一を先にするか、ということで意見の対立が生じてくる事は必然的な成り行きであった。
ここで頭角を表してきたのが黄埔陸軍軍官学校の校長として就任していた蒋介石である。
この蒋介石が北伐を開始したわけであるが、これを日本の状況に当てはめて考えてみると、戦前の日本には明治以降、陸軍幼年学校と海軍兵学校という軍の教育機関が設置され、そこの出身者は軍隊内において要職を占める事が慣例となっていた。
蒋介石が校長を勤める黄埔陸軍軍官学校というのは、日本にたとえればこの陸軍幼年学校や海軍兵学校に相当するもので、その学生を動員して北伐(国内平定とはいうものの)と称する行動に出るということは、我々には考えられないことである。
その前提条件として、北伐というものこそ、我々には不可解な事で、中国全土に軍閥が跋扈しているという状況が不可解千万である。
軍閥とはいうものの、その実体は匪賊・夜盗・強盗団などが、山や奥深い僻地に逃げ隠れていたわけで、そういうところまで行政システムが浸透していないということの方が不思議でならない。
中国大陸というのは日本の何倍もある広大な大地であるので、日本のようにきちんとした行政システムが採れない、という点では同情に値する部分もあるが、少なくとも国土の統一に際して、教育機関の人間を使うという点については我々の認識を超えた行為といわなければならない。
革命というのは、金と武器が無いことには成り立たないわけで、そう意味からすれば、孫文の中国革命同盟から発展してきた国民党というのは既存の中産階級から支持されていたわけである。
片一方の中国共産党というのは、それこそ無一文の農民から無手勝流で成りあがってきたわけで、その支持基盤というのは財産を何も持たない労働者や農民に支持されていたわけである。
金を持った者と、何も持たない者が一緒になって何か事を起こそうとしても、決してうまく行くとは思えない。
だとすれば、この第1次国共合作というのも遅かれ早かれ亀裂が生じるわけで、事実その通りの軌跡を歩んだわけである。
蒋介石が北伐に血眼になっているとき、毛沢東は農村の研修機関で農民達を共産主義に改造する仕事に携わっていた。
彼らの言葉でいえば、オルグを養成していたと言うわけだ。
中国人にとってマルクス・エンゲルスの共産主義というものは異質であり、彼らの観念からすれば、夷狄の考え方のはずで、それをすんなりと受け入れたという事は、中国人の行為として不可解千万であるが、事実はそうなっているので何とも説明がつかない。
毛沢東は共産主義と云うものが西洋人の考え出した哲学である、ということを伏せて教育をしていたのかもしれない。
この研修機関に集められた農民というのは、当然の事として、既存の中産階級の子弟ではなかったはずで、いわば無学文盲に近い若者であったに違いない。
我々日本人が中国と言った場合、自分達と同じように、その国民の全部が読み書きソロバンということが皆出来る、という固定観念で見がちであるが、中国においてはそれが出来るほうが少なくて、その大部分は読み書きソロバンということが出来ないのが普遍的である、ということを失念しがちである。
毛沢東が片田舎の研修所で農村の若者に教育を施していた、ということはそういう事であったわけである。
しかし、教育というものは、無いよりは有ったほうが社会にとってどれだけ有意義であるか、ということは論を待たない。
毛沢東が農村で若者に対して共産主義というものを教育した、ということはその後の革命に大いに貢献したに違いない。
ここで我々は大衆というもの、乃至は民衆というものをじっくり見なおす・見つめなおす事が必要だと思う。
1945年・昭和20年8月に日本が戦争に敗れ、その後、進駐軍・占領軍としてアメリカ兵を街で見掛けるようになった時、彼らの行く所にわれわれ日本の子供というのは何の当ても、ただなんとなくくっついていったものである。
それは元敵兵であったとしても、あのアメリカ人の屈託のない、陽気な雰囲気を漂わせ、時にはチュウインガムやビスケットを投げてよこす彼らの行為が物珍しくもあり、獲物に有りつきたいという願望と合わさって、我々、洟垂れ小僧は彼らの後を付けまわしたものである。
大衆心理というのはこの程度のものである。
軍服というユニホームを着た集団が整然と行進していると、なんとなく彼らの後についていけば余禄に有りつけるのではないか、という心理が自然発生的に湧き上がるもので、それが大衆心理の一番根源的な在り方である。
