その11 中国の共産主義

歴史を人間の尺度で見る

辛亥革命というのは孫文の御膳立の上に、袁世凱が中華民国誕生という成果を横取りしてしまったわけで、国共合作というのは新生・新中国の中で、国民党が共産党を取り潰す作用をしてしまったわけである。
国共合作の中で出来た黄埔陸軍軍官学校の校長としての蒋介石が覇権を手中に納めてしまい、反共政策に転じてしまったわけである。
利用価値のあるものは、適宜自分の都合により、都合の良い時だけ使うというのは一般論としては政治の基本あろうが、この蒋介石の政治手法というものは、極めて中国的な政治の基本を示しているものといわなければならない。
そこには恩も、義理も、人情も、倫理も、儒教も、道教も、何一つ精神の糧として通用するものが存在せず、あるのはあくまでも蒋介石個人の欲望追求でしかない。
これは日本とか西洋列強に対する裏切りなどというものではなく、彼ら中国の同朋に対する裏切りでもあるわけで、中国の歴史というか、政治の状況というのは、常にその敵が彼らの同朋、つまり中国人に向けられている所が不思議であり、前近代的なところである。
この項を進めるにあたり、中国の近代史に関する参考書を2,3紐解いてみたが、1921年・上海のフランス租界の一廓で中国共産党が結成され、そこに毛沢東が湖南省の代表として出席していたということは記述されていたが、この当時の中国において、共産主義というものがどういういきさつ、及び手法で以って毛沢東ら進歩的な人々の間に認知されていたのか、という点が今一つ説明不足の感がある。
ロシア革命というのは云うまでも1917年の事で、1921年という年には新生ロシアではゴスプランとかネップと称する新国家計画が始動しだし、その反面クロンシュタットの反乱などという反革命の動きなどもあったわけで、そう云う動きを毛沢東らがどういうルート知り得、認知して行ったのかという点に関する記述は不足している。
その前に5・4運動という反乱騒動が中国全土を席巻していたということは重々認知しているが、こういう動きというのは、中国の場合日常茶飯事の事で、それがきっかけとなって改革が成就したという説明にはならないわけである。
中国共産党の誕生というのは、改革の成就というよりも、改革の始動というべきであることは論を待たないが、あの精神の荒廃した中国の人々の間に、共産主義というものが浸透するということは、よくよく考えてみると不思議な事である。
共産主義というものがマルクス・エンゲルスの「共産党宣言」に書かれている事を真から認め、それを心に糧にしようということは、中国人にとっては画期的なことである。
毛沢東がマルクス・エンゲルスの共産主義を心の糧にしうるならば、他の中国人にとっては他の思想、重商業主義、植民地獲得競争としての帝國主義、日本の天皇を頂点とする明治維新の精神を受容する、等々の選択肢もあったに違いないが、そう云うものは中国の近代史には全く登場していないわけである。
全く登場していないというのは言葉のアヤで、清朝末期の近代化の試行錯誤というのは、そういう西洋思想の具現化であったのかもしれない。
そういう試行錯誤が、具現化の結果を出し得なかったが故に、そこの部分が空白になったのかもしれない。
しかし、マルクス・エンゲルスの共産主義というものが今日の中華人民共和国の根底の基盤になり得たが故に、今私が疑問を持った事が認識の奥に閉じ込められてしまったのかもしれない。
1921年といえば日本の年号では大正10年、日本の近代化も頂点に達し、逆に近代化の矛盾が露呈しかかった時なわけで、そういう時期に、上海のフランス租界の中で中国共産党が最初の産声を上げたということは微妙な事で、何とも奇妙な感じを受ける。
共産主義というものが基本的に既存の社会制度を否定するというものである以上、地球上のあらゆる主権国家では、そのまま受け入れを容認されないのも致し方ない。
自分達の今までの既存の社会的秩序、社会的価値観などを御破産にするという考え方を容認しうる為政者というのはありえない。
街頭で演説をしている分には差ほどの被害はないが、これらの人々が組織を作り、行動を起こし、政治に割り込んでくるようになれば、既存の体制としては放置しておくわけには行かなくなるのは洋の東西を問はない。
