その11 中国の共産主義

共産主義・その11 中国の共産主義  2000・01・23

共産主義の芽生える条件

日本の明治維新は1868年の事である。
その日本が維新後の文明開化で力をつけ、最初の対外戦争に挑戦したのが日清戦争であったわけであるが、これが1894年・明治27年の事で、その後の日露戦争が1904年・明治37年の事であった。
この明治維新後の日本にとって最大の実力行使という歴史的事実は、どういうわけか中国の革命においても大きなつながりがある。
日清戦争においては、この年、孫文が「興中会」というものを結成し、日露戦争の際には、同じように東京において「中国革命同盟会」を結成していた。
これは実に不思議な因縁といわなければならない。
いずれも中国側から見て、敵の領域内において自国の革命を画策する行為であったわけで、我々、日本人の感覚からすれば、このような愛国心を踏みにじるような行為は考えられない。
この時代、日本人も中国人も、それこそ新天地を目指してアメリカに移住した人が多かったが、これら移住した先の日本人が、自分の祖国を滅亡の危機にさらしかねない革命を画策すると云う事が考えられたであろうか。
孫文らの行為はこれを具現化したものである。
既に何度も述べているが、中国の人々にとっては、自分の祖国の主権と云うことが、彼らの民族の思考の中に存在していないかのようである。
一般論として、中国人という概念は、我々日本人の、自分達だけの概念であったのかもしれない。
言うまでもなく、中国という広大な土地は、単一の民族で構成されているわけではないので、漢民族のみが唯一の主権者であるわけでもなく、そういう意味からして、彼らには国家主権という概念が希薄なのかもしれない。
清という国家からして、中国大陸に住む漢民族からすれば異端者であったわけで、その清帝國がいくら危機に陥ろうとも、漢民族からすれば隔靴掻痒という感じで、痛くも痒くもなかったのかもしれない。
それを海を隔てた単一民族であるところの我々の価値観で眺めていると不可思議な現象と見えるのかもしれない。
日露戦争に関して言えば、彼らの土地で日本とロシアという国家が争っているわけで、自分の領土内で外国の軍隊が戦争するのを許すということなど、まさしく主権の存在そのものが無いに等しいわけで、実際問題として、この当時の清帝國には主権そのものが諸外国にとって全く無視されていたわけである。
日本もロシアも、お互いに中国の主権というものを無視して、この地域で戦争をしていたわけである。
問題は、こんな状況を許さざるを得なかった中国の側にあったわけである。
祖国で革命を起こして、祖国の再興を願っている者が、外国、しかも敵国のなかで祖国の足を引っ張る事を画策するということほど不可解な事も無い。
この孫文の興中会は、その後中国革命同盟会を経て、中国国民党と成長して行き、様々な紆余曲折の後、1912年・大正元年・中華民国が成立させるところまで辿りつきはしたが、孫文の足場は非常に軟弱であったが故に、袁世凱にその主導権を譲らねばならなかった。
そしてその袁世凱は、旧体制の意識を払拭しきれない、まがい物であったわけで、革命は一歩前進、二歩後退という有様であった。
袁世凱がまがい物であったと云う事は、旧体制の象徴としての皇帝を、退位にまで導いた孫文達の実績を踏みにじるような行為に出た事ではっきりしている。
中華民国の成立と同時に、孫文達の率いる国民党を解散させようとまでした所にそれがはっきりと表れているわけで、この時には既に中国国内には反革命の機運が蔓延しており、袁世凱の足元を脅かすようになっていたわけである。
日本は、この中華民国という中国大陸に出来た新生主権国家を比較的すんなりと承認していたが、それも後に屈辱的な要求を付きつけるための方便であったのかもしれない。
日本は1915年・大正4年に「対華21か条」と云うものを彼の地に付きつけたわけであるが、こらは今から思えば明らかに日本側の慢心した思い上がりに他ならない。
これを契機に、彼の地では対日感情が悪化するのもむべなるかなという代物ではあるが、そこにはやはり日本には日本なりの条件があったと思わなければならない。
その第一は、やはり中国は弱い国である、という我々の側の思い上がりが大半を占めるものであろうが、それにも周囲の状況というものが、そういう風に思い上がらせる条件を整っていたように思う。