中国大陸に出掛けた日本軍に対して、中国人の側にはそういう彼らの心理は生まれなかったに違いない。
何となれば、当時の日本軍というのは常に最低の条件で行動せざるを得ず、物質面においても精神面においても、ゆとりというものがなった上に、我々の側に立てば、中国の土地というのはあくまでも交戦中の敵の土地・敵地にいるわけで、彼らの側にしても何時殺されるかわからない存在であったわけである。
しかし、北伐とか、その後の共産党の逃避行としての長征ということであれば、彼らにして見れば同朋であったわけで、国民政府軍としての兵隊が行進していれば、それにどこまでもついていく心理というのは必然的に湧き上がるのもむべなるかなである。
その上、国民政府軍の行進、行軍というのは、あくまでも極悪非道の軍閥を退治する、という大儀名文があるわけで、その行進を見た無知蒙昧な大衆というものが行進の最中にだんだん膨れ上がる、という状況は理解出来る。
戦後の日本においても、あの60年安保や学園紛争の時の騒動においても、当事者以外にこういう無責任な大衆が騒動を起こす側に荷担したケースが多々あったように思う。
大衆というのはこの程度のもので、ある意味で日和見であり、無責任であり、対岸の火事は大きければ大きいほど面白い、という心理が大衆心理である。
日本は明治維新以降というもの、学校制度を拡充して、日本全国津々浦々にいたるまで小学校、中学校というものを作って、教育というもの普及させた。
そうした努力をしたにもかかわらず、第2次世界大戦の最中において、日本の下級兵士の中でも読み書きソロバンのできないものがいた、という現実を知らなければならない。
あの広大な国土を持つ中国大陸において、教育の普及にいくら努力したとしても、全中国人が読み書きソロバンをマスターするということは、多分不可能に近いと思う。
大衆・民衆という場合、こういう無学文盲の人々を指しているわけで、毛沢東といえども、こういう階級出身であったわけである。
これは毛沢東自らが告白しているので、毛沢東自身、苦学立行の末、師範学校を卒業したとはいえ、こういう無学文盲の出身ということは生涯にわたってその性癖を修正しえなかったわけである。

主権の守護神

人は立身出世をすればそれにふさわしい品格が出る、と言われているが、それが出る人もいれば出ない人もいるわけで、毛沢東のその後の処世というものにはそれは出なかったわけである。
人間の持つ本質そのものが表面に出ているわけで、人間の品格というのは、そういう人間の持つ本来の性癖というものを如何に覆い隠すか、というのが教養であり知性であり、品位というものである。
戦後の日本人というのは、初等教育というものが国民の99%以上に普及しているので、無学文盲というものは存在していないかに見える。
確かに、ホームレスのような人でも新聞を読み、道路工事をしているような人でも週刊誌を読む事が出来るという現実は、日本には無学文盲は存在しないといえる。
しかし、彼らの精神はまさしく無学文盲で、赤裸々な人間の本能に左右されているのである。
日本国憲法で云うところの基本的人権という言葉は、人は人間としての基本的な本能のおもむくまま行動しなさい、と言う事を云っているわけで、基本的人権を尊重すると云う事は、倫理も、道徳も、公序良俗の風習も、従来の習慣も、伝統も、総て無視しなさいということである。
毛沢東が農村で若者に共産主義を教育したということは、中国4千年の歴史を全否定する事を教えたわけで、従来の社会秩序というものを全部否定する事を教えたわけである。
これは考えてみると実に恐ろしい事である。
我々の状況に当てはめて考えてみると、将来を担う若者に、今までの社会秩序をことごとく否定する事を教え込み、社会を転覆する事を教え込む、ということは自分の国家を否定する事にもつながるわけで、それが共産主義の本質でもあったわけである。
共産主義の先輩としてのソビエット連邦というのは、それを実施したわけで、ソビエット政権というものが出来るまでの間は、革命と反革命の渦の中で何千万人という人々が命を落としているわけである。
共産主義革命というのはそういうことであったわけで、中国の地でも同じ軌跡を歩もうとしていたわけである。