当然、体制側としては圧迫を加えることになる。
清王朝とイギリスとのアヘン戦争というのは1840年のことで、日本の明治維新というのは1868年であり、この間には中国においても日本においても西洋の文化・文物を真似するというか、模倣するというか、追い付け追い越さねば、という発想は当然双方に自然発生的に湧き上がったに違いない。
後から西洋の文物に接触をした日本のほうが、先に洗礼を受けた中国よりも早く近代化に脱皮したということは、やはりその根っこの所には民族の相違というものが存在していたと見なさなければならない。
そういう環境を踏まえて、この1921年に初めて上海のフランス租界で中国共産党が産声を上げたということは大きな意味があると思う。
逆にいうと、フランス租界でなければならなかった、と云うところにも大きな問題があったように思う。
フランス租界というのは、中国の領土内におけるフランスの主権地域で、ここに起居する人間には、中国の官憲の手が入らない領域なわけである。
中国の土地でありながら中国ではないと云う事で、こういう地域が中国の上海にあるということそのものが、中国の主権が蔑にされているということである。
中国にしろ、日本にしろ、西洋列強に接した当初には、こちらの不案内なるが故に、先方の口車に騙されて、こういう領域を承認せざるを得ない状況というのはある面では致し方ないところがあった。
しかし日本の方では、そういうものを一刻も早く是正しなければならないという認識のもと、外交努力の結果、明治維新後には総て是正されたわけである。
ところが中国では、そういう租界が中国国内の到る所に有ったわけで、、日本も同じように上海には租界を設けていたわけである。
この時代の西洋列強が帝國主義的な植民地主義に凝り固まっていたとは言うものの、実に不可解な事に、この治外法権の象徴の「租界を撤去してくれ」という要求を列強の1ヶ国に認めさせさえすれば、後は連鎖反応式に他の列強もそれに応じてくれるというのは実に不思議な現象である。
この時代の西洋人が、今の国際感覚のようなものを身に付けていたとは思われないが、一国でも治外法権を返上してくれれば、その後に続く者が現れて、何がなんでも我侭一杯に振舞うという西洋先進国が無かったのが不思議である。
日本の場合はそういう外交努力のもと、大正時代まで西洋列強の租界が残っていたということはなかったが、中国の場合は、この時代までそれが存続していたわけで、この事実は中国人がそういう努力を怠っていたと云うことの明らかなる証明である。
逆にいうと、日本に対しては西洋列強といえども、早い時期に「舐めてはかかれない国」である、という認識が醸成されており、中国に対しては何時までも舐めたままでかかっていたわけである。
1840年のアヘン戦争から1921年の共産党の誕生までの間に、中国においても西洋列強の文化・文物というのは日本と同じ程度に入っていたに違いない。
それにもかかわらず、そういうものを素直に受け入れようとする心のゆとりというものが彼らにはなかったのではないかと思う。
確かにキリスト教などの浸透もあったけれども、そういうものを受け入れた側が、それによって当局の対抗勢力となってしまったが故に、結局は締め出されてしまい、線香花火的な流行で終わってしまったようである。
自分の国に外国の租界があるということは、その国の統治能力が欠けている証拠でもあり、その国の治安がしっかりとしていれば、進出してきた国の領事館なり、政府の機関が、自国の武力で以って自分達の周囲を守らなければならない状況というのは存在し得ないわけである。
「租界」という言葉も今の日本では死語になっている感がするが、これを現代の時代状況に合わせてみると、横浜の中華街を韓国の軍隊、北朝鮮の軍隊が警備しているという構図になる。
世界各地にあるチャイナ・タウンというのはその土地の、つまり主権国家の主権に守られて中国人が勝手に集まっているだけの事であるが、「租界」というのはそのテリトリーを守っているのがその中の人々の主権の延長であるところの軍隊が守っていることである。