日清戦争では自らの力で相手・中国を負かしているわけであるし、日露戦争では西洋列強の中でも最強の陸軍・軍事力を持った国・ロシアを負かしているわけで、そういう実績が我々の側に思い上がった思考を形作っていたことは否めないと思う。
それと同時に、中国という国は、こちらが押せばいくらでも相手が引っ込むという、過去の実績から推し量って相手を見くびる思考に陥ったことも事実であったに違いない。
で、袁世凱というまがい物の中国の大統領も、この日本の差し出した横車には妥協せざるを得ず、それによってますます同胞の侮蔑を招くという結果を自ら引き起こしたわけである。
国内ではお山の大将でも、日本を始めとする近代的な主権国家の前には虚勢を張ることが出来なかったわけである。
袁世凱が中国の土地でお山の大将であったとしても、中国の弱みに付け込んで日本が専横を極めるという発想は、中国側の事情とは別の次元の問題であったように思う。
戦後、事あるごとに、日本は共産中国から戦争責任の反省が足らない、という内政干渉紛いの苦情を呈されているが、この対華21か条の問題にその根源があるように思う。
中国の人々も日本の人々も、国というものは民族というか、下々の人々の集合で出来あがっているわけで、こういう人々の集団というものには、しばしば集団的ヒステリーというものが起きるのが人類の歴史の中には必然として存在しているようである。
日本が1915年・大正4年に中国に対してこういう高飛車な態度で無理難題を押しつけたということも一種の集団心理と解するほかない。
理性的に考えれば、これほど相手を傷つける発想もないわけで、当時の日本の政府の為政者達にそういう理性が欠けていたとしか言い様がない。
つまり、当時の日本の為政者にとっては、中国を屈服させて日本の支配下に置く、と云う事が日本の生き残る道とでも写っていたと言うわけである。
それの裏返しの現象として、同じような集団的ヒステリーとして、今日の中国が今日の日本に対して戦争中の反省を強いるのは、その事によって今日の中国共産党の誇りを強調し、日本に対する優越感を得んがため、日本から少しでも借款を引き出すため、中国共産党の為政者達が画策している政治的なパホーマンスである。
後に日本が満州事変を引き起こした時にも、日本側の言い分では、満州は日本の生命線であるということが言われたわけで、その発想の嚆矢が既に対華21か条の中に潜んでいたわけである。
そしてその発想は、日本においては第2次世界大戦の終了の年・1945年・昭和20年まで30年間も日本の内部では生き続けたわけである。
我々がこういう思い上がった発想に陥ったのも、中国の側にあまりにも近代国家としての自覚が無く、大陸そのものが烏合の衆の群雄割拠の状況を見て、そのような土地ならば、日本人が行って秩序ある主権国家を作ったほうがアジアにとってはベターではなかろうか、という思考も働いていたに違いない。
事実、その後大東亜共栄圏という発想が我々の側には起きてきたわけである。
この発想の根源にある思考は、アジアを一つのまとまった地域とし、西洋文化、キリスト教文化圏と対抗し得る勢力にしなければという発想で、中国の現況を見るにつけ、我々の側ではますます顕在化してきたわけである。
今この時代を振り返って見ると、日本が中国に対してこのような高飛車な態度に出たということは、自分の実力というものを全く知らない者の発想で、相手の現況ばかりを見て、自分の方の浅慮に対して全く無関心であった結果である。
兵法の基本に、「相手を知り己を知れば百戦危うからず」という格言があるが、相手の現況に幻惑されて、自らの力を知らなかったばかりに軽率な発想に陥っていたわけである。
それよりも前に、この当時の我々の為政者には、人としての倫理観に欠けていた節がある。
他人を見くびる、見下す、侮蔑する、ということは既にその事からして、人としての倫理観に欠けているわけで、そういう意味で、この当時の日本の為政者というのは、日本という国家を将来奈落の底に突き落とす要因を含んでいたわけである。
そして日本はその通りの軌跡を歩んだことはその後の歴史が示している。
この時代において、中国の側にも遅れ馳せながら西洋の近代文化・文物に追従して、中国の民を以って近代化の波に乗せようと努力した人々は当然存在していた。