国民党と共産党が手に手を携えて北伐を開始したということは、夜盗狩りをするという大儀名分のもとに、革命と反革命の抗争に行きついたわけである。
政府要人とか、歴史家と云われる人々、知識人という人々というのは、基本的に高い学歴を持ち、高い教育を受けた人々である。
こう云う人々はどうしても象牙の塔に閉じこもりがちで、その結果として、一般大衆とは意識のずれが必然的に出来てしまう。
こう云う人々は、道路工事をしている人とか、工場で油まるけになって働いている人とか、暑い日差しの中で農作業をしている農民と同じ視点、同じレベルでは話が通じないわけで、それはどんな国家や社会でも共通の事である。
中国国民党と中国共産党を接近せしめ、国共合作の根底に流れていた思考は、この頃中国各地で起きつつある近代工業としての労働者の扱い方に、その根拠がある。
双方とも労働者を如何に取り込むか、という点で利害が一致したために、後に犬猿の仲となる両党が、一時的に提携したものと理解すべきである。
その動機が労働者の方向に向いている限り、毛沢東の出番は無いわけで、彼が農村で研修所の長として閑職に追いやられたのもむべなるかなである。
労働者を如何に取り込むのか、という問題は、いわば近代の政治の本質を問うもので、世の中の近代化そのものである。
工業というのは人間を集約的に使い、人間を集約的に使うシステムの中に、その人間を如何に効率的に使うか、ということがついて回るわけで、費用対効果というものを抜きには考えられないわけである。
これが近代以降の経済の基調のはずであるが、この基調を尊重するかしないかの違いが、資本主義と社会主義・共産主義の相違である。
資本主義を基調とする自由主義経済というのは、人間の労働とその対価との費用対効果の上に成り立っているが、社会主義・乃至は共産主義の政治というものはそれを全く無視した政治であり、政策なわけである。
で、1920年代の中国において近代工業が勃発してくると、都市に工場が出来、それに農村から人々が集まってきたわけで、その過程というのは世界の諸地域の発展段階と類似していたに違いない。
ところが、ここに集まってきた労働者というものの質が本当は問題なわけであるが、日本でも世界でも、世のいわゆる知識人というのは、こういう労働者に対して面と向かって「彼らは無知蒙昧の輩であった」、とは言い切れなかったわけである。
ロシア革命に対しても、中国共産党の勝利に対しても、あれは一般大衆の勝利、一般民衆の勝利という云い方をしたわけで、こう云う表現をされると、その大衆とか民衆というのは、それを指導した一部の幹部と同じレベルの人間達という印象を受けるが、その中身は無知蒙昧な人間の集まりであったわけで、狡す辛い一部の指導者が利用したそういう人々を出汁に使った、という側面が見えてこない。
普通我々が今使用している労働者という言葉のイメージは、サラリーマンというのと同義語として使っているが、この時代の労働者というのは、文字通り肉体労働に従事する人々のことをさしていたわけである。
肉体労働をしている労働者を卑下したり差別する気はないが、こういう人々は政治的に非常に無責任な立場にいる、ということは現実の問題なわけで、現代においても、日本の60年代の安保闘争、学園紛争、成田闘争等々の事例でも、この頃にデモに参加していた人々というのは、学生主体とはいえ労働者の振りをして、政治参加しているつもりで世の中を騒がせたいたわけで、決して政治に対して良心的な参加を目指していたわけではない。
ただただ人が騒ぐのが面白くて、デモの尻馬に乗って棒切れを振りましていたに過ぎない。
これが革命の本質なわけである。
革命家といわれる人達は、こういう人々を味方に引き入れて、既存の体制を転覆することを使命と思っている人々である。
日本でもあの時期、如何にも革命前夜の体をしていたが、デモの尻馬に乗って騒いでいた人々が、本当は真からの労働者ではなく、ある程度の知識階級であったが為、革命という最悪の事態を免れたわけである。
つまり、あの当時デモに参加していた人々というのはマルクスやエンゲルがいうところの真の意味の労働者ではなく、労働者の振りをしたインテリゲンチャであったわけで、それなるが故に本当の革命という事には踏み込めなかったわけである。
ある意味で、あの当時にデモに参加した人々というのは、革命ゴッコをしていたわけで、真からあの時代の政治体制、社会体制、経済体制と云うものを転覆する気は無かったわけである。