よって土地を提供している側の主権が及ばないわけである。
いわゆる治外法権という物である。
中国では国内の治安が悪いがため、進駐してきた諸外国は、自国民の保護という大儀名分のもと、治外法権の地域、租界というものを作らざるを得ない事になるわけである。
明治維新によって日本は西洋の思考方法を学び、日本の社会をそれに近つけようとする努力を、相手方・西洋列強に見せつけるという方法論で以って、明治時代の外交努力としての不平等条約の撤廃ということがあったわけである。
上海に1921年という時まで租界が残っていたということは、清朝政府及びその後の中華民国政府の西洋列強に対する認識が甘かったわけで、同時に中国の人々の自助努力の欠如でもあったわけである。
第2次世界大戦後の日本人というのは、こういう物の見方、中国に対する素直な感情の表現というものを意識的に避けている。
戦後の日本人は、中国に対しては何か贖罪意識に苛まれて、当たり前の事を当たり前として見ずに、日本が悪い事をした結果として、今日の中国があるというようなゆがんだ視点で見がちである。
上海のフランス租界で誕生した中国共産党は、その後政党として国民党と並ぶ政党に成長したわけであるが、国民党にしろ、共産党にしろ、中国の政党というのは、我々の視点からすると、どうもスッキリ我々の政党という概念とマッチしない。
政党と政府というものが同一視されているという点が実に不可解千万である。
その意味では、旧ソビエット連邦の政党としてのソ連共産党も同じことがいえているが、こういう絶対政権においては、全体主義政権においては、政党と政府がオーバー・ラップしてしまっている。
日本は戦前も戦後も政党政治であったので、その意味からすれば、日本の民主主義・政党政治というのは明治維新後から切れ目なく継続していた事になる。
そういう環境の中で生育した我々日本人から、中国の政党なるものを見てみると、中国においては政党すなわち政府という構図になってしまっている。
中国が清の王朝を滅ぼし、ようやく近代化の端緒を見つけたばかりで、近代の民主主義に目覚めていないという状況を斟酌したとしても、孫文に見るように、十分に西洋の近代民主主義を体得した人物は居たわけで、それでもそういう意識が国民的な、民族的な広がりを持てなかったというのは、やはり国民性によるものとしなければならないのではなかろうか。
1921年に上海で中国共産党が誕生したと思ったら、もうすぐその翌年には国民党と国共合作に走っているわけで、これを我々はどう解釈すれば良いのであろうか。
中国国民党と中国共産党の前には、日本を初めとする西洋先進国の植民地獲得競争が眼前で展開されており、中国の主権がいともたやすく侵されていたわけである。
特に日本は、この双方の共同の敵であった、ということは彼らの立場に身を置いて見れば理解しえる。
しかし、このことが原因で、中国の民衆が心を一つにして、政治的に二大分化したとは思われない。
中国の民衆が、自分の祖国のために、政治的に心を一つにして事にあたるということは、最初から信じられないことである。
そこにあるのは、目の前の状況をどういう風に自己の利益に結びつけるか、という発想ではないかと思う。
洋の東西を問わず、政党というのは政党員になるということだけでは食えないわけで、他に生業を持ちながら政党の業務をしなければならない、という制約があるはずで、政党員になったからといって、それで人々の生活が成り立っているわけではないはずである。
民主主義社会における政党活動というのは、基本的にこういうシステムが普遍的なはずであり、総て世の大部分の政党というのは、党の機関要員以外は総て生活の片手間に政党活動を行う、というのが近代社会の態様ではないかと思う。
こういう状況から考えて見れば、党が軍隊を持ったり、独自の軍幹部養成機関を持つということ自体、不可解なことといわなければならない。
こういうことが可能であったということは、政党というものの認識が、この時点ではまだ未熟で、政党とは如何なる物か、という認識が不充分であったが故に、軍閥と似たり寄ったりな団体に終わってしまったわけである。