それはまだ清朝が曲りなりにも機能していた時に、自らの欠点を正し、西洋列強に追いつき追い越せ、という意気込みで改革に乗り出したものの、多勢に無勢で、旧弊の輩に押しつぶされた、という形で歴史の表面を飾ることなく消滅してしまった。
日本の明治維新と時を同じくして、曽国藩とか李鴻章という人達が、清朝という、腐敗したとはいえ現体制の元での改革に努力しては見たものの、それは結実することなく雨散霧消してしまったわけである。
日本の明治維新の時と同じ頃に、海の向うの中国でも、同じような近代化への努力がなされていたにもかかわらず、日本ではそれが成功し、中国ではそれが失敗に終わったしまったわけである。
この事実を以って、それこそ民族の資質の問題と言ってしまうと実も蓋もないが、中国の側ではその失敗の原因を謙虚に研究・究明する必要がある。
日本の側はその成功によって奢ってはならなかったわけであるが、そこで奢りに奢ってしまったのが我々の先輩諸氏であったわけである。
中国の側の失敗の原因というのは、やはり腐敗堕落した官僚制度の組織疲労であったことは確かである。
既にこれまでも何度か繰り返して述べてきたように、中国と言う土地に根ざした人々の生き様というものが、公共の福祉という観念よりも、個人の至福の追及というところに重点を置いた発想にその源があるように思う。
人々はそういう気持ちで日々暮らしている中で、官僚制度というものが十分機能しないということは当然の成り行きで、その民族に根ざした発想を根本的に修正するということは、民族の滅亡しかないわけである。
この年代の中国史を紐解いて見ると、実績としては、ほとんど我々の明治維新の殖産工業育成というものと同じ事をしているが、それが結局は実を結ばないまま終わってしまっている。
同じ事が片一方では成功し、片一方では失敗するということは、それに携わった人々の資質の問題とせざるを得ない。
この現実を目の当たりにした当時の日本人が、中国人を蔑視するのもある面では致し方ない事ではあるが、基本的には日本人の側に、他人、他民族、自分と異なる民族を思いやる心根がない、という人としての基本的倫理観が欠如していたとしか言い様が無い。
しかし、これを世界的に視野に立て眺めれば、日本人だけの欠陥ではなく、西洋先進国、西洋列強というのはもっともっと徹底的な差別をしていた事を考えれば、我々の抱いた優越感などというものはいわば茶番劇に等しい。
中国側の心境としても、紅毛碧眼の西洋人から差別される事は天命でしかないが、同じ黄色人種の日本人が、彼らの優位にたつ事には我慢ならない、という屈折した心理が作用していたとしか説明がつかない。
よって日本が対華21か条というものを中国側に付きつけた時に、彼らは日本に対して従来にない敵愾心に駆り立てられたわけである。
この時の中華民国大統領であったところの袁世凱というのは、これに対処するについて、なかなか巧妙な手口を用いて、この内容を故意にリークして、西洋列強の援護射撃を期待した節がある。
しかし、西洋列強も中国以上に抜け目が無く、この問題が基本的に中国と日本だけの両国間の問題である事から、積極的に関与する事を遺棄してしまったわけである。
西洋列強にして見れば、日本のやり口にいささかがめつさを感じたとしても、自分の方の利害が損なわれるわけでもない以上、火中のクリを拾う事を避けてしまったわけである。
事ほど左様に、この時代の中国の政治状況というのは、中国のみの政治だけでは収まりきれなくなってしまったわけで、その中でいよいよ共産主義の浸透というものが広範に広まってくるわけである。

国共合作の不思議

1921年・大正10年上海のフランス租界で、中国共産党というものが産声を上げて、そこには若き日の毛沢東も出席していた。
しかし、この1921年という年に始めて中国に共産党というものが誕生したとしたら、日本共産党と足並みをそろえて誕生した事になる。
ちなみに、日本共産党の誕生はその翌年の1922年のことである。
この時代の中国にしろ日本にしろ、共産主義というものが人々の心に夢と希望を与えるには最適の環境であり、状況であったことは否めない。
この時点で日本と中国の状況を見比べて見ても、それは全く同一の状況であったわけで、民衆の購買力というものは全く存在し得ず、人々は食うや食わずの生活を何とか維持するのが精一杯であったわけで、そういう状況のもとに、統治する側の変革の波は次々と押し寄せてくる、という状況は日本も中国も同じ立場に立たされていたことになる。