とはいうものの浅間山荘事件を引き起こした連合赤軍というのは真の革命を目指していたように見えるけれども、真剣にそう考えていたとしたら、それは彼等の頭がどうかしていたわけで、現状の認識が如何にも甘かったという他ない。
現状認識を見誤ったという意味では、戦前にアメリカと戦争をしでかした政府の要人のしたことと何ら変わらないわけで、それが証拠に壊滅させられてしまったではないか。
革命ゴッコが出来たと云うことの裏には、日本の戦後復興が功を奏して、真の貧乏人、真の労働者、真の無産階級というものが消滅したからに他ならない。
近代工業の発達の過程として、沿岸部に工業を起こせば、それに従事する人間を何処からか持ってこなければならないわけで、そういう必然性を満たすとすれば、農村の余剰人口を使うということにならざるを得なかったわけである。
この時代の農村といえば、教育を受けた人が皆無であった、というのは洋の東西を問わず、日本でも中国でも同じ情況を呈していたわけである。
そういう人々を自分の陣営に引き込みたい、という欲求は国民党も共産党も同じように持っていたわけで、国民党の方はそういう人材を自分達の武力の予備として取り込みたく思い、共産党の方は革命の主体として、いわば党としての運命共同体として取り込みたかったわけである。
その労働者、無産階級、無学文盲の集団を味方に引き寄せる事によって、旧体制を打破し、自分達の夢の実現に利用しようとする発想が、国民党も共産党も共通していたので、国共合作というものが成立し、又それが潜在的に内在していた事により、双方に軋轢が生じてきたわけである。
労働者、無産階級、無学文盲の輩の取り扱いのビジョンの相違が、この両党の分裂を引き起こすようになってきたわけである。
共産主義と労働者というのは切っても切れない関係なわけで、共産主義であるからには労働者を如何に結束させるかが大命題なわけである。
もう一方の既存の中産階級に支持されている国民党というのは、世の中が労働者の天下になっては逆に困るわけで、労働運動というものを抑制しようという作用が働く。
それが政治の場に持ち込まれてくると、両方を均等に両立する訳にはいかないので、どちらかに力点が移動してしまう事になる。
そういう状況下で行動を起こしたのは蒋介石の方で、彼は共産党の弾圧に乗り出したわけである。
この辺りの政治状況というのは、まさしく狐と狸の騙し合いで、それが政治の本質と言ってしまえば実も蓋もないし、まるで妖怪変化を見るようなものである。
その過程については私が生半可な知識を振りかざすよりもきちんとした資料を読んだほうが正確にわかるし、間違いがないのでここでは割愛する。
私の本旨としては、そういう状況を私自身はどう思ったか、という点に力点を置きたいので、そう言う細かい過程は省略して先に進みたい。
中国国民党と中国共産党が手に手を携えて北伐をすると云う事は、この時代の中国にはまだまだ征伐をしなければならない状況があったということである。
つまり、日本で云えば織田信長の全国統一がまだ未完の状況であったわけで、中国国内には軍閥と称する地方勢力が混在していたということである。
これを統一しなければならないという発想も、古代からの中国固有の発想なわけである。
日本の織田信長の全国統一というのは、日本という地勢的な条件のもとでの天下統一であったわけで、それを中国全土に満遍なく同じ事をしようとしても所詮無理な事であろう。
しかし、中国人の発想の中には、天下とは全国一律に統治すべきもの、という発想が抜けきれていなかったわけである。
後に中国共産党が1949年、第2次世界大戦後それを完了させたとはいうものの、その本質は真の統一とは程遠いものであるが、一応は自他共に中国統一という風に言われている。
今の時点でこの時代の中国というものを敷衍して見ると、この時期の軍閥の掃討ということは、民主的社会というものを全く無視した発想であるといえる。
元々中国には民主的という言葉・発想・思考がなかったわけである。
アメリカ合衆国というのは、こういう軍閥のような存在の者がステート・州として認められ、それを尊重することが地方自治という概念で捉えられていたわけである。
ところが中国では地方自治という概念すら存在せず、硬直した国家統治のノウハウを頑なに押し付ける事が国家統一である、という狭い狭量に浸っていたわけである。