もっと根源的に表現すれば、民主主義そのものが理解不充分であったというべきである。
物事の発達段階では、未熟から成熟して頂点に達する、という流れがあることは承知しており、それは歴史そのものである。
この事が歴史そのものである、ということには万人が納得しているように思うが、ならば、この歴史の流れというものには、善悪とか、正邪とか、非道とか、不道徳とか、人間の価値観を差し挟んで評価する事は極めてナンセンスな事だと思う。
ところが今日の日中の関係では、日本側も、中国側も、この歴史に人間の価値観を挿入して、間違っていたとか、過ちを犯したとか、人間の尺度で歴史を評価しているきらいがある。
この国民党と共産党の共闘を実現せしめたのは、孫文とソビエット連邦・コミンテルンから派遣されたヨッフエとの会談で、孫文が共産主義に妥協したためである。
孫文が考えている革命も、共産主義が唱える革命も、同じ革命である以上、現行の体制を否定するという点では共通する部分があるのは当然の事で、問題はその後に何を築くかという点に重点が置かれなければならなかったわけである。
ところが、ここに焦点を当てず、先に現行の体制を倒す事にばかり焦点が向けられていたので、その後には混沌とした状況しか残らなかったわけである。

北伐という統一運動

中国国民党と中国共産党が協力して最初にやりかかろうとした事は北伐である。
国共合作の目的は西洋先進国との不平等条約の改正であり、日本に対する進攻阻止であったはずであるが、その目的の前に、自らの同朋を撃つという方を先にしてしまったわけである。
日本を初めとする諸外国の外圧に協力してあたろうという、最初の目論みから外れてしまえば、当然連携の意思は離反し、相互の不信感が募るのは当たり前の事である。
この時期に到っても北伐をしなければならない状況、つまり中国内部に軍閥の跋扈が残っているという状況からして、もう既に如何に民主化の度合いが遅れていたのかを表している証拠である。
言い方を変えれば、主権国家の体を成していないということである。
この時代の中国を一言で言い表そうとすれば、どうしてもこういう結論に行き付かざるを得ない。
国民党と共産党の共闘の目標が、自国民の討伐,、自分と同じ民族の平定、同朋に銃口を向ける、という状況は革命そのもので、その意味では革命としての本質を具備しているが、国家の形態、政治の視野から見れば、こういう状態というのは中国のこの時代の現実が統一国家として、主権国家としての体をなしていないわけで、そういう状況が目の前に展開していれば、この隙に自国の国益を伸張しておきたい、という資本主義としての欲求に触発されるのもある意味では致し方ない事である。
これは歴史の流れであって、必然の結果である。
この時の日本の立場というのは、この時代に日本という主権国家が置かれた国際環境の中で、日本としての最大、最高の国益は何であったのか、という点からすれば、それは混沌とした中国大陸において、日本が産業を起こし、日本も中国も共に裕福になる道を模索するというものであったに違いない。
戦後の日本の知識人というのは、この時代の日本の中国に対する措置を、私利私欲・中国人を搾取するだけで、富の狩場ぐらいにしか思っていなかった節があるが、当時の中国大陸の状況からすれば、その時代の日本人がそう思い込むのも致し方ない。
今、様々な資料を見開いて、中国の状況を調べていても、事ほど左様にこの時の中国の状況というのは混沌としていたわけで、日本が相手の主権を侵すも侵さないも、先方の方に既に主権そのものが存在していない状況であったわけである。
近代の主権国家であれば、国家の主権者は、仮に国民であったり、王様であったりしても構わないが、国を代表するものが誰であるのか、ということがはっきりしない事には主権国家たり得ない。
その事はすなわち、行政システムがきちんと確立していなければ主権国家たり得ないわけである。
18世紀から、19世紀にかけて、西洋列強が中国の海岸線に押し寄せてきて、好き勝手な事をした時、これを撃退する、又は代表同志が話し合って好き勝手な行為を制限する、という処置が行われてはじめて主権の存在ということは明白になるわけである。