中国の方をより厳しい状況に追い込んだ要因があったとしたら、それは我が日本の軍事的圧力といわなければならない。
この時代の中国の民衆というのは、国内の統治というものが完備していないので、自らの民族の内部の敵とも戦わねばならないし、西洋列強とも戦わねばならなかったし、日本という新たな帝國主義とも戦わねばならなかったわけである。
その苦労は察して余りあるものであるが、日本はそういう状況を横目で見ながら、それを他山の石とすべく、ああいう風になってはならないと言うわけで、富国強兵が国民的合意になってしまったのである。
しかも中国においては、フランス租界の中でなければ共産党の設立がかなえられなかった、ということはそれなりに中国の事情を炙り出していると言う事に他ならない。
翌年の日本の共産党誕生というのは、あくまでも非合法という枠の外での誕生であり、共に共産主義というものを既存の統治機構が安易に容認しないということが前提にあるが故の陰の存在であった。
この時代の中国の人々が一番憂いなければならない事は、自分達の土地に諸外国の租界が存在するということであったはずである。
それと同時に、租界を許さざるえない彼ら中国の国力の脆弱さを憂いなければならなかったわけである。
これまでにも様々な抵抗運動があったにもかかわらず、それらがことごとく失敗したという自分達の失敗の原因の追求でなければならなかったわけである。
中国の土地を蚕食して、自国の殖産工業の興隆を図ったのはなにも日本だけの悪行ではなく、当時の西洋先進国はことごとく同じ事をしていたわけで、そういう状況を許したのは、ひとえに中国自身の国力の弱さに他ならなかったわけである。
国内がきちんと統治されていない限り、こういう状態は是正されるべくもなく、中国のあらゆる地方が、好き勝手に中央政府の意向を無視して行動をすれば、西洋列強に勝てる道理もない。
いわゆる中国の全体をカバーするナショナリズムというものが存在せず、その土地土地に根付いた土着民が、その日の日その利害によって、その場の状況に応じて、西洋列強の武力の前に妥協していたわけである。
そういう状況下であってみれば、遅かれ早かれ共産主義というものが蔓延してくる事は世界の歴史が指し示しているが、それを具現化したのが、この時代の中国の現況であったわけである。
この中国を蚕食していた西洋列強の中で、ロシアという国は1917年にロシア革命を経て、その2年後にコミンテルンを創立した。
このコミンテルンというものは、いわゆる共産主義の輸出を図る趣旨のもので、そういう状況下でロシアというのは中国に対する不平等条約というものを全面的に放棄してしまった。
つまり、ロシア革命によって誕生したソビエット政権というのは、旧来のロシアとしての中国内の国益というものを全面的に放棄してしまったわけである。
これはロシア人によるロシアの国益の放棄に他かならず、ロシアの共産主義者が自分達の国益を放棄して、党の利得のみを追い、既存のロシアの主権というものを自ら放棄した事になり、いわゆる自分の属する国家に対する裏切り以外のなにものでもない。
これは中国の側からすれば、棚から牡丹餅が転がり落ちてきたようなもので、これほどの天佑はまたと無い事であった。
そういう状況が目の前に現出したものだから、中国国内で一気に共産主義というものの人気が上がってしまったわけである。
ソビエットが中国に対する不平等条約を破棄したということは、ソビエット体制というものが既存の国益よりも、共産党としての党利、党の利益を優先させる、という共産主義者固有の使命感によるものと思う。
ロシア革命前の日露戦争においても、ロシアの構築した旅順の要塞と言うのは、そうそう陥落する代物ではなく、日本軍も大いに苦戦を強いられたにもかかわらず、内部から共産主義者が崩壊させた節がある。
兵士の士気も、食糧も、弾薬の備蓄もかなりあったにもかかわらず旅順が陥落したのは、内部で共産主義者が反乱を企て、ロシアの国益を自ら貶めよう、という意図のもとに旅順は陥落せしめられたという話がある。
このことは日本側の歴史として、難攻不落の旅順の陥落が、日本側の努力の結果ではなく、内部崩壊であった、ということは非常に認めたくない事実であったわけで、そう言う事がもし事実であったとしても、歴史の書き換えということは非常の面白くなかったに違いない。
であるからして、そういう見方をしていないだけの話で、内実は案外内部崩壊の話が本当であったのかもしれない。