アメリカ合衆国というのも中国に匹敵するくらい広大な面積を擁した国家である。
国家が広大であれば、ある程度地方の自主権というものを尊重し、国家としての締め付けというのは極力小さくしよう、という政治姿勢であるが、中国やソビエットというのは、それでは飽き足らず、どこまでも国家権力が浸透するようにしなければ収まらなかったわけである。
日本においては、織田信長が天下統一を目指し、それを引き継いだのが豊臣秀吉で、それを完璧にしたのが徳川家康であったが、それ以降続いた江戸時代というのは、地方の自治ということは、ある程度認められていたわけで、どちらかといえばアメリカ合衆国の政治姿勢に近いものであった。
ところが日本のような小さな国では、必然的に政治の場における中央と地方というのは比較的濃厚な密度になりがちであるが、国土が広い国ではそうはいかないのも尤もな事である。
中国においては日本のような士農工商という身分制度も未発達で、そのことはいわゆる封建制度というものが十分に発達し切れなかったわけである。
日本はほぼ単一民族であったが、中国では50もの民族が混在している事から考えれば当然の事かもしれない。
しかし、アメリカの合衆国というのは、人種の壁を越えてステートを作り、それが寄り集まって一つの国家を作っていることから考えれば、出来ないわけではなかろうにと思う。
やはりそれにはその地に住む人々の政治意識と政治感覚の違いではなかろうか。
国共合作の末、北伐を開始したといえば、歴史の表現としては、如何にも新しい政治に向かって一歩を踏み出したという感じを受けるが、その実情は同胞に向かって新しい殺戮を開始した事に他ならない。
前にも記述した事があるが、国民党という政治集団が自前の軍隊を持つということがそもそも人の道に外れているわけである。
同時に、共産党という政党が赤軍という軍隊を持つことも同じである。
この過ちというのは、政党と政治というものの峻別が全く意識されていないというところにあると思う。
その事は、すなわち民主政治というものを全く理解していないということに他ならない。
これはその後に共産党の政治になっても全く同じ轍を踏んでいるわけで、彼らには民主主義という概念すら未だに醸成されていないといって良いと思う。
中国人の中にも外国の事情を知っている人も多々いたに違いないが、そういう人々が民主主義というものを中国の人々に宣伝する事をしなかったに違いない。
孫文にしろ、蒋介石にしろ、周恩来にしろ、朱徳にしろ、汪兆銘にしろ、彼らは外国で生活した経験を持っているはずであるが、そういう経験が一向に実を結んでいない。
その事は、彼らが学んだ外国の経験を、自らの保身にだけ応用して、自分の国の国民を教育するという方向に向かわなかったためと思う。
よって中国4千年の歴史の繰り返しのみで、政治の局面に一向に近代化の兆しが見えないわけである。
政党が軍隊を持つということも、何とも言いようのないぐらい不可思議な事である。
我々の一般的な概念からすれば、軍隊というのは主権者の軍隊であって、政党の持つ軍隊というのは私兵としかみえない。
地方の軍閥の持つ私兵と同じなわけで、この状況というのはまさしく無政府状態と同義語なわけである。
清朝末期から中国共産党が全中国、台湾を除く中国大陸において、中華人民共和国が出来るまでの間というのは、まさしく無政府状態であったわけである。
だからこそイギリスが租界を作り、フランスが租界を作り、日本が利権を得ようと躍起になり、ロシアが利権を失うまいと躍起になったわけである。
蒋介石が黄埔軍官学校の校長におさまるまでは何とか我々の理解の範疇に入るが、彼がその学生を自分の指揮下に入れ、子飼いの軍隊にしてしまうという事になると、もう空いた口がふさがらないという感じがする。
こういうのは政治手腕とはとうてい云えないが、中国ではこういう手合いが掃いて捨てるほどいるわけで、後に共産党が国民党と仲たがいして井岡山に共産党の拠点を築くと、そこに出来た赤軍というのもこれと同じ成り立ちで、国民党に対抗して中国赤軍が出来たともいえるかもしれないが、これも共産党という政党が軍隊を持ったわけである。

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