外から押し寄せてくる力に対して抵抗する、乃至はきちんと話し合う状況というのは、ある意味で行政システムとしての政治の力を内包していない事にはそういう処置がありえないわけで、この時代の中国というのはそういう力を消滅させてしまっていたわけである。
20世紀の初頭においても、中国国民党と中国共産党が協力しても尚且つそれが実現し得なかったということは、ひとえに中国の人々の本質そのものである。
この状況を中国の地に住む人々の本質として理解する事は少々気の毒なような気がしないでもない。
人間の方に問題があるのではなく、中国という巨大な大地の方に問題があるのかもしれない。
あのアジア大陸という地球上で一番広大な大地を、一つの統一国家にしなければ、という点に問題があるのかもしれない。
そこには50以上の民族が生きているわけで、それを一つに統一するということは、基本的に無理な事かもしれない。
それを思えば、中国の置かれた現状を、我々が揶揄する事は的外れな行為かもしれない。
過去の文明というのは、地球上の一部において地域的に隆盛しただけの事で、一つの大陸が面として同一の文化・文明で覆われた事は人類の歴史ではありえなかった事から見ても、地球上の文明というものを享受することなく生きている人々というのはいるわけである。
統一国家というものは小さな面積であれば均一の文化・文明で覆われた国というものもありうるが、地球規模で大陸というものを視点に入れると、一つの大陸が同一の文化で総て覆われるということは考えられない。
ならば毛沢東の共産主義というのは如何にして中国全土を席巻しうることが可能であったのであろうか?
国民党に取り入って国共合作を成し、国民党の内部に入り込んで、その栄養分を吸収する事によって寄生虫の如く、中国国民党の本質を抜け殻の如くしてしまったわけである。
中国国民党と中国共産党が手に手をたづさえて北伐を開始するということは、綺麗な言葉で言えば、中国を統一するための行為と云う事が言えるが、それは実に夜盗狩りに過ぎない。
私の基本的概念からすれば、この時期の中国の軍閥といえば、今の日本の言葉で言えば暴力団か、夜盗軍団にしか思えないが、そういうものを平定するとなれば、これは織田信長の日本平定の行為と何ら変わるものではない。
20世紀の初頭の中国において、日本で云うところの江戸時代の前の政治状況であったとしか言い様がないが、これは一つの視点であって、別の言い方、見方をすれば、軍閥の存在というのは地方自治の一形態という見方も出来る。
アメリカという国は51の州が寄り集まって合衆国という統一国家を成している。
20世紀初頭の中国においても、いくつかの州に相当する地方組織が集合して中華民国という統一国家を成すものとすれば、北伐というものの意味が生きてくると思われるので、中国国民党と中国共産党も最初はそれを目指したものと理解しなければならない。
ところがここで不幸な事には、中国の人々には民主主義という概念が全くなかったわけで、自分達の政治的指導者を自らが選び、自らが選択するという概念も意識も皆無であったのである。
地方の首長も、暴力で以って首長の座を獲得し、暴力で以ってそれを維持し、政治というのは常に上から下に命令するものである、という太古からの中華思想の呪縛から一歩も抜け出せないでいたわけである。
北伐を開始するという行為は、地方の軍閥を取り潰して、誰が統一国家の帝王になりうるか、ということであったわけで、中国の政治状況が20世紀の初頭においても太古の意識のままであった、ということは彼の地に住む人々の不幸の根源である。
同時に、中国の大地に住む人々、庶民、一般大衆、農村の人々にとっては、政治というものは日常生活にとって何んらかかわりの無い事であったのかもしれない。
人間の欲望というのは、新しいものに接した時に、好奇心が触発されてはじめて欲望が起きるわけで、新しいものとの接触という刺激が無かった場合は、人間の欲望というのは全く起きないわけである。
こういう人々というのは、日常生活が波瀾に富む事自体が恐怖なわけで、平穏無事な生活さえ出来れば、それで満足するわけである。
自分達の生活さえ安泰であれば、政治が国民党であろうと共産党であろうと何ら関係ないわけである。