これはとりもなおさず、ロシアの現行政府、ロマノフ王朝の衰退に拍車を掛ける事であり、革命のための予備行動であったわけである。
その後、革命に成功したソビエット連邦というのは、従来のように西洋列強の一員として維持していた中国内の不平等条約と云うものを一切合切破棄する事により、中国内の共産主義の人気というものを格段に向上させたわけである。
しかしその後1949年、中華人民共和国が誕生した後では再び同じ権益を要求し、獲得している。
そのことは共産主義の敵であるところのロマノフ王朝の遺産としての中国の権益は放棄したが、自分達が共産主義国家を作った後では帝國主義的領土拡大の欲望に応えたわけである。
彼ら共産主義者というのは、既存の秩序というものを頭から否定しているわけで、従来の国益・旧体制下の国益というものは眼中に無かったわけである。
とにかく共産党さえ繁栄の道に乗っていれば、個の至福も、民族の至福も、国家の至福も一切関係ないわけで、党さえ安泰であれば、その他の事はどうなったって構わない、という思想が根底に横たわっている。
このことは、つまり新生ソビエット連邦が、旧ロシアが中国に持っていた総ての利権を全部放棄してしまったことにより、孫文の率いる国民党の考え方に大いなる影響を与える事になったわけである。
国民党しても、共産主義者達と共闘する事が可能ではないか、という幻惑に陥るわけである。
ところがこの国民党というのも、孫文の率いた純粋の組織ではなく、最初の方は袁世凱が中華民国の正式大統領に就任した際、強制的に解散させられてしまっており、共産党と仲直りをした国民党というのは、その後再び孫文が起こした、中華革命党が国民党に改組されたものであった。
こういう経緯のもと1923年・大正12年・第1次国共合作が出来て、日本に対抗すると云うことで中国の意思統一が完成したかに見えた。
国共合作という言葉は、歴史の中でもうすでに既成事実として定着してしまっているので、今の我々の思考からは何ら違和感を伴わないが、よくよく考えてみれば不思議な事である。
日本に対抗するための、その場限りの緊急措置的な和合としてならばいくらか説得力があるが、それにしてもその後の経緯は緊急避難的な要因など垣間見ることなく、宿縁のライバル意識が研ぎすさまれるばかりで、ただたんにかりそめの平穏をむさぼって時間稼ぎをしていただけという感がする。
日本はこの時、第1次世界大戦の結果として青島を確保しつつあった上、既に21か条の対華要求を着きつけていたわけであるし、あれやこれやの利権獲得の意図が見え見えであったので、そういう外圧に対して、犬猿の仲であろうとも当座の方便としての国共合作も致し方ない事情であったのかもしれない。
しかも、この国共合作の実情というのは、我々には考えも及ばないような有様が展じられていたのである。
我々、日本人の政治感覚からすれば考えられないような事が起きていた。
その最たるものは、その翌年1923年・国民党は黄埔陸軍軍官学校というものをつくっている。
この中で、その校長には蒋介石が収まっており、教官の中には周恩来がいたわけで、その後の中国大陸の歴史の中に登場してくる両陣営の首脳同志が、同じところで、同じ目的に向かって突き進んでいたわけである。
そもそも我々日本人が不思議に思う事は、政党が軍隊を持つということがどうにも理解できない。
ロシア革命の後に出来た赤軍というのは、ソビエット共産党の軍隊であったし、今ここで述べる国民党の軍隊・国民党政府軍であれ、中国共産党の赤軍であれ、政党が軍隊を持つということは、我々が政党に持つイメージと、世界で通用している政党のイメージというものは隔絶しているのではないかとさえ思う。
しかし、西洋先進国の民主主義国においては、政党が独自の軍隊を持つなどということはありえないわけで、その意味からすれば、我々の認識は間違ってはいないわけである。
政党が自前の軍隊を持つということは、いわば武装集団としての軍隊というものを私有化している事に他ならない。
その後の歴史の経緯を見ればそれは明らかであり、政権を維持しようとすれば、その背景に暴力の象徴としての軍隊と云うものを保持しない事には、政権そのものが維持出来ない、という彼の地の根源的な思想が存在していた事になる。
清王朝が崩壊した時点で、あの中国全土に軍閥が跋扈していたのと同じ状況なわけである。
地方であろうと、統一政府であろうと、政権を維持すると云う事は、強力な武力集団としての軍隊というものの後ろ盾が無い事には、政治そのものが成り立たないわけである。
中国のこういう状況というのは、その軍隊が自らの外からの圧力に対抗するという事よりも、内なるエネルギーを押さえる方向に向いているわけで、その軍隊の持つ暴力の矛先というのは、日本とか西洋列強に向いているのではなく、自らの同胞であるべき中国の民衆に向けて対峙していたわけである。
同じ事は中国だけの問題ではなく、ソビエット連邦でも同じであったわけで、日本でも明治維新の革命の時期には同じ情況を呈していた事は否めないが、それは統一国家というものが出来あがる前の事で、過渡的な現象であると言ってしまえば、その整合性を取り繕う事も可能である。
国共合作の目的が、浸透してくる日本の勢力に対抗する為、という大儀名分はある程度理解できるが、何故日本だけが彼らの敵愾心の中にあり、アメリカやイギリス、フランスという、いわゆる西洋列強は彼ら、中国人の敵愾心の的にされなかったのか、という点が不思議である。
この時代の日本の対外政策、つまり外交というのは実に稚拙で、中国人を全く舐めてかかったということは、我々は今後とも大いに反省しなければならないことである。
が、しかし、中国の方でも、日本が西洋列強と同じことをしているにもかかわらず、日本にだけに敵愾心を抱くというのは全くナンセンスな事である、ということを自覚すべきである。
この背景には、中国人の持つ日本に対する優越感と、西洋人に対する劣等感が相乗的に作用しているように思う。
国民党と共産党が一つになるということは、今日の日本の政治状況からするととても我々の思考の中では捉えきれない事である。
戦後の日本の政治状況では、自由民主党と日本社会党が一つになるということは考えられない事であるが、戦前においては、大政翼賛会という政党の統一ということがあった事を思えば、必ずしもありえないとはいえないが、それでも大政翼賛会と国共合作というのは一つの枠では括りきれない態様である。
日本の歴史を紐解いて見ても、戦前の政党が大政翼賛会として大同団結したということは、日本の進路を誤らせた元凶である。
政党が大同団結したから日本の政治が道を踏み外したのか、日本の民衆の心根が誤った方向に向いたので、政党が大同団結したのか、どちらが卵でどちらが鶏であったかは定かではないが、政党が一つに集約するということは、基本的に民主的な政治を曲げてしまう事になる。
共産党政権というのは他の政党を認めないという点で、民主政治とは隔世の存在である。
この時代の中国においては、当然の事として民主主義の萌芽すらなかったわけで、その有様というのはアメリカ大陸にピュリタンが入る前のネイテブ・アメリカン、いわゆるアメリカ・インデアンが各部族で地域、地域に群雄割拠していた状況と同じであったわけである。
アメリカ・インデアンというのはアメリカ大陸で統一国家を作る事はなかったが、アジアに住んでいたネイテイブな人々、いわゆる中国人として一括りにされた人々は、過去に何度も統一国家もどきのものを作ったけれど、国土の奥行きがあまりにも深かったが故に、完全なる統一ということは果し得なかったわけである。
よって彼らには民族意識というものが育たず、基本的にナショナリズムという概念が育たなかったわけである。
ただそこに住む人々にとって、心の拠り所となっていたのは、自分達は漢民族の後裔で、漢民族というのはこの大陸で一世を風靡した過去があるが故、優れた民族である、という自尊心のみであったわけである。
そういう彼らの目から見た日本とか朝鮮というのは、東方に住む夷狄、つまり野蛮人としか思っていなかったわけで、その野蛮人としての日本が、頭ごなしに対華21か条のようものを付き付けてくれば、怒り心頭に来るのもむべなるかなと言わなければならない。
そういう状況下で中国の人々でさえも、この混迷の時期に自分達で覇権争いしていても、相手を利するだけだと気が付いたわけである。
で、国民党の中に共産党を取り込んで、一応は一枚岩になったつもりでいたが、今までの確執をそうそう綺麗さっぱりと払拭する事が出来ないのが人間の業であり、その節理を脱する事が出来ないため、その中で再び覇権争いが復活してきたわけである。

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