自分達の政治が軍閥に牛耳られていようと、日々の生活さえ安泰であれば一向に構わないわけであるが、この平穏無事な環境の中に一旦政治というものが割り込んでくると、彼らの生活は極度に脅かされるわけである。
政治をする側としては、そういう人々の心など全く無視して、己の意のままにそういう無辜の人々を管理しようとするものだから衝突が起きるわけである。
北伐というのは中国の奥地に向かって進んでいくわけであるが、海に面した地方では遅れ馳せながらも殖産工業が定着し、各地に工場が出来つつあり、労働者も徐々に増えつつあったわけで、これは日本でも全く同じ経過をたどったわけである。
ところがこういう状況の中に共産主義というものが入ってくると、労働争議というものが必然的に蔓延してくる。
労働者にとってはストライキ権というのが必要不可欠なもの、という概念が近代以降現代に到る人々の中に刷り込まれているが、これも実に不思議なことである。
共産主義では経営者と労働者というものを対比させて考えているが、これは人間の本来持っている欲求というものを、人の集団としての階級というものに置き換えた視点であり、人間の持つ本来的な欲求というものを、人の理性でコントロールしようとする不遜な思考ではないかと思う。
単純化して考えれば、金を持っている人間は産業を起こし、より金儲けしようと知恵を絞り、工場を作るわけで、これは本来人間の持っている根源的な欲求なわけである。
それに反し、労働者というのは金儲けにつながる原資というものを持たないから、自分の労働を資本家に売って生きているわけである。
経営者側は自分の気に入らない労働者を何時でも首切りする事を権利として持っているわけではなく、個人の基本的欲望として、気に入らない人間からはその労働力を買いたくないというものである。
ところが労働者側は、自分の気に入らない仕事はサボタージュする事を権利として持っているわけである。
労使関係において、使用者側は手足を縛られたままで、労働側は自分の気に入らない仕事は勝手にサボタージュする事を権利として持つと云う事は、いかにも不均衡で、人間が本来持つ欲求というものを蔑にする発想である。
共産主義というのは金持ちが金持ちであるというだけで、富める者が富んでいるというだけで、生きる権利を封殺しようとし、労働者側は貧乏であるからこそ、仕事をサボって憚らない怠け者でも、人権を保護しなければならない、という偽善的な思考に陥っている。
労働者側にストライキをする事が権利として認められているとすれば、経営者側には当然ロック・アウトする権利というものがあって然るべきであるがそうはなっていない。
資本主義の未発達な時代には、金持ちというのは自分の私服を肥やすために工場を運営し、労働者を搾取するという手合いもいた事は事実であろうとも、今日においては工場を運営するということは、社会的な貢献という意味合いもあり、私利私欲ばかりではないはずで、労使強調路線というのが社会的に一番容認しうる形態となっているはずである。
20世紀の初頭においては、経営者側も未熟で、労働者側もスト権の乱用ということもままあったに違いない。
労働者がストをすれば、経営者側としてはなんとかストを解除して通常の生産体制をしきたいと思うのは普通であり、そういう手段を講ずる事になる。
ここで話し合いで事が解決すればトラブルは無いが、話し合いで解決出来るぐらいならば最初からストは起きないわけで、ストをすると云う事は最初から武力闘争をするつもりで事にあたっているわけである。
そしてその事は共産主義の定理となっているわけで、共産主義である限り、こういう常套手段を講じてくるのが当然の帰結である。
こういう状況こそ共産主義者の最も好む状況なわけで,こういう状況なればこそ、暴力革命の本質を遺憾なく発揮出来るわけである。
20世紀の初頭の中国大陸には既にこういう状況は完全に熟成していたわけで,国共合作というのも当時の中国の為政者同志の狐と狸の騙し会いの域を出るものではなかったわけである。

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